りっくんランド

陸上自衛隊の朝霞駐屯地に隣接している「りっくんランド」。陸上自衛隊広報センターです。

ここに陸軍予科士官学校があったということで、振武臺記念館を訪ねてきました。
無料で入れます。かつ平日なら無料でガイドさんもお願いできるということで、平日狙って行ってきました。

朝霞駐屯地は、新座、和光、東久留米、大泉学園にまたがって存在している広大な敷地。行き方はいろいろありますけれど、池袋駅から東武東上線の朝霞駅まで行って15分ほど歩いて向かいました。
先日は、防衛大臣になった小泉進次郎氏が朝霞駐屯地に視察に来てましたね~。進次郎くんが防衛大臣って大丈夫なんか⁉って思ったけれど。進次郎くんがいろいろな自衛隊駐屯地を視察に訪れるたびに大量のメディアクルーがつくし、ばんばん報道されるしで、広報大使としては適任かも⁉

まず自衛隊広報センターの入り口には、かわいい系キャラがお出迎え。この黄色いぱふっとしたキャラが「りっくん」らしい。

 

なんか、一人、悪っぽいキャラが混じっているけど??(笑)。



振武臺記念館に行く前にしばらく他の施設を見学。

一部リニューアル中で見学できない部分がありますが。戦車とかヘリコプターとか置いてありまして、ヘリコプターの中に入れたりします(飛びませんけどね)
ミニミニヘリコプターみたいなのがあって、無人機の遠隔操作観測システムだそうです。そう~か~、やっぱり、偵察とかは無人機やドローンの時代よねえ、いまや・・・。

 


地下指揮所も入って見学できます。

こんな感じになっているのか~と興味津々。

しかし、狭い。暗い。こんな穴の中でディスプレイ見ながら戦闘指揮って、大変だなあ・・・。

 



陸軍予科士官学校
1941年(昭和16年)10月から終戦まで、この朝霞の地に陸軍予科士官学校がありました。
陸軍幼年学校や、普通の旧姓中学、試験に合格した下士官が、陸軍予科士官学校に入って、その後、陸軍士官学校か陸軍航空士官学校に進むというプロセスでした。
陸軍幼年学校→陸軍予科士官学校→陸軍士官学校(航空将校の場合は陸軍航空士官学校)というルートが、当時のエリート中のエリート街道。「銀時計の特攻」で紹介した若杉是俊大尉はまさにこのルートでした。

振武薹記念館
振武薹記念館の建物自体は、座間に遺されていた旧陸軍士官学校の皇族舎を、1978年(昭和53年)に朝霞駐屯地に移築したもので、陸軍予科士官学校の建物ではありません。
振武臺という名前は、昭和天皇が行幸された時に、「将来益々武を振るえ」という思いから名付けたということです。
終戦まで約19000人が陸軍予科士官学校で学んだそうです。
そして陸軍士官学校や陸軍航空士官学校に進み、将校となり、戦地に向かった人も多い。あるいは日本本土防衛を戦った人達もいる。あるいは若杉是俊少尉のように特攻隊として散っていった人達もいる・・。

 


門は陸軍予科士官学校当時のものを移してきたそうです。立派な門ですねえ。

 

 

遥拝所があって、ここで予科学校の生徒達は皇居と自分の故郷の方角へ向けて挨拶したそうです。

 

九九式十糎山砲もありました。


古そうな石燈籠みたいなものもあるけれど。当時のものだろうか?


振武薹記念館の中
さて、いよいよ、振武臺記念館の中に入りますが。

 

 

残念ながら館内は撮影禁止なので、文だけの説明になります。


まず玄関を入ってすぐ目の前に雄健神社(おたけび神社)の復元されたものがあります。陸軍予科士官学校の守護神とされていました。学生達はこの神社に毎日参拝をしていたそうです。

それから一階の部屋には、軍人勅諭全文が展示されていました。全部で2700文字あるそうです。これを学生達は全部暗記していたそうです。びっくり。やっぱり、みんな、頭よかったんだなあ~。

陸軍大演習の昭和天皇と写っている少尉以上の陸軍将校大勢の写真や、海軍の東郷平八郎さんと乃木希典さんが並んでいる写真など、時代を感じさせる白黒写真がいっぱいありました。

戦争画も何枚かあったけれど、特に説明はなかったなあ。
特攻隊の絵もありました。

太平洋戦争開戦の日(昭和16年12月8日)の新聞と、終戦の日(昭和20年8月15日)の新聞が並べて展示されていて。この新聞の書きっぷりの違いに驚きますねえ。言葉遣いも全然違っている・・・。

8月15日の昭和天皇の玉音放送のレコードもありまして、本物ですか!?と驚きましたが。これはレプリカでした。
なんか、外見は普通の音楽のレコードみたいでした。

終戦を迎えて、陸軍予科士官学校の扁額や菊の大きな金属マークや、雄健神社の御神体をアメリカ軍に辱められないよう、地中に穴を掘って埋めたそうなのです。それを戦後掘り返したものが展示されています。

当時の教科書が並べられている部屋があったのですが。日本の歴史や国語や漢文や数学、地理、化学はわかるけど、心理学、経済学、電気工学の教科書もあって。陸軍士官って、心理学まで学んでいたのか~とびっくりしました。とにかく多数の教科を勉強しなくてはいけなくて、当時は大変だったろうなあと思いました。
秀才でなければ務まりませんねえ。

そして若杉是俊大尉については特別コーナーがありまして。若杉大尉の生涯が紹介されています。やっぱり、若杉大尉は、陸軍予科士官学校の卒業生の中で、特別な存在だったのですねえ。うるうる。

 


そして・・・私が一番ぐっときた展示は、陸軍予科士官学校の61期生が、昭和20年8月15日の昭和天皇の玉音放送を聞いた後に書いたという血判状です。61期生は在学中に終戦になりましたので、予科士官学校を卒業せずに終わります。
彼らが書き残した、その日、その時の思い。
 


忠義


何糞
断行


復讐

恐らく、終戦という事実をまだ消化できずにいた彼らの言葉が並びます。
「愚」や「復讐」って書いた生徒は、その後どうしたのだろうか・・・。
彼らの煮えたぎるような思いが、自暴自棄ではなく、戦後復興へ向けられていったことを願わずにいられません。

私が会社務めをしていた頃。
お客様からの苦情を受けてクレーム対応として私が派遣されました。そのお客様はおじいさんといっていい年齢の男性でしたが。陸軍幼年学校出だということで、弁が立ち、支店の担当者が対応が難しいということで、本社から私が行くことになりました。
そのおじいさんに懸命に事情を説明したのですが。おじいさんは納得できないということでした。

そしておじいさんが私に言ったのです。

「あんたらの説明は大本営の言うことと同じだ。信用できない」と。
 

あれは平成の時代のことでしたが。平成の世になっても、大本営への不満と不信を持ち続けている人がいるのかと驚きましたが。
海軍航空隊ファンになって、戦跡巡りしたり、太平洋戦争の経緯を知っていくと、あの時のおじいさんの言葉が甦ってきます。
おじいさんも、陸軍幼年学校で、将来は陸軍士官となって国のために戦うのだ、日本は勝つのだとひたすら信じていた少年の一人だったのでしょうねえ。ところが現実はまったく違う世界に向かっていきました。その時の悔しさが、おじいさんの心の底にずっとあったのかもしれません。
 

そのおじいさんは私の説明に結局納得はして下さいませんでしたが。

「遠いところまでご苦労でした」と、去り際に私に労いの言葉をかけてくれました。私はその言葉を聞いて、涙が出そうになったことを憶えています。

 

 

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