胡児(こじ)の泉●1971年・西方旅行記ー噴水と広場の国々 第3回
★横浜ーナホトカーハバロフスクーモスクワ(続き)
6月12日(土曜日)晴れ 夕刻に微雨
6時頃、臨時停車で目が覚めると、笑顔で僕を見下ろす者がいる。そうか、マイクだった!
起床して、身繕いをする。彼は済ませていて、「水を飲む?」などと、言ってくれる。僕より少し背丈が高く、百七十センチ台後半か。
7時、二人で食堂車へ行き、向かい合って坐る。辺りの乗客から、「ウスリー川に近い」という声が聴こえる。
対座して、正面からマイクの顔を見ると、鳶(とび)色の髪、水色の眼、鼻梁が通った、中肉中背の、なかなかの好男子だ。表情も明るい。
朝食には、ボイルされた卵が、二個ずつも配給された。旅立ってから食が重く感じられ、このロシア風の素朴なサービスを敬遠、マイクに勧めてみた。すると、「May I eat ?(いいの?)」と言ってから手を伸ばし、次々と四個を平げてしまったのには呆れた。二十四歳だと言う。可愛いと思った。
午前中は車内のコンパートメントで、マイクと過ごす。窓の外には、林と平野と河川の景色が続く。
僕は出航前の半年間、英会話の個人レッスンを受けてきた程度だから、覚束無いのは確かだが、いざ場に臨むとイケルものだ! お互いの気持ちや意味するところが、あらましは通じ合う。
マイクの話によると、彼はフロリダの地元の大学を出たが、両親が給油所の事業を手広く営んでいるので、現在それを手伝っている。齢の開いた幼い妹があり、両親が多忙で子供を作れず、そのため僕は、ずっとonly Child (一人っ子)だったよ、と言って笑った。
高校の頃、両親と一緒にイギリスの親戚を訪ねたほか、海外を知らなかった。アメリカの南部には、外国へ一生行かない人が、沢山いるんだ。初めて夏休みを一箇月貰えたので、日本に一週間、ロシアに一週間、ヨーロッパに二週間、ひとりで世界一周の旅に出て来た。
これからモスクワに行き、そこから列車でウィーンに出て、ドイツとフランスを見て、七月上旬にはフロリダの家に戻るよ、と話してくれた。
彼は元気で、ずいぶん快活だが、時折り僕に向けるまなざしが陰り、凝っと暗く光るときがある。その視線を逸(そ)らすために、オクテの僕が二年前から始めた煙草に火を付ける。ケント一箱を持ってくるほど、それが手放せなくなっている。「心配だ、煙草はいけない」と、マイクも言ってくれる。
彼は、日本では京都や奈良、日光や東京を観光したらしいが、新幹線を「素晴らしい!」と褒め、日本人は親切でチャーミングだ、日本が好きだと相好を崩し、「また日本へ行きたい」を連発して、僕を喜ばせた。
「結婚は?」と訊ねると、「まだ考えていない。しないかも知れない」と答え、逆に「テツロウは?」と問うので、「All the same(全く同じ)と返すと、彼の瞳が一瞬光って、「何故?」と問い詰められる。ー
「僕はまだ、駆け出しのライターで、本も一冊しか書いていない。生活が成り立たない」と言うと、マイクは「本当?」と目を丸くし、「でも、素敵な仕事だ!
成功を祈るよ」と胸で十字を切り、「テツロウは英語の難しいボキャブラリーを知っている。その理由が分かったよ」と片目でウィンクし、手にするボールペンを、僕の胸に投げた。
この車内の数時間で、僕とマイクとの距離は、ぐんと小さくなってしまった。
11時、ハバロフスク駅に到着。
ハバロフスクは、ソヴェト連邦の極東地域の中心地で、人口は約四十万だが、駅の周辺は静かだ。気候は爽涼。
列車 を降りる際のデッキが低いため、マイクが荷物を下ろしてくれる。と、帰国するイギリス人の初老の男性に出会う。彼は、ここで一団と別れ、シベリア鉄道の本線に乗り換え、五泊六日の長旅をしてモスクワまで行き、そこから空路帰国するという。「中村さん、イギリスへ来たら、ブライトンに寄って」と口元をほころばせ、手を振り合って別れた。
旅の挨拶のようなもので、名前も告げず、住所も知らない。ひとり暮しの長い人か、とも思った。
駅からバスで、空港にも近いホテルに運ばれる。市街は閑散として、広い道路には人通りが少なく、繁華な印象はない。
ホテルと言っても、旧時代の”ホテル館”といった感じの、ロシア風の朴訥な木造建築だ。
その一階の小さな食堂で昼食。酸味のある黒パンや白丸パン、キャベツのピロシキ、ボルシチを薄めたようなスープ。デザートにはアイスクリームが三個。これも一個を、マイクの器に移す。ことのほかの美味で、“マロージナエ”というロシア語を覚えた。
15時、ハバロフスク空港というよりも、戦前式に近い飛行場を離陸。
大型機だが、機内は広漠たる街の、何処から集まったかと思うほどの超満員。しかもセンターの席で、ぎっしりと身動きが取れず息苦しく、飛行経験は少ないが、けっして快適な空の旅ではない。少し前方の窓側の席で眠っているマイクが、実際うらやましかった。
モスクワまで八時間、量の多い食事が二度出た。
23時、モスクワの国内線の空港に着陸。モスクワ時間17時。
閉じ込められた洞窟から脱出する思いで、滑走路に降り立つ。モスクワは少し暑い。待機しているバスまで歩き、市中のホテルへと向かう。
ホテルまでは約一時間。郊外には白樺の林が多く、林間に散在する小さな沼や湖で、市民たちの遊泳する姿が見える。目に痛いほどの新緑、モスクワは夏だ。
市内に入るまで、バスの窓越しに、綿毛のように白い小さな何かが、間断なく舞い落ちて来るー。何だろう、マロニエではない筈、北海道にあるニセアカシアの花か?マイクにも尋ねたが、知らない、フロリダには無いと言う。
市内に入ると、街路の要所・要所に、赤旗が高々と掲げられ揺れている寸景が、目に飛び込んできた。
18時半過ぎ、ウクライナ・ホテルに着く。バスを降りると、少し雨が落ちている。夕方だが、まだまだ明るい。
ウクライナ・ホテルは、巨大・高層の超一流ホテル。ソ連ではインツーリスト社の団体旅行のため、モスクワ二泊とレニングラード二泊は、一流ホテルに宿泊できるわけだ。
ホテルの内部に入ると、がらんとした広いロビーが、公会堂か役所のようで、アジア・アフリカ・中東各地域からの、さまざまな宿泊客の姿が見られる。やはりモスクワは、世界的な国際都市なのだ。
ロビーの左側に長い歩廊があり、机が並べられ、七・八人の現地の女性係員が座っている。そこで僕たちには、各自の部屋の鍵、食事券、観光券、規定の少額ルーブルなどが給付された。
荷物確認が済んだあと、マイクは四階の彼の部屋へ、僕は564号室へと移動。この日は、ホテルでの夕食の予定が無かった。
564号室は、古風で簡素な骨太の佇(たたず)まいだが、いささか暗い。どっしりとした机と、立派な椅子。重量感のあるベッドの下には踏み台が置かれ、マットレスの位置が相当に高い。冬季の寒冷を考えての設計か。浴槽も逞しくて深い。洗面台に湯を満たし、下着類を洗濯したが、排水の穴が大きい。堂々とした穴だが、小回りが効かない。
そして、この風格のある部屋には、茶器の用意はあるが、まだテレビが置かれていないのだ。年初、アメリカではアポロ14号の打ち上げに、初のカラーテレビ中継が始まったというのに!
夜の21時半頃になっても、いわゆる“白夜”で明るい。今日は疲労したので、絵葉書を書いた後、早めに就寝する。
◎モスクワ市内(亡母遺品の絵葉書)

★横浜ーナホトカーハバロフスクーモスクワ(続き)
6月12日(土曜日)晴れ 夕刻に微雨
6時頃、臨時停車で目が覚めると、笑顔で僕を見下ろす者がいる。そうか、マイクだった!
起床して、身繕いをする。彼は済ませていて、「水を飲む?」などと、言ってくれる。僕より少し背丈が高く、百七十センチ台後半か。
7時、二人で食堂車へ行き、向かい合って坐る。辺りの乗客から、「ウスリー川に近い」という声が聴こえる。
対座して、正面からマイクの顔を見ると、鳶(とび)色の髪、水色の眼、鼻梁が通った、中肉中背の、なかなかの好男子だ。表情も明るい。
朝食には、ボイルされた卵が、二個ずつも配給された。旅立ってから食が重く感じられ、このロシア風の素朴なサービスを敬遠、マイクに勧めてみた。すると、「May I eat ?(いいの?)」と言ってから手を伸ばし、次々と四個を平げてしまったのには呆れた。二十四歳だと言う。可愛いと思った。
午前中は車内のコンパートメントで、マイクと過ごす。窓の外には、林と平野と河川の景色が続く。
僕は出航前の半年間、英会話の個人レッスンを受けてきた程度だから、覚束無いのは確かだが、いざ場に臨むとイケルものだ! お互いの気持ちや意味するところが、あらましは通じ合う。
マイクの話によると、彼はフロリダの地元の大学を出たが、両親が給油所の事業を手広く営んでいるので、現在それを手伝っている。齢の開いた幼い妹があり、両親が多忙で子供を作れず、そのため僕は、ずっとonly Child (一人っ子)だったよ、と言って笑った。
高校の頃、両親と一緒にイギリスの親戚を訪ねたほか、海外を知らなかった。アメリカの南部には、外国へ一生行かない人が、沢山いるんだ。初めて夏休みを一箇月貰えたので、日本に一週間、ロシアに一週間、ヨーロッパに二週間、ひとりで世界一周の旅に出て来た。
これからモスクワに行き、そこから列車でウィーンに出て、ドイツとフランスを見て、七月上旬にはフロリダの家に戻るよ、と話してくれた。
彼は元気で、ずいぶん快活だが、時折り僕に向けるまなざしが陰り、凝っと暗く光るときがある。その視線を逸(そ)らすために、オクテの僕が二年前から始めた煙草に火を付ける。ケント一箱を持ってくるほど、それが手放せなくなっている。「心配だ、煙草はいけない」と、マイクも言ってくれる。
彼は、日本では京都や奈良、日光や東京を観光したらしいが、新幹線を「素晴らしい!」と褒め、日本人は親切でチャーミングだ、日本が好きだと相好を崩し、「また日本へ行きたい」を連発して、僕を喜ばせた。
「結婚は?」と訊ねると、「まだ考えていない。しないかも知れない」と答え、逆に「テツロウは?」と問うので、「All the same(全く同じ)と返すと、彼の瞳が一瞬光って、「何故?」と問い詰められる。ー
「僕はまだ、駆け出しのライターで、本も一冊しか書いていない。生活が成り立たない」と言うと、マイクは「本当?」と目を丸くし、「でも、素敵な仕事だ!
成功を祈るよ」と胸で十字を切り、「テツロウは英語の難しいボキャブラリーを知っている。その理由が分かったよ」と片目でウィンクし、手にするボールペンを、僕の胸に投げた。
この車内の数時間で、僕とマイクとの距離は、ぐんと小さくなってしまった。
11時、ハバロフスク駅に到着。
ハバロフスクは、ソヴェト連邦の極東地域の中心地で、人口は約四十万だが、駅の周辺は静かだ。気候は爽涼。
列車 を降りる際のデッキが低いため、マイクが荷物を下ろしてくれる。と、帰国するイギリス人の初老の男性に出会う。彼は、ここで一団と別れ、シベリア鉄道の本線に乗り換え、五泊六日の長旅をしてモスクワまで行き、そこから空路帰国するという。「中村さん、イギリスへ来たら、ブライトンに寄って」と口元をほころばせ、手を振り合って別れた。
旅の挨拶のようなもので、名前も告げず、住所も知らない。ひとり暮しの長い人か、とも思った。
駅からバスで、空港にも近いホテルに運ばれる。市街は閑散として、広い道路には人通りが少なく、繁華な印象はない。
ホテルと言っても、旧時代の”ホテル館”といった感じの、ロシア風の朴訥な木造建築だ。
その一階の小さな食堂で昼食。酸味のある黒パンや白丸パン、キャベツのピロシキ、ボルシチを薄めたようなスープ。デザートにはアイスクリームが三個。これも一個を、マイクの器に移す。ことのほかの美味で、“マロージナエ”というロシア語を覚えた。
15時、ハバロフスク空港というよりも、戦前式に近い飛行場を離陸。
大型機だが、機内は広漠たる街の、何処から集まったかと思うほどの超満員。しかもセンターの席で、ぎっしりと身動きが取れず息苦しく、飛行経験は少ないが、けっして快適な空の旅ではない。少し前方の窓側の席で眠っているマイクが、実際うらやましかった。
モスクワまで八時間、量の多い食事が二度出た。
23時、モスクワの国内線の空港に着陸。モスクワ時間17時。
閉じ込められた洞窟から脱出する思いで、滑走路に降り立つ。モスクワは少し暑い。待機しているバスまで歩き、市中のホテルへと向かう。
ホテルまでは約一時間。郊外には白樺の林が多く、林間に散在する小さな沼や湖で、市民たちの遊泳する姿が見える。目に痛いほどの新緑、モスクワは夏だ。
市内に入るまで、バスの窓越しに、綿毛のように白い小さな何かが、間断なく舞い落ちて来るー。何だろう、マロニエではない筈、北海道にあるニセアカシアの花か?マイクにも尋ねたが、知らない、フロリダには無いと言う。
市内に入ると、街路の要所・要所に、赤旗が高々と掲げられ揺れている寸景が、目に飛び込んできた。
18時半過ぎ、ウクライナ・ホテルに着く。バスを降りると、少し雨が落ちている。夕方だが、まだまだ明るい。
ウクライナ・ホテルは、巨大・高層の超一流ホテル。ソ連ではインツーリスト社の団体旅行のため、モスクワ二泊とレニングラード二泊は、一流ホテルに宿泊できるわけだ。
ホテルの内部に入ると、がらんとした広いロビーが、公会堂か役所のようで、アジア・アフリカ・中東各地域からの、さまざまな宿泊客の姿が見られる。やはりモスクワは、世界的な国際都市なのだ。
ロビーの左側に長い歩廊があり、机が並べられ、七・八人の現地の女性係員が座っている。そこで僕たちには、各自の部屋の鍵、食事券、観光券、規定の少額ルーブルなどが給付された。
荷物確認が済んだあと、マイクは四階の彼の部屋へ、僕は564号室へと移動。この日は、ホテルでの夕食の予定が無かった。
564号室は、古風で簡素な骨太の佇(たたず)まいだが、いささか暗い。どっしりとした机と、立派な椅子。重量感のあるベッドの下には踏み台が置かれ、マットレスの位置が相当に高い。冬季の寒冷を考えての設計か。浴槽も逞しくて深い。洗面台に湯を満たし、下着類を洗濯したが、排水の穴が大きい。堂々とした穴だが、小回りが効かない。
そして、この風格のある部屋には、茶器の用意はあるが、まだテレビが置かれていないのだ。年初、アメリカではアポロ14号の打ち上げに、初のカラーテレビ中継が始まったというのに!
夜の21時半頃になっても、いわゆる“白夜”で明るい。今日は疲労したので、絵葉書を書いた後、早めに就寝する。
◎モスクワ市内(亡母遺品の絵葉書)
