胡児(こじ)の泉●1971年・西方旅行記ー噴水と広場の国々
★横浜ーナホトカーハバロフスクーモスクワ
1971年〈昭和46〉6月9日(水曜日)晴れ
昨夜、宿泊した横浜のシルク・ホテルへ、高校時代のクラスメートの高野元君(東京銀行勤務)が見送りに来てくれ、夕食を共にして歓談。
同君は、パリ支店在勤が長かったので、いろいろと海外経験のアドバイスを拝聴。「哲ちゃんの度胸なら、大丈夫!」などと、人を食った言い方で勇気付けられる。
だが、すでに年齢も二十歳台の後半、格安の無銭にひとしい、六箇月余の単独での欧米ぶらり旅、いちおうの計画は立てたが、また無事に横浜まで舞い戻って来られるか、同君の激励とは裏腹に、かえって心細くなる。何しろ、すべてが初めてなのだからー。
朝7時、演出家の堂本正樹氏が、ホテルの部屋まで電話をくれる。「去年は三島(由紀夫)があんなわけだし、君が半年も居ないのは、僕は淋しいな」と、氏にしては気弱な言葉も出る。
朝食前、甲府の母に電話をかけると、「海を泳いでも、帰って来なさいよ!」と言われ、迫力に圧倒される。ーが、生後四箇月の一人息子を抱き締め、亡父の出征を品川駅に見送った母。戦没地への慰霊団に加わり訪れたニューギニアの他には、まだ海外の各地をほとんど知らない彼女とすれば、けだし当然の反応かもしれない。
同じ甲府に住む伯母にも電話。「あんた帰って来なくちゃァ、駄目だよ」と、の給う。いや、参った参った。先日帰郷した折り、甲府駅まで見送ってくれた人たちに、よろしくとの伝言を依頼する。
8時過ぎ、シルク・ホテルを出発。
徒歩15分で大桟橋に到着。まず荷物検査がある。スーツケース一個とボストンバッグ一個。不要品は捨て、これだけに纏めあげるのに四・五日かかった。従兄妹のひとりが餞別を持って来てくれた時、旅仕度を見せると、「これだけ? 男って便利に出来てるわね!」と笑われた。
9時頃、埠頭へ堂本氏と助手のおおたか・ゆきおさん、甲府一高同窓の石川元啓君(貴金属商)が、わざわざ見送りに来てくれる。堂本さんは「淋しいな」の一点張り。ソ連のみビザが必要で、取得には煩雑な手続きが掛かり、石川君のお父さんにお世話になった。
すこし遅れて、やはり高校クラスメートの若尾真一郎君(グラフィックデザイナー)と、かつての職場の同僚だった小沢靖一君(国立劇場調査室勤務)が姿を現わす。五人も送りに来てくれるとは思わなかった。
一年間の夫婦揃ってのニューヨーク生活から帰国したばかりの若尾君は、「哲ちゃん、野菜 を忘れずに食べていれば、食事は心配ないよ」と、細やかな忠告。
若尾君だけでなく、小沢君は先年ハワイ大学留学の経験があるし、石川君はサンフランシスコで高校生活を一年間やっているから、同世代では僕だけが、遅れ馳せながらの海外処女体験である!
そう言うと、五人がどっと笑った。いちばん年下の小沢君に、皆んなで後でランチでも食べて帰って貰うべく、残りの少額の日本円を託すー。
10時、乗船開始。ソ連の小型客船バイカル号。
当てられた船室はデッキ階だが、窓の無い狭い小部屋。左右に上下二段の簡易ベッドがあり、左側の下段が僕。
上段は日本人で、ヘルシンキへ行くクリスチャンの青年。右側の二名も日本人で、ソ連視察団の電気関係の公社員たち。
部屋割りと荷物確認が済み、デッキの舷側に出る。と、多数の見送りの人々の中に、まだ四人が(石川君のみ家業があって帰宅)埠頭に残って、こちらを見上げている。何だか、照れ臭くなる。やられたァー。
船員たちが、上にも下にもテープを渡す。音楽“蛍の光”が始まる。堂本さんが眼鏡の中で笑いながら、彼らしく投げキスをする。小沢君が高く手を振る。四人とテープを投げ合う。
11時、出船。見る見るうちに、埠頭が遠くなって行く。やはり、胸が熱くなるー。
太平洋上は快晴、空も海も青一色。
12時半、すぐに食堂で昼食が出る。人参とじゃが芋のスープに黒パン。粗食だな、と思う。
食後、若尾君に謝意の電報を打つ。
午後、船首の甲板に出て、夏休みを利用してヨーロッパ行脚(あんぎゃ)の、日本の学生三人と話す。
今回の旅程の中で、ソ連の一週間だけ個人旅行が許されないため、イン・ツーリスト社の団体旅行客の一員として行動するので、三十数名の中に僕も、この学生たちも、また相当数の欧米人も混ざっているわけだ。
16時、紅茶とビスケットが出る。
その後、船尾のデッキに置かれたテーブルで、母に第一信の絵葉書を書く。向かい側の席で、ヘルシンキへ行く青年も手紙を書いている。
19時、夕食。メインの二皿が、どちらも大きなソーセージ。
20時、就寝。慣れない四人部屋で、なかなか寝付かれない。あっという間に一日が終わった。
24時、時計の針を一時間進め、早くもナホトカ時間になる。
◎ バイカル号(旅行中に出した、亡母遺品の絵葉書)

★横浜ーナホトカーハバロフスクーモスクワ
1971年〈昭和46〉6月9日(水曜日)晴れ
昨夜、宿泊した横浜のシルク・ホテルへ、高校時代のクラスメートの高野元君(東京銀行勤務)が見送りに来てくれ、夕食を共にして歓談。
同君は、パリ支店在勤が長かったので、いろいろと海外経験のアドバイスを拝聴。「哲ちゃんの度胸なら、大丈夫!」などと、人を食った言い方で勇気付けられる。
だが、すでに年齢も二十歳台の後半、格安の無銭にひとしい、六箇月余の単独での欧米ぶらり旅、いちおうの計画は立てたが、また無事に横浜まで舞い戻って来られるか、同君の激励とは裏腹に、かえって心細くなる。何しろ、すべてが初めてなのだからー。
朝7時、演出家の堂本正樹氏が、ホテルの部屋まで電話をくれる。「去年は三島(由紀夫)があんなわけだし、君が半年も居ないのは、僕は淋しいな」と、氏にしては気弱な言葉も出る。
朝食前、甲府の母に電話をかけると、「海を泳いでも、帰って来なさいよ!」と言われ、迫力に圧倒される。ーが、生後四箇月の一人息子を抱き締め、亡父の出征を品川駅に見送った母。戦没地への慰霊団に加わり訪れたニューギニアの他には、まだ海外の各地をほとんど知らない彼女とすれば、けだし当然の反応かもしれない。
同じ甲府に住む伯母にも電話。「あんた帰って来なくちゃァ、駄目だよ」と、の給う。いや、参った参った。先日帰郷した折り、甲府駅まで見送ってくれた人たちに、よろしくとの伝言を依頼する。
8時過ぎ、シルク・ホテルを出発。
徒歩15分で大桟橋に到着。まず荷物検査がある。スーツケース一個とボストンバッグ一個。不要品は捨て、これだけに纏めあげるのに四・五日かかった。従兄妹のひとりが餞別を持って来てくれた時、旅仕度を見せると、「これだけ? 男って便利に出来てるわね!」と笑われた。
9時頃、埠頭へ堂本氏と助手のおおたか・ゆきおさん、甲府一高同窓の石川元啓君(貴金属商)が、わざわざ見送りに来てくれる。堂本さんは「淋しいな」の一点張り。ソ連のみビザが必要で、取得には煩雑な手続きが掛かり、石川君のお父さんにお世話になった。
すこし遅れて、やはり高校クラスメートの若尾真一郎君(グラフィックデザイナー)と、かつての職場の同僚だった小沢靖一君(国立劇場調査室勤務)が姿を現わす。五人も送りに来てくれるとは思わなかった。
一年間の夫婦揃ってのニューヨーク生活から帰国したばかりの若尾君は、「哲ちゃん、野菜 を忘れずに食べていれば、食事は心配ないよ」と、細やかな忠告。
若尾君だけでなく、小沢君は先年ハワイ大学留学の経験があるし、石川君はサンフランシスコで高校生活を一年間やっているから、同世代では僕だけが、遅れ馳せながらの海外処女体験である!
そう言うと、五人がどっと笑った。いちばん年下の小沢君に、皆んなで後でランチでも食べて帰って貰うべく、残りの少額の日本円を託すー。
10時、乗船開始。ソ連の小型客船バイカル号。
当てられた船室はデッキ階だが、窓の無い狭い小部屋。左右に上下二段の簡易ベッドがあり、左側の下段が僕。
上段は日本人で、ヘルシンキへ行くクリスチャンの青年。右側の二名も日本人で、ソ連視察団の電気関係の公社員たち。
部屋割りと荷物確認が済み、デッキの舷側に出る。と、多数の見送りの人々の中に、まだ四人が(石川君のみ家業があって帰宅)埠頭に残って、こちらを見上げている。何だか、照れ臭くなる。やられたァー。
船員たちが、上にも下にもテープを渡す。音楽“蛍の光”が始まる。堂本さんが眼鏡の中で笑いながら、彼らしく投げキスをする。小沢君が高く手を振る。四人とテープを投げ合う。
11時、出船。見る見るうちに、埠頭が遠くなって行く。やはり、胸が熱くなるー。
太平洋上は快晴、空も海も青一色。
12時半、すぐに食堂で昼食が出る。人参とじゃが芋のスープに黒パン。粗食だな、と思う。
食後、若尾君に謝意の電報を打つ。
午後、船首の甲板に出て、夏休みを利用してヨーロッパ行脚(あんぎゃ)の、日本の学生三人と話す。
今回の旅程の中で、ソ連の一週間だけ個人旅行が許されないため、イン・ツーリスト社の団体旅行客の一員として行動するので、三十数名の中に僕も、この学生たちも、また相当数の欧米人も混ざっているわけだ。
16時、紅茶とビスケットが出る。
その後、船尾のデッキに置かれたテーブルで、母に第一信の絵葉書を書く。向かい側の席で、ヘルシンキへ行く青年も手紙を書いている。
19時、夕食。メインの二皿が、どちらも大きなソーセージ。
20時、就寝。慣れない四人部屋で、なかなか寝付かれない。あっという間に一日が終わった。
24時、時計の針を一時間進め、早くもナホトカ時間になる。
◎ バイカル号(旅行中に出した、亡母遺品の絵葉書)
