胡児(こじ)の泉●1971年・西方旅行記ー噴水と広場の国々 第4回
★モスクワ
6月13日(日曜日)快晴
6時少し前、目覚める。たった一日のモスクワ見物の日だ。入浴して、シャワーを浴びる。
7時半、一階ロビーに隣接する大食堂で朝食。三百人は収容する広い会場だが、空いている席に坐って、若い男性の給仕に食事券を手渡す。そこへマイクが「お早う!」と元気そうな声を掛けて、丸テーブルの直ぐ隣りに来て坐る。
やや遅れて、他のグループに加わって来ているアメリカ人の青年が、「May I join you ?(入ってもいいですか?)」と断って加わる。最後に、給費の国際生活体験学生として渡英する男の子が、几帳面な挨拶をして坐る。
朝食の皿が運ばれてくる間隔が、噂通りのロシア・テンポで、ゆったりと遅い。四人が喋りだすと賑やかになり、僕は今、自分がひとり旅でここに来ているとは、とても思えない。
ビリーという名前のアメリカ人の青年は、むっつりと無口だが、時折りぎこちない日本語を話す。オレゴン大学で日本史を専攻、京都に一年間留学後の帰国途中のよしで、明日の夕方にはレニングラードへ飛ぶ。僕も明朝、ひとりでレニングラードへ立ち、マイクも明日の夜行列車でウィーンへ向かうから、この朝の皆んなの出会いも、ほとんどが初めの終わりというわけになる。
やっと朝食が済んだ後、僕とマイクは、一階の歩廊にある昨日立ち寄ったインフォメーションへ出向いた。
応対してくれたのは、四十がらみの人の好さそうな小肥りの女性で、彼女はロシア語臭い英語で即座に、打てば響くようにアドバイスしてくれた。「午前中のバス観光で、市内の主要なスポットは殆んど廻りますよ。午後、出直して美術館へ行っても、日曜日で大混雑ですから、ゆっくり鑑賞は出来ません。それより、自由に街を歩いてみたら如何ですか。夜はオペラがありますがー」
僕は一瞬、オペラ?と思った。マイクが場所と時間と演目と料金を訊く。「19時から、スタニスラフスキー劇場。プッチーニの有名な“トスカ”です。料金は一名2ルーブル。わたしも観ましたよ、素晴らしかった!」と彼女は、ぽってりと丸い頬を紅潮させる。
マイクが「音楽は好きだから、行きたい」と応じ、チケットの有無を問うと、「11時に劇場のオフィスが開きますから、電話をしてみます。ここへ昼食後に、また来てください。二枚ですね」と、話が進んでしまった。
僕は今回、この自分の旅については、これまでの身に付着した、歌舞伎のような“悪”演劇の臭気を洗い流し、それを乗り越えるために必要な、一種の精神的な“解毒”だと、自分で自分に言い聞かせてきた。劇場や観劇が、この旅の主目的ではない。ところが、オペラにしろ“舞台がある”と聴くと、やはりどうしても何か血が騒いでしまう。ー
9時半、市内観光バスがホテル前に来て、僕たちグループが出発。所要時間は約三時間。
驚いたのは、車内の電気が、乗客の乗降時だけ点灯し、走行中は消灯のままとい
う不思議さ。日本の終戦後のバスの状態は知らないが、これまでに経験していないことだ。もっとも小学生の頃の、夕食時の停電は覚えているがー。
それと一回きりのアルバイトで来た、三十歳くらいの女性ガイドの服装がヘンに寒々しく、説明も固く事務的で公務員みたいで、ホテルのインフォメーションの小肥りの女性とは、大変な違い。マイクが「英語も下手だよ」と、小声で囁く。
バスは先ず、市の中心部の駐車場へ来て停車、一団は下車した後、徒歩で約一時間余りをかけて、クレムリンと周囲を一巡した。
赤の広場からレーニン廟、幾つかの新旧の宮殿、大小の聖堂や教会、多くの塔や鐘楼や武器庫などを廻ったが、ほとんど内部には入れない。
日曜日にしては見物人が少なく、ウスペンスキー寺院のあたりに、地方から見学にきたロシアの少年たちの一群を見かけたくらい。
クレムリンには心なしか、どこか人を寄せ付けない厳めしい雰囲気があり、ガイドの説明にも“拝観させる”意識的なものが感じられ、親しめない。
僕にはクレムリン一帯は、歩いて一回りした、という印象だけが残った。
バスは市の南西部に向かい、レーニン丘の頂きで下車。
ここからは市街地が遠望できる上に、近くのモスクワ大学の男性的な雄姿、十万人収容のレーニン・スタジアムの広大なスケールを、じっくりと見渡すことも可能だ。この丘は文字通り、モスクワ名所の一つで、この辺からナポレオンもモスクワ侵攻時、市街を眺めて感慨にふけったとされる。夏の空が、広く青い。
ガメラに景色を収めていると、近くに住んでいるらしい現地の小学生くらいの子供たちが七・八人、日曜日のせいか遊んでいて、バスの一団に近寄って来てチューインガムを求める。一団の中には、手提げからチョコレートやクッキーを取り出して与える人もあり、子供たちは受け取るとワッと歓んで散っていく。マイクも差し出したガムを、にっこりして受け取った子供だけが、ひとり遅れて追いかけていく。
この、我が目を疑うような光景を見た瞬間、僕は子供の頃に甲府の町で、進駐軍のGIたちにジープに乗せて貰ったり、瓶入りのコカ・コーラの甘さに驚いた記憶が、俄(にわか)に蘇ってきた。
戦後二十六年たった今も、東京では全く見られない光景が、まだモスクワの近郊には現実として残っている。ー
バスは逆戻りして市の中心部に向かって走り、やがてボリショイ劇場の周辺を一巡した後、ゴーリキー街を通って、プーシキン広場で二十分間停車。ここが最後の下車地だ。
この広場は、並木通りに囲まれた半ば公園でベンチが並び、休憩や散策には適している。中ほどにプーシキン像があり、この像の除幕式でのドストエフスキーの講演も名高い。
像を眺めているうちに、今年の正月、井伏鱒二先生の荻窪のお宅へ年始にうかがった折り、酒盃深更に及んで先生の仰有った言葉のひとつが、ふっと浮かんで来た。「プーシキンの“エヴゲーニイ・オネーギン”を読んで、何ものをも感じないような者には、作品は生まれない」と。ー
ベンチに腰を下ろし、正月の先生の言葉を、しばらく反芻した。
「胸の辺りが、ドキドキとするだろう。それが“感動”だよ」
「哲ちゃんの神経持っていれば、作家になれるよ。髷物(まげもの)を書けよ。精進すれば、必ず食べて行ける」
「でも俺は、誰にも作家になることを勧めないんだ。作家になることは、必ずしも幸福なことじゃァないんだ。作家は身体が強くなければ、立って行けない。五十の坂にかかる頃の辛さは、そりゃア大変なものなんだよー」
マイクがベンチの傍に来て、「テツロウ、難しい顔をしているね」と呟き、心配してくれた。
バスは再び、ウクライナ・ホテルへ向かった。
◎再訪
2014年(平成26)6月、久しぶりにモスクワを再訪した。
クレムリン一帯には、昔日の冷厳さが薄れ、開放的な空気が導入されていた。武器庫やダイヤモンド庫が公開され、ぎっしりと収蔵された金銀財宝の山には、全くもって驚倒した。
赤の広場には、見世物のテントが建ち、人気を呼んでいる。煙草を売りにくる少年、ガムを求める子供たちも、嘘のように姿を消していた。
◎井伏先生と僕(73年7月、信州・信濃境で)

★モスクワ
6月13日(日曜日)快晴
6時少し前、目覚める。たった一日のモスクワ見物の日だ。入浴して、シャワーを浴びる。
7時半、一階ロビーに隣接する大食堂で朝食。三百人は収容する広い会場だが、空いている席に坐って、若い男性の給仕に食事券を手渡す。そこへマイクが「お早う!」と元気そうな声を掛けて、丸テーブルの直ぐ隣りに来て坐る。
やや遅れて、他のグループに加わって来ているアメリカ人の青年が、「May I join you ?(入ってもいいですか?)」と断って加わる。最後に、給費の国際生活体験学生として渡英する男の子が、几帳面な挨拶をして坐る。
朝食の皿が運ばれてくる間隔が、噂通りのロシア・テンポで、ゆったりと遅い。四人が喋りだすと賑やかになり、僕は今、自分がひとり旅でここに来ているとは、とても思えない。
ビリーという名前のアメリカ人の青年は、むっつりと無口だが、時折りぎこちない日本語を話す。オレゴン大学で日本史を専攻、京都に一年間留学後の帰国途中のよしで、明日の夕方にはレニングラードへ飛ぶ。僕も明朝、ひとりでレニングラードへ立ち、マイクも明日の夜行列車でウィーンへ向かうから、この朝の皆んなの出会いも、ほとんどが初めの終わりというわけになる。
やっと朝食が済んだ後、僕とマイクは、一階の歩廊にある昨日立ち寄ったインフォメーションへ出向いた。
応対してくれたのは、四十がらみの人の好さそうな小肥りの女性で、彼女はロシア語臭い英語で即座に、打てば響くようにアドバイスしてくれた。「午前中のバス観光で、市内の主要なスポットは殆んど廻りますよ。午後、出直して美術館へ行っても、日曜日で大混雑ですから、ゆっくり鑑賞は出来ません。それより、自由に街を歩いてみたら如何ですか。夜はオペラがありますがー」
僕は一瞬、オペラ?と思った。マイクが場所と時間と演目と料金を訊く。「19時から、スタニスラフスキー劇場。プッチーニの有名な“トスカ”です。料金は一名2ルーブル。わたしも観ましたよ、素晴らしかった!」と彼女は、ぽってりと丸い頬を紅潮させる。
マイクが「音楽は好きだから、行きたい」と応じ、チケットの有無を問うと、「11時に劇場のオフィスが開きますから、電話をしてみます。ここへ昼食後に、また来てください。二枚ですね」と、話が進んでしまった。
僕は今回、この自分の旅については、これまでの身に付着した、歌舞伎のような“悪”演劇の臭気を洗い流し、それを乗り越えるために必要な、一種の精神的な“解毒”だと、自分で自分に言い聞かせてきた。劇場や観劇が、この旅の主目的ではない。ところが、オペラにしろ“舞台がある”と聴くと、やはりどうしても何か血が騒いでしまう。ー
9時半、市内観光バスがホテル前に来て、僕たちグループが出発。所要時間は約三時間。
驚いたのは、車内の電気が、乗客の乗降時だけ点灯し、走行中は消灯のままとい
う不思議さ。日本の終戦後のバスの状態は知らないが、これまでに経験していないことだ。もっとも小学生の頃の、夕食時の停電は覚えているがー。
それと一回きりのアルバイトで来た、三十歳くらいの女性ガイドの服装がヘンに寒々しく、説明も固く事務的で公務員みたいで、ホテルのインフォメーションの小肥りの女性とは、大変な違い。マイクが「英語も下手だよ」と、小声で囁く。
バスは先ず、市の中心部の駐車場へ来て停車、一団は下車した後、徒歩で約一時間余りをかけて、クレムリンと周囲を一巡した。
赤の広場からレーニン廟、幾つかの新旧の宮殿、大小の聖堂や教会、多くの塔や鐘楼や武器庫などを廻ったが、ほとんど内部には入れない。
日曜日にしては見物人が少なく、ウスペンスキー寺院のあたりに、地方から見学にきたロシアの少年たちの一群を見かけたくらい。
クレムリンには心なしか、どこか人を寄せ付けない厳めしい雰囲気があり、ガイドの説明にも“拝観させる”意識的なものが感じられ、親しめない。
僕にはクレムリン一帯は、歩いて一回りした、という印象だけが残った。
バスは市の南西部に向かい、レーニン丘の頂きで下車。
ここからは市街地が遠望できる上に、近くのモスクワ大学の男性的な雄姿、十万人収容のレーニン・スタジアムの広大なスケールを、じっくりと見渡すことも可能だ。この丘は文字通り、モスクワ名所の一つで、この辺からナポレオンもモスクワ侵攻時、市街を眺めて感慨にふけったとされる。夏の空が、広く青い。
ガメラに景色を収めていると、近くに住んでいるらしい現地の小学生くらいの子供たちが七・八人、日曜日のせいか遊んでいて、バスの一団に近寄って来てチューインガムを求める。一団の中には、手提げからチョコレートやクッキーを取り出して与える人もあり、子供たちは受け取るとワッと歓んで散っていく。マイクも差し出したガムを、にっこりして受け取った子供だけが、ひとり遅れて追いかけていく。
この、我が目を疑うような光景を見た瞬間、僕は子供の頃に甲府の町で、進駐軍のGIたちにジープに乗せて貰ったり、瓶入りのコカ・コーラの甘さに驚いた記憶が、俄(にわか)に蘇ってきた。
戦後二十六年たった今も、東京では全く見られない光景が、まだモスクワの近郊には現実として残っている。ー
バスは逆戻りして市の中心部に向かって走り、やがてボリショイ劇場の周辺を一巡した後、ゴーリキー街を通って、プーシキン広場で二十分間停車。ここが最後の下車地だ。
この広場は、並木通りに囲まれた半ば公園でベンチが並び、休憩や散策には適している。中ほどにプーシキン像があり、この像の除幕式でのドストエフスキーの講演も名高い。
像を眺めているうちに、今年の正月、井伏鱒二先生の荻窪のお宅へ年始にうかがった折り、酒盃深更に及んで先生の仰有った言葉のひとつが、ふっと浮かんで来た。「プーシキンの“エヴゲーニイ・オネーギン”を読んで、何ものをも感じないような者には、作品は生まれない」と。ー
ベンチに腰を下ろし、正月の先生の言葉を、しばらく反芻した。
「胸の辺りが、ドキドキとするだろう。それが“感動”だよ」
「哲ちゃんの神経持っていれば、作家になれるよ。髷物(まげもの)を書けよ。精進すれば、必ず食べて行ける」
「でも俺は、誰にも作家になることを勧めないんだ。作家になることは、必ずしも幸福なことじゃァないんだ。作家は身体が強くなければ、立って行けない。五十の坂にかかる頃の辛さは、そりゃア大変なものなんだよー」
マイクがベンチの傍に来て、「テツロウ、難しい顔をしているね」と呟き、心配してくれた。
バスは再び、ウクライナ・ホテルへ向かった。
◎再訪
2014年(平成26)6月、久しぶりにモスクワを再訪した。
クレムリン一帯には、昔日の冷厳さが薄れ、開放的な空気が導入されていた。武器庫やダイヤモンド庫が公開され、ぎっしりと収蔵された金銀財宝の山には、全くもって驚倒した。
赤の広場には、見世物のテントが建ち、人気を呼んでいる。煙草を売りにくる少年、ガムを求める子供たちも、嘘のように姿を消していた。
◎井伏先生と僕(73年7月、信州・信濃境で)
