9月15日(水曜日)  晴れ  パリ9時、起床。廊下に運ばれた朝食を、室内で摂る。すでに10日以上になるが、この部屋が、広くて明るく清潔で、良き宿泊先であったことを思い、竹本氏に感謝する。……10時半、横尾さんの部屋をノック。すでに起床、直ぐに連れ立って、外出。テアトル広場付近にある、カフェの外だしの席に座り、横尾さんは、何時ものように朝昼兼食。僕は喫茶。昨日は1日、彼と遇わなかったが、今朝は何となくご機嫌がいい。……食後、近くのサクレ・クール寺院まで漫歩、その南側にある階段に座し、しばらく雑談。ここからのパリ市内の眺望は、いつも人々を癒す。横尾さんは、ニューヨークの面白さを語り、僕は、ギリシアの遺跡を讃えた。「パラディエ」に戻ってからも、横尾さんの部屋で昼下がりの2時間ばかり、その話題が続いた。彼は「中村さんの遺跡についての心象風景を聴いていたら、僕も、ギリシアへ行きたくなった」と言ってくれた。……5時、横尾さんは、街へ独り歩きに。僕は、この夜に送別会を開いて下さるというので、少し遅れて竹本さんの住居へ行く。と、氏から「いま、電話しようと思っていたんです。今夜の7時半、ここへダニエル君が、貴方に会いに来るそうです。ドイツから帰ったばかりらしい……」という言葉を耳にして、驚く。ダニエル君はフランス人で、確か本名がダニエル・キリシだった。……2年前の夏、高橋睦郎と草森紳一、そして「話の特集」編集者の井上保というメンバーが、僕の郷里を訪れ、皆で揃って「富士吉田の火祭り」を見物した折り、高橋さんに同行していたのが、ダニエル君という20歳前後の外国の若者だった。……彼がいまパリに居て、僕を覚えているとは! 竹本さんの話では、ダニエル君は夏休みでドイツに行き、近くスタンフォード大学へ留学のため渡米する、日本の経済方面に関心があるよし。突然のことで驚いたが、まだ時間があり、身なりを整えるため、一度ペンションに帰った。7時40分、やや遅れて再び竹本さんの住居へ行くと、すでにダニエル君が待っていた。僅か2年の間に、すっかり大人びた風貌になっていたのには、瞠目。先ずは握手し、再会を祝し合った。彼は23歳、すっかり落ち着いた感じで、もうフィアンセもいると言う。僕は正直、彼についての記憶は薄かったのだが、彼は2年前の初来日の体験が強かったらしく、わざわざ僕に会いに来てくれたのは、とても嬉しかった。竹本さんも交えて、明日の昼食を共にすることを約し、この夜は一先ず別れた。……夜9時から、このアパルトマンで、僕のための送別会。竹本夫妻が声を掛けて下さったので、多くの参加者があった。先ず、竹本夫妻と若槻夫妻、それに横尾さん。仏文学者の井上究一郎氏の令嬢、T女史、丹波のSさんなど女性たち。音楽家のY氏夫妻、フランス人の画家P氏とその友人などなど。在留または旅行中の日本人に、現地のフランス人を交えた10数人が集まり、賑やかに住居が混雑。ビールに焼き鳥、おでん、くず餅などご馳走が出て、大いに盛り上がり、竹本さんがスペインで撮った、ご自慢のゴヤの画のスライドを映されたり、横尾さんと音楽家のYさんとが、怖いマリファナの実際体験を語ったり、もろもろの話が尽きず、深更2時過ぎまで、皆々で去らずに笑い興じた。まことに愉快な、歓を尽くした夜だった。……午前3時、横尾さんとペンションに帰った。 



 9月16日(木曜日)  晴れ  パリ9時に起床し、室内で朝食。パリ滞在の最終日だが、いささか睡眠不足。10時、横尾さんの部屋をノック。暫くして、僕の部屋へご到来。「昨夜は、楽しかった……」と、2人で少し話す。横尾さんは、音楽家のYさんと会う約束をしたとかで、やがて先に外出。午後1時、竹本さんの住居へ行く。そこへ約束どおり、ダニエル君と、そのフィアンセが来ていた。竹本さんが加わり、4人で徒歩で、坂下の「ロシュシュアール大通り」まで出る。若槻さんが先日、案内してくれた中華料理店を、竹本夫人が僕の名で、すでに予約して下さっていた。……ダニエル君とフィアンセ、竹本さんと僕との2組が、互いに対面して座った。幾皿かの料理を皆で分かち合う 中華料理のスタイルは、こうした親睦には最適だった。ダニエル君は箸を使って、僕の皿に料理を運んでくれ、僕も彼のフィアンセに料理を運び、彼女は竹本さんの皿に、竹本さんはまた、ダニエル君の皿に料理を運んだ。そうした食前の儀式のような動きの中で、親しみが醸されてくるのが不思議だった。昨日まで、ダニエル君も僕も、まさかパリで、互いに再会できるとは、まず思ってもいなかった。彼にも僕にも、「朋(とも)あり、遠方より来たる、亦(ま)た楽しからずや」とは、このことだったのだ。そして、結びの神は竹本氏である。……ダニエル君は、2年前の「富士吉田の火祭り」を覚えていて、「面白かった!懐かしい」と笑った。彼は今月中に渡米し、スタンフォード大学で経済を学ぶという。彼は、戦後の日本経済の驚異的な成長は、とても興味深いと語った。この秋、僕もサンフランシスコに行くだろう、と告げると、「それなら連絡して欲しい。大学を案内する」と言ってくれた。「結婚は……?」と訊くと、「フランスに帰って来てから」と答え、フィアンセを見つめて、ウィンクした。……午後3時頃、ダニエル君たちと別れた。僕と竹本さんは、別のカフェで喫茶。「財閥の三井・三菱の名を聴くだけで、あんなにダニエル君の眼が光るのは、日本経済の躍進が、こちらでは驚きなんですよ」と竹本さん。竹本さんと別れ、「パラディエ」30号室に戻り、荷物の整理をして、帰り支度する。6時、竹本さんの住居へ出向き、パリ滞在中お世話になった謝意を述べ、お別れの挨拶をする。夫人が、この日ちょうど縫い上がった1着のドレスを、僕に見せてくださる。郷里の母が、かの地で息子が、何かとお世話になることへの小さな謝意を示すべく、僕には言わず、パリに甲斐絹を少しばかりお送りしていたのだ。……夜7時、竹本さんの住居へT女史、丹波のSさん、続いて横尾さんが見える。この晩、僕も加わり4人で、評判の映画を観に行く約束をしていた。4人は、住居に近い「ピガール広場」の周辺に、小ぶりなインド料理店を見つけたので、そこでカレーライスを食べた。女性たちが、会計をしてくれた。広場の西側の「クリシー大通り」を歩くと、やがて先日のキャバレー「ムーラン・ルージュ」のある、界隈では盛り場の灯が見える。シネマ館が一角にあり、上映作品はルキノ・ヴィスコンティの『ヴェニスに死す』で、8時に開映。東京でも、すでに公開されていたが、まだ4人とも観ていなかった。……終映後、誰も言葉数が少なく、ほとんど感想を漏らす人が無かった。……僕の場合、ヴィスコンティの初期の『夏の嵐』『八月の光』などの、その集中度と燃焼力の高さには瞠目。また数年前の、シチリア島の興亡と一族の運命を描いた長篇『山猫』は、まことに堂々たる傑作で、感銘が深かった。……ヴィスコンティの映像の核心には、演劇的かつ舞台的な官能の陶酔があると思うが、このトーマス・マンの小説の映画化は、彼が食指を動かす領域であっても、そこには、彼の資質とは異なる"瞑想の世界"が横たわる。原作と映像との質的なズレが、この映を何かヤマの無い、間延びしたものにしている点がある。……帰途は、タクシー2台に分乗して別れ、夜半11時、ペンションへ戻った。と、この遅い時間に、竹本さんが来られた。何事かと思ったら、「いよいよ明日はお別れですね。来月はアメリカへも行かれるそうですから、くれぐれも気を付けられて……」と仰有って下さった。氏は、この一言を僕に伝えるべく、深夜わざわざ来られたのだ。当地滞在中のご親切を謝し、ペンションの外まで出て、氏を見送った。……この夜は、早めにベッドに就いた。今日は、水のように晴れた、穏やかな、何か泣きたくなるような1日だった。誰も彼もが、快く親切にしてくれた。……この先、いつまたパリに来られるのだろう。パリとギリシアへは、必ずまた来たい。これからの自分の10年は、おそらく苦しい難しいものになるだろう。勉強だ、勉強だ、帰国後はやり直さなければならない! 零から再出発しなければならない! さようなら、パリ。 



 ◎写真は   モンマルトルのテルトル広場(亡母遺品の絵葉書)       


1969年8月・富士吉田の火祭りを見物したとき。右から、井上保・高橋睦郎・僕。この1 枚は、確かダニエル・キリシ君が撮った。