巌部隊がいた壕
fuyunoBの沖縄戦跡巡りは続く・・・。
海軍司令部壕から車で10分くらいの所にあるカテーラムイ海軍壕へ。
ムイは沖縄の言葉で「森」を意味するので、カテーラ森ということですね。海軍は「寿山」と呼んだそうです。
現在は田原公園(たばるこうえん)となっています。


カテーラムイ海軍壕には南西諸島海軍航空隊がこもっていました。この航空隊の愛称が「巌部隊」。
この航空隊は、海軍司令部壕にいた大田實司令官の指揮下にありました。巌部隊は小禄飛行場(現在の那覇空港)の防衛と、南西諸島の航空隊の指揮のための部隊で、飛行機や搭乗員を保有していたわけではありません。、奄美大島~八重山諸島の飛行場を管轄して、地上から防衛、管理を指揮していた部隊でした。いわばサポート任務ですね。JALの地上スタッフみたいな感じかな。


この壕は、1944年(昭和19年)8月から12月にかけて、地元の住民も動員して掘られたそうです(朝鮮の人たちや子供も動員されたという証言もある)。
総延長は約350メートルで、高さは2メートルほどあったそう。司令室・兵員室・暗号室などがあったそうです。
2007年から閉鎖中で、中には入れなくなっています。
アメリカ軍の馬乗り攻撃
アメリカ軍が攻めてきた1945年(昭和20年)6月には、カテーラムイ海軍壕には1000人ほどの兵達がいて、住民も含まれていたそうです。飛行場はアメリカ軍に占領されてしまったので、巌部隊も陸戦隊になるしかありませんでした。
6月11日から13日にかけてアメリカ軍のの馬乗り攻撃を受けて壕にこもっていた兵の多くが犠牲に・・・。斬りこみで反撃しますが、アメリカ軍の重火器の前にはなすすべがありません。
アメリカ軍の馬乗り攻撃とは、沖縄戦で壕や洞窟にこもる日本兵を攻撃するために、壕の位置を特定してその真上から垂直に穴を開け、その穴からガソリンや火炎放射器の燃料などを注入して火をつけるのです・・・。壕内の兵達を焼殺または窒息死させるという恐ろしい攻撃方法です・・・。
いや、ほんと、現在のイスラエルのガザ攻撃に匹敵する残酷な攻撃方法です・・・。
沖縄戦では、この馬乗り攻撃で、兵と一緒に壕や洞窟にこもっていた沖縄県民も多く犠牲になっています・・・。いくら戦争といっても、よくそんなことができるものだ・・・。
6月13日、カテーラムイ海軍壕にいた巌部隊司令の川村匡(かわむら ただし)中佐が戦死。生き残っていた兵は投降するか遊撃戦に出るか、壕にこもるか・・・でした。実質的には6月13日でカテーラムイ海軍壕はアメリカ軍に制圧されています。
6月7日に川村中佐宛てに、第五航空艦隊司令長官のアノ宇垣纏中将から激励電が発信されました。それに対して川村中佐は「隊員一同更ニ奮起皇國護持ノ任ニ邁進以テ御期待ニ沿ハントス」と返信していますが。いや、もう、その頃はどうやっても勝ち目がない展開になっていたわけですが。
中将から激励されると、「ご期待に沿うよう頑張ります」と答えるしかなかったんだろうなあ・・・。当時の日本の軍人には捕虜になるとか降参とかいう選択肢がなかった、あるいは与えられなかったのですなあ・・・。
川村匡中佐は、青森県出身、海軍兵学校卒55期、飛行学生を経て、館山航空隊分隊長、霞ヶ浦航空隊教官、蒼龍分隊長、航空技術廠発著機部員など、ザ・エリート道を歩んでおられます。生きておられれば、きっと戦後の日本の力になられた方だと思うのですが・・・。あるいは、たくさんの部下や仲間が戦死して、自分だけが生き残るわけにはいかないと決意していたのでしょうか。
追記:台湾沖航空戦でT攻撃部隊に協力した巌部隊
神野正美著『台湾沖航空戦 T攻撃部隊 陸軍雷撃隊の死闘』(光人社NF文庫)の中に、巌部隊がT攻撃部隊に協力して奮闘した様子が書かれていました。
台湾沖航空戦の初日となった、1944年(昭和19年)10月12日、攻撃262飛行隊の第一陣の攻撃隊(照明弾を搭載した直協隊と天山の雷撃隊)が宮崎基地を飛び立ち、夕方沖縄の小禄飛行場へ到着。この攻撃隊には整備分隊長も同行していましたが、南西諸島航空隊、つまり巌部隊の整備員も協力して、懸命に機体の整備を行ったそうです。
そして、巌部隊の気象長が、攻撃隊に対し戦場の気象状況を説明する任を担っていました。(その時の巌部隊の司令は川村さんの前の、棚町整大佐だった)
気象長は予備士官の矢崎好夫少尉(この方は戦争を生き抜き、戦後気象庁に務めています)。矢崎少尉は巌部隊に配属になってから、96式陸攻にたびたび乗って南西諸島の地形や特殊な気候を調査していました。
台湾沖航空戦は、台風を利用してアメリカ機動部隊に迫って攻撃するという、悪天候を逆手に取る作戦でした。でも、あまりにも暴風雨がひどければ、航空機にとって致命的、飛行が難しくなります。T攻撃部隊にとって、気象は重大なポイントでした。このT攻撃作戦の立案者だったといわれている源田實航空参謀は、台風にまぎれてアメリカ機動部隊に夜間接近すると目論んでいましたが。矢崎少尉によると、10月半ばの南西諸島は梅雨時のように天候が不安定で乱れがち、アメリカ機動部隊にとっては守るに易く、日本側の攻撃隊にとっては攻めるに難しい気象状況であったと回想しています。
T攻撃部隊の第一陣の攻撃隊が小禄飛行場に到着した10月12日には、早朝から特設テントが張られ、「巌部隊特設戦闘指揮所」と書いた幟が掲げられたそうです。司令もみんなこの戦闘指揮所に詰めていたそうです。巌部隊の張り切りぶりがわかりますねえ。
そして気象壕(そういう壕があったのですね・・・)から電話連絡してくる観測データに基づき、九州から台湾方面に至る天気図を3時間ごとに作成していたそうです。
沖縄の南東洋上に台風があり、石垣島と台湾北部の間にも小さな低気圧が発生し発展していることを観測していました。「攻撃隊にとって多難な航路気象になる」という予測を、攻撃隊に説明したそうです。
しかし、攻撃隊は台湾へ向かって出撃し・・・・。
T攻撃部隊による台湾沖航空戦の成果は、あれだけの準備と訓練とを重ねたにもかかわらず、虚しいものになりました・・・。
やっぱり、悪天候を逆手にとって攻めるって発想自体が悪かったんではないか、源田さん・・・。
T攻撃部隊の奮闘については「陸軍雷撃隊育ての親 長井彊大尉」で詳しく紹介しています。
戦跡保存の難しさ
終戦直前の1945年(昭和20年)8月14日の時点でも、この壕の中に50人前後の兵達がこもっていたということです。
この壕が日本に返還されたのは1980年。終戦からなんと35年後です。それまではアメリカ軍の那覇空軍の敷地内にありました。
日本に返還後に、この壕の中から遺骨や遺品がたくさん出土したそうです。
2022年2月9日の琉球新聞デジタル版の記事によると。
那覇市は1991年にカテーラムイ海軍壕を一般公開し、その後も平和学習に活用されたが、2007年ごろからは閉鎖されたままになっていて、その理由は市が「安全性が確保できないと判断した」ためであるのこと。壕一帯は「崩落の危険性があり、安全性が確保できない」として、文化財指定にも後ろ向きなのだそう。庁内で壕の保存・活用に向けた議論はないということなのです。
う~む。海軍司令部壕の扱いとはえらい違いだなあ・・・。
今は田原公園として地元の子供達の遊び場になっている、かってのカテーラムイ海軍壕。
終戦から80年も経っているのに今さら沖縄戦の悲惨な過去を甦らせる必要はないと思う人達もおられることと思います。保存や修繕にはお金がかかるでしょうし、それは県民の税金の負担になるでしょうし。戦跡を見ることで辛い、苦しいと思う方もおられるでしょうし。
戦跡を残すべきか、残さないべきか。あるいはどう保存し、後世に繋げていくか。難しい問題ですよねえ。
あと20年たって、終戦100年となる頃には、多くの戦跡が、壊され、その上に新たな建造物が立ち、あるいは朽ちていくのかもしれない。
いろいろ考えさせられるカテーラムイ海軍壕です。
↑猫ちゃんがくつろいでいました。平和な日本でありがたいです。





