(海軍司令部壕の続き)

 

大田司令官の最後のメッセージ

↑司令官室。

 

大田實少将がいた司令官室。
大田少将は千葉県出身。海軍兵学校卒41期。南雲司令官の下で参謀長を務めてミッドウェーで大敗した草鹿龍之介さんや、キスカ撤退作戦で有名な木村昌福さんが、同期にいますね。大田さんは海軍における陸戦の権威者だったそうです。
沖縄戦では沖縄根拠地隊司令官を務めました。

死後海軍中将に特別昇進。享年54歳でした。

大田少将が海軍次官あてに打った最後の電報の

「沖縄県民かく戦えり、県民に対し後世特別のご高配を賜らんことを」

は私達の胸を打ちます。

太平洋戦争中、軍人さんが最期を迎える前に、大本営や司令部に訣別の電報を打つことはよくありましたが。

大田少将のように、その地の民間人のことを憂いて思いやる言葉を含めた方は、他にいなかったのではないでしょうか。

 

壕の通路に、大田少将の電報の全文が展示されています。英語版も展示されています。

この海軍司令壕、アメリカ人の人達もたくさん訪れていたそうで、みんな、英語版の大田少将の最後の電報をじっと読んでいたそうです。

 

アメリカ軍が上陸して地上戦が戦われた沖縄では、本当にたくさんの民間人が軍に協力し、あるいは強制的に協力させられ、戦いに巻き込まれてしまいました。

 

大田少将の最後の電報は、以下の文で結ばれています。

 

「本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□一木一草焦土ト化セン」
(本戦闘の結末として沖縄島は草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている)

沖縄は大変な事態になっている。沖縄が経験した悲惨な戦いを繰り返さないでくれ。

大田少将は軍人ではありますが、この電報の最後の文は、戦争の無残さを訴える彼の叫びのように私には思えます。

 

更に壕の中を進んでいきますと、幾つかの個室というか、個別の部屋が掘られています。



↑暗号室。

 

↑発電室。

 

↑発電機台。

 

↑下士官室。

 

狭すぎて、人が多すぎて、座ることも横になることもできず、兵達は立ちながら休んだそうです・・・(涙)

 

 

↑医療室。医療室といっても・・・おそらく医薬品は不足して、できる治療は限られていたでしょう・・・。

 

↑出撃用出口。戦争中はここから兵が出て、アメリカ軍を攻撃しました。

 

資料館

重圧感のある壕を出て・・・。

資料館の方を見てみます。

 

 

壕から発見された、たくさんの遺品・・・。武器から生活用品まで・・・。

 

 

この壕には、まだまだ多くの遺品が埋まっているそうです。

 

軍服の横に展示されている銃剣には、剣ではなく、木の棒が刺さっています・・・。武器不足で、木の棒で、アメリカ軍と戦っていたのです・・・(涙)。

 

資料館はこじんまりとはしていたものの、見応えのある展示品が多かったそうです。

ただ・・・直視が難しい写真も幾つかあったとのこと・・・。それは戦争の真実をまぎれもなく写し出したものであるとは思いますが・・・。

 

バトンは渡されたか

資料館の一角に、司令部壕で自決した一人、沖縄方面海軍根拠地隊機関参謀、山田弘國中佐の遺品が、まとまって展示されていました。

 

山田中佐の息子さんへの遺書が印象的です。
 

父は「バトン」をお前に渡したよ。

父が望んで達する事の出来なかった

更に大なる飛躍こそは

お前以外に誰が襲いで呉れるひとがあろうか・・・


山田中佐の「バトン」は、息子さんに無事受け継がれたでしょうか。きっとそうであったと信じたいです。
 

アメリカ軍が迫る中で、日本の敗戦を既に予感していたであろう山田中佐が、その命を絶つ前に、息子さんへ渡した「バトン」。

その「バトン」は息子さんだけでなく、今を生きる私達みんなにも渡されたものではないでしょうか。

未来への飛躍を遂げてほしいという願いの「バトン」は、悲しい戦争を経て、私達が引き継いでいかなければならない「バトン」だという気がします。

 

fuyunoBから沖縄みやげとして、海軍司令部壕のパンフレットと、DVDを受け取りました。

パンフレットは日本語はもちろん、英語、中国語、韓国語でも用意されていたそうです。

「壕は語る」という冊子は、書き込み式になっていて、子供さんや学生さん用に作られたものらしく、戦争についてそれぞれが考えるよう工夫されています。

 

沖縄戦で失われたすべての命の、ご冥福をお祈り致します。

 

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