★横浜ーナホトカーハバロフスクーモスクワ(続き)

6月10日(木曜日)晴れ
6時半、起床。
人気のない甲板に出て、体操をする。と、向こうの舷側に置かれた椅子に座って、海を眺めていた中年の欧米人男性が、大きな拍手をしてくれる。
「サンキュー!」と礼を言うと、近寄ってきて空を指し、「今日も天気が良い。サンフランシスコから来たんだ」と返して、握手を求める。いっしょに食堂まで行く。
7時半、朝食。昨日の欧州行脚の日本人学生たちと、同じテーブル。
彼らは何でも、八月初めまで西欧と南欧を一巡し、安いペンションやYMCAに宿
泊、三箇月有効のユーレール・パス(一
等席や急行指定券は有料だが、普通車なら、距離も時間も無制限)を利用して、出来るだけ多く各地を見歩くという。
僕のプランも殆んど同じで、わざわざ出発前にYMCAの会員登録をしてきた。二十歳前後の彼らと、二十八歳にもなった僕が、ほぼ同様の試みをすることに、聴きながら心中少し複雑になる。
午前中、堂本氏や親戚方面に手紙を書く。

昼食後、船内に卓球台があり、日本人の乗客たちとピンポンをする。
船首のデッキに昼下がりの陽光が降り注ぎ、二十名ほどが寝椅子に横になったり、甲板に寝そべったりして、日光浴が始まる。潮風が快い。
僕も寝椅子に腰を下ろし、ガイドブックを読むうちに、うとうととなる。暫くして目が覚める。と、こちらを背後から見詰めている視線に気付いた。振り返ると、二十歳台半ばくらいの欧米人の若者の眼が、射るように暗く光っている。すぐに向きを変えたが、あのような暗い眼が、常に自分には怖いー。
16時頃、藍色の津軽半島が見える。

夕刻、会議室で映画の上映があるので、行ってみる。
と言っても、ソ連製の昨年後半期のニュース映画。ソ連と西ドイツとの欧州の現状の相互承認、ソルジェニーツィンのノーベル文学賞、大アンジジャン運河の建設完了、ルナ17号の月面到達などが宣伝的に編集され、国際関係はベトナム戦争関連の報道のみ。
四十分ほどで終了。室内が明るくなり、船室に戻ろうとすると、数列後ろにいた先程の若者が、立ったまま微笑んでいる。
僕が「グッドアフタヌーン(今日は)」と言うと、彼は、フロリダから来たアメリカ人だと応え、「名前はマイケル・ミドルトンです」と名乗り、「マイクと呼んで下さい」と、にっこりと笑った。僕も自己紹介し、また会いましょう、と言い合って別れた。
夕食は、三人席の丸テーブルに着く。今朝デッキで会ったサンフランシスコのアメリカ人と、六十歳前後のイギリス人の男性、それに僕。料理を運んで来るのはロシア人の若い船員で、女性の船員を見かけない。ナホトカ終着が明日のせいか、昨夜よりメニューが豊かだ。
初老のイギリス人の男性は、二十年間滞日し、早大で英語講師をして生活したが、年を取ったので帰国の途についたよし。母国ではロンドン南方の保養地ブライトンで、悠々自適の日々を過ごすと話してくれる。
彼は東京では長年、三島由紀夫の小説『仮面の告白』の英訳者メレディス・ウェザビーが経営する出版社の仕事を手伝ったそうで、ウェザビーの友人の写真家の矢頭保とも顔馴染みだったという。
今年の春浅い頃、詩人の高橋睦郎氏に誘われ、僕と評論家の草森紳一さんは、六本木のウェザビー氏の邸宅を三人で訪れ、そこでの夜のパーティーに加わった。そのとき堂本さんも来ていたが、矢頭氏にも紹介された。ウェザビー氏の
家は庭が広く、都心では珍しいほどの豪邸だっだ。
その出来事を話すと、彼は「コインシデンス(奇遇だ!)中村さんは友達だ」と苦笑いし、「矢頭さんはナマイキモノ、でもイイオトコ」と、日本語を交えて言った。
“旅は出会い”と言うが、これから色々な人に遇うのかなーと、僕も思った。

夕食後、会議室の小さな舞台で、ロシア舞踊の実演がある。男性の船員二名が民謡を歌い、四名が民族舞踊を踊る。旅客へのサービスだ。
22時、就寝。
明け方の4時頃、目が覚める。夢を見た。六代目菊五郎の鏡獅子が白頭(しろがしら)を振り立て、暗い海上を追い掛けてくる、こちらへ猛烈なスピードで追い掛けてくる夢だった。昨夜、舞踊を見たせいかもしれない。
日本海を航行中で、船が揺れる。

6月11日(金曜日)薄曇り
6時半、起床。
午前中は、船尾のデッキの椅子に坐り、ソヴェト連邦関係の解説書などを読む。
ナホトカはソ連邦東部の沿海地方にある良港、人口は約十万で、シベリア鉄道支線の終点でもある。敗戦後、日本人送還の乗船港にもなった。横浜・ナホトカ間は、航路で二泊三日。

昼食後、バイカル号はナホトカのあるピョートル大帝湾に入った。大気が清涼で、背後の山々は目に沁みるような新緑だ!僕にとって、初めての異国ー。
15時、ナホトカ港に着船。
18時、税関検査が終了して下船。バスでナホトカ駅へ向かう。そこからハバロフスクまでは鉄路で15時間、一泊二泊の行程。
ナホトカ駅の構内で、僕たち三十数名のインツーリスト社の一団が、列車の連結作業を待っていると、現地の少年ひとりが喫煙者の傍へ来て、ロシア煙草を見せて売ろうとする。想像していたが、ちょっぴり侘しい気持ちになる。

20時、ようやく乗車して、ナホトカ駅を出発。この時間でも、まだ辺りは明るい。
すぐに食堂車で夕食が出る。僕たちの席の向こうに、北朝鮮の旅行団とおぼしき一群が、すでに黙々と食事中で、先入観もあるが、何やら不吉な印象を与える。
車内の夕食の席もまた、昨夜のサンフランシスコのアメリカ人、帰国するイギリス人と一緒。それと僕の右隣りに、名古屋から来た日本人の青年。
車窓には、北海道的な原野の中に、小さな森林が点在する風景が展開。時おり小高い丘のような山が見えると、帰国するイギリス人の男性が、「あれはヤマトやアスカの山と似ている」などと言う。

食事が済み、割り当てられた客車の個室へ行くと、ちゃんと荷物が運ばれている。一室二名のコンパートメントで、向き合う左右の座席を折り返すと、二つの軽寝台に変わる。僕は右側で、まだ左側の旅行者は来ていないが、スーツケースの様子からすると、日本人ではなさそうだ。
21時過ぎ、日没。車窓の外が、しだいに暗くなる。と、男性の車掌が来て、シャワー室の鍵を渡して去る。早い方がい
いので、車輌の隅にあるシャワー室へ行って、シャワーを浴びる。水は出るが、湯の出が悪い。
個室に戻ると、何と、あのマイケルが坐って待っているのに驚く。「ハプニング!テツロウ」とご機嫌よく笑うので、一瞬戸惑う。彼に鍵を渡して、シャワー室へ行くように勧める。
マイクが室外に出て行き、身支度を整えてベッドに横たわると、すぐに眠くなった。ー

◎この年の6月にあったこと

6‐1 悪臭防止法が公布される。
6‐5 東京の新宿西口に「京王プラザホテル」開業。47階、高さ169m。新宿超高層ビルの第一号。
6‐15 一般渡航者の持ち出し外貨の限度額が、3000ドルに緩和。
6‐17 沖縄返還協定調印。
6‐23 イギリス、アイルランドなどの
EC加盟への合意成る。

◎その頃の僕(71年1月の写真)