10月6日(水曜日) 晴れ ボルチモアーニューヨーク
6時半、起床。一晩、初めて「モーテル」なるものに泊まったが、要するに、郊外に設けられた駐車可能の小規模の宿泊施設で、環境良好、設備完備、実質的にホテルと変わらない。アメリカという車社会が生んだ、至って軽便な休息空間だが、これから日本にも増えるかもしれない。……7時、テレビのチャンネルを回す。前夜、シュナイダー氏が勧めてくれた、日本の近況を伝える報道番組だった。
7時40分、シュナイダー氏が約束通り、フロントまで迎えに来てくれた。昨夜の礼を述べ、一緒に駐車場へ出ると、バーモントの丘の上の景色が、朝焼けに染まっている。氏の姿を2枚、僕のカメラに収めた。
マイカーで、ボルチモアのバス・ターミナルへ向かう。氏は車中、僕と母とに、用意した土産の品を下さった。僕にはカフスボタン、母には香水。ご親切を深謝した。と彼は「ミサオさん、たくさんたくさん、愛します」と呟いた。……
8時過ぎ、バス・ターミナル着。構内のカフェに入り、氏と2人で朝のコーヒーを喫んだ。出発まで時間があり、見送りを辞退して、僕が氏を送った。構内を出たところで、氏は僕のカメラで1枚、僕の姿を撮られた。マイカーが走り出し、互いに手を振った。僕は何故か、氏の孤影を見た気がした。幼少時代、若い彼の背中に乗り、プールで共に泳いだ日が思い出された。……
8時40分、グレイハウンドのバスが出た。ニューヨークまで4時間。
僕が座った席の右手の窓側には、7歳くらいの男の子が1人。その後部窓側の席には、母親とおぼしき現地の女性が1人いた。可愛い子供だったので、頭を撫でると、後ろの彼女から声を掛けられた。「有り難う、日本からですか? 観ていたら先ほど、こちらの男性に手を振っていましたね!」僕は、答えた「そうです。貴女のお子さんくらいの時に日本で遇ってから、昨日、21年ぶりに再会しました」「21年! それは素晴らしい」と彼女は目を丸くした。……この母子は、フィラデルフィアで下りた。そこからニューヨークへの途中、バスが故障、併走の別のバスに移動するハプニングがあったが、ほぼ定刻の12時少し前、ニューヨーク帰着。バス・ターミナル近くのカフェ・レストランで、ようやく朝昼を兼ねた食事。野菜たっぷりのベジタブルカレーと、コップ一杯のミルク。12時40分頃、タイムズ・スクエアのホテル「ピカデリー」へ戻る。
部屋は前と同じ936号室。山田氏に電話を入れ、無事に帰着の報告。すぐにタクシーに乗り、国連ビル近くの裏千家の事務所へ行く。山田さん初め、一同と歓談。皆さん「シュナイダーさんに会えて、よかったですね」と喜んでくれた。宮原女史が「お母様にも、報告されたら」と勧めるので、又もや国際電話を拝借。折よく母も在宅。「シュナイダー氏と無事に会えた。手紙を出したから、読んでください」とだけ伝え、母からは黒田瑞夫・国連大使の連絡先が知らされた。……山田さんと一緒に、事務所から氏の住居へ移動。預けたスーツケースを携え、タクシーでホテルに戻った。
自室で休憩後、午後4時、再びホテルを出る。高校時代からの友人・若尾真一郎君の日本人の親戚、長く当地在住のN家を訪れる、今日は予定の日だったのだ。N家はニューヨークから列車で1時間の、近郊地ママロネックにあった。タイムズ・スクエアから南の近距離にある、グランド・セントラル駅までタクシーに乗車。と下車する際、小銭の持ち合わせが無かったので、10ドル紙幣1枚を渡したら、運転手が破って突き返して来た。釣り銭の用意が無かったにしろ、乱暴さには驚いた。そして「乗車料は要らない!」と言われ、降ろされた。いかにもアメリカ人らしいストレートさだ。「短距離なのに、10ドル紙幣を出す馬鹿な奴」である。
広大な駅の構内のカフェの1つに入り、珈琲を喫み、ドーナツ2個を食べ、空腹を癒やす。
午後5時、列車が出た。通勤客が多いのか、座る席が無い。……すぐに森林地帯に入った。東京は四方に平たく拡大した都市だから、列車で山林を眺めるまで、かなりの時間がかかる。幾つかの島の上に、天高く高く拡張したニューヨークは、摩天楼の街区を離れるや、あッという間に鬱蒼たる森林地域に突入する。この日米ニ都の違いが面白かった。……
夕刻6時、ママロネック着。降り立つと、さながら軽井沢のような別荘地帯である。風景もだが、寒い!
駅前のボックスから、N家に電話すると夫人が出て、道筋を教えられる。徒歩5、6分で、その家に着く。夫人と雑談していると、7時頃、主人の写真家N氏が帰宅。「何も無いが……」と言われ、和食の夕飯をご馳走になる。若尾君がニューヨーク在留の1年間、当家に寄宿していたので、そのデザイナー修業の日々を、N氏はあれこれと話してくれた。「ここでの生活が長い私の目からすると、彼は年下でも日本的だから、短期間の留学でも、食事その他で苦労があったんだろう」と言われた。横浜まで見送りに来てくれた、彼の顔が浮かんで来た。氏は「ニューヨークでも何処でも、もっと長く居ないと、分からないんだね……」と付け加えた。
9時半過ぎ、訪問のお礼を述べて、辞去。駅まで僅かな道のりなのに、N氏がマイカーで送って下さった。
10時発の列車で、ママロネックを去る。11時、グランド・セントラル駅へ着く。ニューヨーク市内も、深夜になると、かなり寒くなった。ホテルに戻り、就寝したのは12時半過ぎ。ボルチモアからニューヨークへ帰り、続いてママロネックに行き、またニューヨークへ戻るという、痛く疲労した1日であった。
◎ この年の10月にあったこと
10―1 円貨の海外への持ち出し限度枠が、1人2万円から10万円に引き上げ。
10―3 私立高校麻布学園で、生徒集会に機動隊を導入。全校民主化運動に発展。
10―10 NHK 総合テレビ、全カラー化。
10―15 日米繊維協定の了解覚書に仮調印。
10―25 国連総会、中国招請・国府追放案を可決。中国の国連復帰決定、国府が国連脱退を声明。10ー30 美濃部都知事、北朝鮮首相の金日成と会談。
10ー ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画『ヴェニスに死す』公開
◎写真は バーモントのモーテルの駐車場でのシュナイダー氏 (1971年10月に撮る)
ボルチモアのバス・ターミナルの近くでの僕 (同上。シュナイダー氏が撮る)
◎翌年の1972年の春、シュナイダー氏は亡くなった。氏のご老母から僕へ、報せの短いお手紙があった。

