胡児(こじ)の泉●1971年・西方旅行記ー噴水と広場の国々 第7回
★レニングラード
6月14日(月曜日)曇り
11時半、レニングラード空港に着陸。
空港を出ると、外気が冷たい。鳥肌が立つくらいだ。内陸部のモスクワが暑かったのに、北寄りのバルト海に面し、ネヴァ川の河口に位置するレニングラードは、夏と言っても寒冷だ。
インツーリスト社手配のタクシーが待っていて、乗り込むと同乗者がいた。オーストラリアから来た中年男性の旅行者で、開放的で愛想が良く、僕を日本人だと知ると車中、日本の経済発展や日本製品の優秀さを、盛んに褒める。悪い気はしない。
ニ十分ほど走ると、市街区域に入った。帝政ロシア時代の首都だけに、モスクワよりも整然たる街並みだ。大小あまたの運河や水路によって、計画的に造られた水辺都市であることが分かる。“北のヴェネチア”と称えられるように、景観には一種冷厳な都市美が感じられる。
正午過ぎ、イサク聖堂前の広場の一隅に建つ、アストリア・ホテルに到着。当地筆頭の超高級ホテルで、ヒトラーが独ソ戦勝利の暁には、ここで祝賀の宴を催す日を夢想した、と伝えられるほど著名。
内部に入ると、たちまち帝政末期の暗鬱にして華麗なムードに包まれる。広大なウクライナ・ホテルに比べると中規模だが、装飾・調度・備品すべてがシックで、伝統と格式を誇るに足る。三島由紀夫氏が、リスボンのホテル・リッツを賛美した文章を、以前に読んだ覚えがあるが、この瀟洒なホテル・アストリアに遜色があるとは思えない。
チェック・インして、与えられたのは四階の111号室。明るく広い部屋で、立派なベッドがニ台並び、窓の向こうにイサク大聖堂と広場、その広場の中心にあるニコライ一世の馬上像が見渡せる、絶好のロケーションである。
部屋には、調和と落ち着きがある。外国人旅行者は別扱いだが、普通ならニ十歳台の若者クラスでは宿泊できる場所ではない。これからの安泊まりの日々を想像すると、こんな素敵な部屋にニ泊できるのはラッキーだ。
すぐに一階のレストランに降りて、昼食になる。同席者が一人いて、日本人男性の旅行者。お互いに自己紹介すると、同志社大学法科・助教授の藤倉皓一郎氏で、昭和九年(1934)生まれ、と告げられる。僕より八歳年長だが、すでに確固とした中堅の法律学者で、一年間の米国留学を了え、ソ連経由で昨夕当地着、明晩モスクワに向かい帰国されるよし。氏は「ソ連では海外からの一般旅行者は、モスクワニ泊、レニングラードニ泊と決められているようですね」と言われる。
昼食が始まったが、これが何ともスロー・テンポ。スープの皿が引かれたあと、メインの器が運ばれるまで、あくびが出るほど待たされた。当地はモスクワよりも万事に西欧式と聴いたが、やはり大陸風の悠長さに変わりはない。
やっと出たチーズ・パイも味気なく、13時半過ぎ、どうにかランチ終了。一泊されている藤倉先生は、「ホテルとしては宜しいが、サービスは今ひとつですな」と仰有る。ー
14時45分出発のバスでの市外観光まで予定が無く、一時間ばかりホテルの周辺を散策する。
イサク広場にも、運河に沿った街路にも、昼下がりなのに人通りが少なく、歩道で露台を引くアイスクリーム売りの姿が、わずかに目立つくらいだ。この眠るような“水の都”の静寂は、美しいが侘しい。
表通りはともかく、裏通りへ一歩入ると、不使用のビル、壊れた壁や窓ガラス、傷んだ道路、あちこちに堆まれた瓦礫の山が目を射る。
その寒々しい風景は、さながら昭和ニ十年代後半あたりの、かつての日本の戦後都市のムード。どうして未だ、こんな状態なのか、胸を衝かれるものがある。
時折り見かける市民たちの、衣服の貧しさと、その色彩の乏しさ。街路や小公園には樹木が多いのに、一般の住居・家屋には、ほとんど樹木が無いのは何故だろう?
三時間余りの市外観光がスタート。乗客は外国人旅行者十数名で、日本人は藤倉氏と僕の二人。
それに若い男性運転手と、中年の女性ガイドが同伴。どちらも英語は滑らかだが、無表情に近い。主観的な感じ方だが、国際都市モスクワに比べると当地は、ホテルのボーイやタクシーの運転手の接客態度が冷やかで、サービス業というよりは管理者的。これは社会主義圏のひとつの断面なのだろうか。ー
市外観光の目的地は二つ。レニングラードの西方39kmの小都市ロモノーソフにあるオラニエンバウム宮殿公園と、同じく南西約30kmの地点にあるロドヴァリェーツ、いわゆる“ピョートル大帝の夏の宮殿”である。どちらもフィンランド湾の南岸に位置する。
バスが市街区域を出るや、突如、風景が一変した。郊外でも普通なら、民家や店舗が散在するが、いわば街区という豆腐を切って捨てたように、そこには全く建物の姿が無くなり、曇り空の下に、茫漠たる草原が広がっている。ー
レニングラードが十八世紀の初め、ゼロ状態の沼沢地に建設された新計画都市であり、いつしか聚落が徐々に拡大して生まれた自然都市ではない事実が、ハッキリと理解される。モスクワのほうが街路にも市外にも、堆積された歴史的な地層が感じられるのだ。
バスが最初に停車して、降り立ったのがオラニエンバウム宮殿公園。ここは広大な森林の中に、幾つかの異なった趣きの宮殿群が散在する。
この地をピョートル大帝から下賜された忠臣メンシコフが、十八世紀の初めにバロック調の大宮殿を建て、続いて同じ世紀の中頃、エリザヴェータ女帝がロココ様式の宮殿を建築したという。
が、数世紀を経た今、どの建物も老朽化が進み、昔時の豪奢で優雅な華やかさが薄れ、第二次大戦後から修復が始まったが、内部の作業だけでも、相当な時間を要するようだ。
新緑の樹木が茂る向こうに、時代から忘れられた廃宮の姿が、垣間見え、ひっそりと衰残の影が漂う。「あァ、これらが皆、革命前までは生きていたんですな…」と、藤倉氏が嘆息を漏らす。
月曜日で建物は休館、林間を見て廻るだけだが、微風が頬を撫で、空気が澄んでいるので、すこぶる気持ちがいい。
バスが引き返して、次に訪れたのはペトロヴァリェーツ、すなわちピョートル大帝が1720年代に完成させた夏の宮殿である。
この宮殿は、フィンランド湾の南岸沿いの段丘の上に、七年がかりで建設された。白い優美で華麗な建物は、第二次大戦中にドイツ軍によって破壊されたが、ほぼ今日では修復されている。だが、これも月曜日のため休館、残念ながら内部が見られない。
宮殿前の広場の北方に、段丘を利用した傾斜するテラスがあり、その両側に設けられた各七段ずつの階段を降りると、下方には広々とした公園と森林が広がっていて、その向こうにフィンランド湾が遠望され、湾の船着場からテラスの階段の下まで、一本の運河が貫通しているというのが、このロドヴァリェーツの全体的な配置構成である。
ひと口に言えば、夏の“海の宮殿”だが、ここは一方ではまた、絢爛たる“水の宮殿”でもある。と言うのは、この宮殿のテラスや公園の至るところに、総数二百有余の大・中・小の噴水があり、それらが銅像や彫刻や水盤によって装飾され、宮殿内にはひねもす爽やかな水音が響き渡るからだ。
現在、すべての噴水が冬期には休止する。が、幸いにも六月中旬、この視界一杯に噴き上げる“噴水芸術”の美観を、僕は初めて両眼に収めるチャンスを得た。
先ず、テラスの中央の階段状の水路を大滝が流れ落ち、それが十六メートル下の公園の運河に流れ入る。テラスの両側の各七段の階段には、約四十体の金箔の銅像が林立し、その近くから約六十の噴水が噴き上げている。銅像の中心はサムソン像で、ひときわ高く天空ニ十メートルまで、噴水を飛翔させる。
下の公園には、太陽の噴水を初め、アダムの噴水、ピラミッドの噴水、ローマの噴水、フランスの噴水など、それぞれ名称と趣向の異なる、約百五十にも及ぶ噴水群が散在する。
大滝から少し遠ざかった公園の一角から、テラスの方向を見上げると、この“水の宮殿”の輝きが、ひとつのパノラマとなって実感されるのだ。もしも晴天に恵まれていたら、パノラマの素晴しさが、さらに光度を増したに違いない。「いやァ、見事なものですなァ!」と、背後から藤倉先生が声を発する。
僕もまた、しばし陶然として見惚れた。ヨーロッバへ来て初めて、心奪われるものを見た気がした。そして、現在のソヴェト社会の文化的レベルは、この過去の“噴水芸術”の光輝には、とても及ばないのではないか?とも考えた。
バス・ガイド女史の解説によると、テラスの大滝と噴水こそが、音楽で言えば、ロドヴァリェーツの“主楽章”であり、これを設計・施工したのは、ロシア人の若き天才技師ワシリー・トヴォルコフだった。
彼は、ピョートル大帝の信任に応え、遠方20kmの水源地から宮殿まで水を引き、そこから段丘の傾斜地深くパイプを敷設し、落下力を活用して、最初の噴水の噴き上げに成功したのが1721年、トヴォルコフがニ十四歳の時だった。彼は大帝の死の二年後、三十歳で夭逝している。
この説明を聴いているうちに、宮殿内の二百有余の噴水群には、薄明期ロシアの若々しい力、青春のいのちや夢が宿っているのではないか、と思われてきた。ー
沼や井戸は女性イメージだが、滝や噴水は男性イメージである!
それも若者の逞しい生命力の昂揚、激しい精力の充溢が表徴されよう。
たとえば、アルチュール・ランボーのようなマグマが噴出する錯乱の詩才が、もしもロドヴァリェーツを観ていたら、きっとテラスの大滝を男性のエネルギーの奔流、噴き上げる噴水群を精液の氾濫にも喩えたのではないか、と僕は思った。
晴天の日なら、この滝も噴水も、青空の下に光り輝き、必ずや若々しい交響楽を奏でるに違いない。ー
帰路の車中、眼にした“水の饗宴”の余韻が残り、“噴水芸術”への陶酔が醒めやらなかった。
日本には「噴水」があるのだろうか?と、まず以て考えた。
明治以降、それは駅前広場や公園などに、一応それらしきものも造られたわけだが、とても“芸術”とまで呼べるシロモノではなかったろう。
それ以前には、築山と泉地に、名木や奇岩を配して、流水によって結ばれる、いわゆる回遊式の和風庭園が存在した。が、その中心に噴水が造られた例は、ほとんど無いだろう。
日本には、もしくは東洋には古来から、「水が流れる」ことへの静的な観照や哲学はあっても、天空に「水を噴き上げる」という、動的なダイナミックな美学や、天を怖れない思想が無かったのではないか?
18時半過ぎ、あれこれ考えているうち、ホテル・アストリアに帰着。
20時より夕食。昨夜から宿泊する、日本人の学生二人と同席。焼いた羊肉が出たが、甲斐という山国の、限られた食材で育っているせいか、臭いが苦手で親しめない。
学生二人の話を、聴くともなく聴いているうちに、ハッとした。何でも今朝出発した日本人の旅行者の中に、観光から部屋に戻ると、衣類の収納棚に出して置いたYシャツが無かったという。
このようなホテルで、そんなことがと、訝しく思うと同時に、昼食後に見た、レニングラードの裏通りの荒涼とした風景が浮かんで来た。ー
モスクワよりも当地の白夜は遅くまで明るいが、絵葉書を書き、早めに就寝する。多くのことがあった一日だった。
◎レニングラードのエカテリーナ公園(亡母遺品の絵葉書)

★レニングラード
6月14日(月曜日)曇り
11時半、レニングラード空港に着陸。
空港を出ると、外気が冷たい。鳥肌が立つくらいだ。内陸部のモスクワが暑かったのに、北寄りのバルト海に面し、ネヴァ川の河口に位置するレニングラードは、夏と言っても寒冷だ。
インツーリスト社手配のタクシーが待っていて、乗り込むと同乗者がいた。オーストラリアから来た中年男性の旅行者で、開放的で愛想が良く、僕を日本人だと知ると車中、日本の経済発展や日本製品の優秀さを、盛んに褒める。悪い気はしない。
ニ十分ほど走ると、市街区域に入った。帝政ロシア時代の首都だけに、モスクワよりも整然たる街並みだ。大小あまたの運河や水路によって、計画的に造られた水辺都市であることが分かる。“北のヴェネチア”と称えられるように、景観には一種冷厳な都市美が感じられる。
正午過ぎ、イサク聖堂前の広場の一隅に建つ、アストリア・ホテルに到着。当地筆頭の超高級ホテルで、ヒトラーが独ソ戦勝利の暁には、ここで祝賀の宴を催す日を夢想した、と伝えられるほど著名。
内部に入ると、たちまち帝政末期の暗鬱にして華麗なムードに包まれる。広大なウクライナ・ホテルに比べると中規模だが、装飾・調度・備品すべてがシックで、伝統と格式を誇るに足る。三島由紀夫氏が、リスボンのホテル・リッツを賛美した文章を、以前に読んだ覚えがあるが、この瀟洒なホテル・アストリアに遜色があるとは思えない。
チェック・インして、与えられたのは四階の111号室。明るく広い部屋で、立派なベッドがニ台並び、窓の向こうにイサク大聖堂と広場、その広場の中心にあるニコライ一世の馬上像が見渡せる、絶好のロケーションである。
部屋には、調和と落ち着きがある。外国人旅行者は別扱いだが、普通ならニ十歳台の若者クラスでは宿泊できる場所ではない。これからの安泊まりの日々を想像すると、こんな素敵な部屋にニ泊できるのはラッキーだ。
すぐに一階のレストランに降りて、昼食になる。同席者が一人いて、日本人男性の旅行者。お互いに自己紹介すると、同志社大学法科・助教授の藤倉皓一郎氏で、昭和九年(1934)生まれ、と告げられる。僕より八歳年長だが、すでに確固とした中堅の法律学者で、一年間の米国留学を了え、ソ連経由で昨夕当地着、明晩モスクワに向かい帰国されるよし。氏は「ソ連では海外からの一般旅行者は、モスクワニ泊、レニングラードニ泊と決められているようですね」と言われる。
昼食が始まったが、これが何ともスロー・テンポ。スープの皿が引かれたあと、メインの器が運ばれるまで、あくびが出るほど待たされた。当地はモスクワよりも万事に西欧式と聴いたが、やはり大陸風の悠長さに変わりはない。
やっと出たチーズ・パイも味気なく、13時半過ぎ、どうにかランチ終了。一泊されている藤倉先生は、「ホテルとしては宜しいが、サービスは今ひとつですな」と仰有る。ー
14時45分出発のバスでの市外観光まで予定が無く、一時間ばかりホテルの周辺を散策する。
イサク広場にも、運河に沿った街路にも、昼下がりなのに人通りが少なく、歩道で露台を引くアイスクリーム売りの姿が、わずかに目立つくらいだ。この眠るような“水の都”の静寂は、美しいが侘しい。
表通りはともかく、裏通りへ一歩入ると、不使用のビル、壊れた壁や窓ガラス、傷んだ道路、あちこちに堆まれた瓦礫の山が目を射る。
その寒々しい風景は、さながら昭和ニ十年代後半あたりの、かつての日本の戦後都市のムード。どうして未だ、こんな状態なのか、胸を衝かれるものがある。
時折り見かける市民たちの、衣服の貧しさと、その色彩の乏しさ。街路や小公園には樹木が多いのに、一般の住居・家屋には、ほとんど樹木が無いのは何故だろう?
三時間余りの市外観光がスタート。乗客は外国人旅行者十数名で、日本人は藤倉氏と僕の二人。
それに若い男性運転手と、中年の女性ガイドが同伴。どちらも英語は滑らかだが、無表情に近い。主観的な感じ方だが、国際都市モスクワに比べると当地は、ホテルのボーイやタクシーの運転手の接客態度が冷やかで、サービス業というよりは管理者的。これは社会主義圏のひとつの断面なのだろうか。ー
市外観光の目的地は二つ。レニングラードの西方39kmの小都市ロモノーソフにあるオラニエンバウム宮殿公園と、同じく南西約30kmの地点にあるロドヴァリェーツ、いわゆる“ピョートル大帝の夏の宮殿”である。どちらもフィンランド湾の南岸に位置する。
バスが市街区域を出るや、突如、風景が一変した。郊外でも普通なら、民家や店舗が散在するが、いわば街区という豆腐を切って捨てたように、そこには全く建物の姿が無くなり、曇り空の下に、茫漠たる草原が広がっている。ー
レニングラードが十八世紀の初め、ゼロ状態の沼沢地に建設された新計画都市であり、いつしか聚落が徐々に拡大して生まれた自然都市ではない事実が、ハッキリと理解される。モスクワのほうが街路にも市外にも、堆積された歴史的な地層が感じられるのだ。
バスが最初に停車して、降り立ったのがオラニエンバウム宮殿公園。ここは広大な森林の中に、幾つかの異なった趣きの宮殿群が散在する。
この地をピョートル大帝から下賜された忠臣メンシコフが、十八世紀の初めにバロック調の大宮殿を建て、続いて同じ世紀の中頃、エリザヴェータ女帝がロココ様式の宮殿を建築したという。
が、数世紀を経た今、どの建物も老朽化が進み、昔時の豪奢で優雅な華やかさが薄れ、第二次大戦後から修復が始まったが、内部の作業だけでも、相当な時間を要するようだ。
新緑の樹木が茂る向こうに、時代から忘れられた廃宮の姿が、垣間見え、ひっそりと衰残の影が漂う。「あァ、これらが皆、革命前までは生きていたんですな…」と、藤倉氏が嘆息を漏らす。
月曜日で建物は休館、林間を見て廻るだけだが、微風が頬を撫で、空気が澄んでいるので、すこぶる気持ちがいい。
バスが引き返して、次に訪れたのはペトロヴァリェーツ、すなわちピョートル大帝が1720年代に完成させた夏の宮殿である。
この宮殿は、フィンランド湾の南岸沿いの段丘の上に、七年がかりで建設された。白い優美で華麗な建物は、第二次大戦中にドイツ軍によって破壊されたが、ほぼ今日では修復されている。だが、これも月曜日のため休館、残念ながら内部が見られない。
宮殿前の広場の北方に、段丘を利用した傾斜するテラスがあり、その両側に設けられた各七段ずつの階段を降りると、下方には広々とした公園と森林が広がっていて、その向こうにフィンランド湾が遠望され、湾の船着場からテラスの階段の下まで、一本の運河が貫通しているというのが、このロドヴァリェーツの全体的な配置構成である。
ひと口に言えば、夏の“海の宮殿”だが、ここは一方ではまた、絢爛たる“水の宮殿”でもある。と言うのは、この宮殿のテラスや公園の至るところに、総数二百有余の大・中・小の噴水があり、それらが銅像や彫刻や水盤によって装飾され、宮殿内にはひねもす爽やかな水音が響き渡るからだ。
現在、すべての噴水が冬期には休止する。が、幸いにも六月中旬、この視界一杯に噴き上げる“噴水芸術”の美観を、僕は初めて両眼に収めるチャンスを得た。
先ず、テラスの中央の階段状の水路を大滝が流れ落ち、それが十六メートル下の公園の運河に流れ入る。テラスの両側の各七段の階段には、約四十体の金箔の銅像が林立し、その近くから約六十の噴水が噴き上げている。銅像の中心はサムソン像で、ひときわ高く天空ニ十メートルまで、噴水を飛翔させる。
下の公園には、太陽の噴水を初め、アダムの噴水、ピラミッドの噴水、ローマの噴水、フランスの噴水など、それぞれ名称と趣向の異なる、約百五十にも及ぶ噴水群が散在する。
大滝から少し遠ざかった公園の一角から、テラスの方向を見上げると、この“水の宮殿”の輝きが、ひとつのパノラマとなって実感されるのだ。もしも晴天に恵まれていたら、パノラマの素晴しさが、さらに光度を増したに違いない。「いやァ、見事なものですなァ!」と、背後から藤倉先生が声を発する。
僕もまた、しばし陶然として見惚れた。ヨーロッバへ来て初めて、心奪われるものを見た気がした。そして、現在のソヴェト社会の文化的レベルは、この過去の“噴水芸術”の光輝には、とても及ばないのではないか?とも考えた。
バス・ガイド女史の解説によると、テラスの大滝と噴水こそが、音楽で言えば、ロドヴァリェーツの“主楽章”であり、これを設計・施工したのは、ロシア人の若き天才技師ワシリー・トヴォルコフだった。
彼は、ピョートル大帝の信任に応え、遠方20kmの水源地から宮殿まで水を引き、そこから段丘の傾斜地深くパイプを敷設し、落下力を活用して、最初の噴水の噴き上げに成功したのが1721年、トヴォルコフがニ十四歳の時だった。彼は大帝の死の二年後、三十歳で夭逝している。
この説明を聴いているうちに、宮殿内の二百有余の噴水群には、薄明期ロシアの若々しい力、青春のいのちや夢が宿っているのではないか、と思われてきた。ー
沼や井戸は女性イメージだが、滝や噴水は男性イメージである!
それも若者の逞しい生命力の昂揚、激しい精力の充溢が表徴されよう。
たとえば、アルチュール・ランボーのようなマグマが噴出する錯乱の詩才が、もしもロドヴァリェーツを観ていたら、きっとテラスの大滝を男性のエネルギーの奔流、噴き上げる噴水群を精液の氾濫にも喩えたのではないか、と僕は思った。
晴天の日なら、この滝も噴水も、青空の下に光り輝き、必ずや若々しい交響楽を奏でるに違いない。ー
帰路の車中、眼にした“水の饗宴”の余韻が残り、“噴水芸術”への陶酔が醒めやらなかった。
日本には「噴水」があるのだろうか?と、まず以て考えた。
明治以降、それは駅前広場や公園などに、一応それらしきものも造られたわけだが、とても“芸術”とまで呼べるシロモノではなかったろう。
それ以前には、築山と泉地に、名木や奇岩を配して、流水によって結ばれる、いわゆる回遊式の和風庭園が存在した。が、その中心に噴水が造られた例は、ほとんど無いだろう。
日本には、もしくは東洋には古来から、「水が流れる」ことへの静的な観照や哲学はあっても、天空に「水を噴き上げる」という、動的なダイナミックな美学や、天を怖れない思想が無かったのではないか?
18時半過ぎ、あれこれ考えているうち、ホテル・アストリアに帰着。
20時より夕食。昨夜から宿泊する、日本人の学生二人と同席。焼いた羊肉が出たが、甲斐という山国の、限られた食材で育っているせいか、臭いが苦手で親しめない。
学生二人の話を、聴くともなく聴いているうちに、ハッとした。何でも今朝出発した日本人の旅行者の中に、観光から部屋に戻ると、衣類の収納棚に出して置いたYシャツが無かったという。
このようなホテルで、そんなことがと、訝しく思うと同時に、昼食後に見た、レニングラードの裏通りの荒涼とした風景が浮かんで来た。ー
モスクワよりも当地の白夜は遅くまで明るいが、絵葉書を書き、早めに就寝する。多くのことがあった一日だった。
◎レニングラードのエカテリーナ公園(亡母遺品の絵葉書)
