fuyunoB、沖縄へ行く
石垣島から沖縄へ仕事で行った妹、このブログでいうところのfuyunoB。仕事の隙間時間を使って、那覇市にある海軍司令部壕を訪れたそうです・・・が・・・壮絶なものを感じたようです。

那覇港についたfuyunoBは、友人に車で迎えにきてもらい、海軍司令部壕へ(海軍壕公園の中にある)。

海軍壕公園は、バスとか電車とかでは行けないらしいです。車でないと。
海軍司令部壕は、太平洋戦争中、沖縄戦で日本海軍の司令部として使われた防空壕で、当時の姿がそのまま保存され、公開されています。
日本海軍の終焉の場所の一つともいえます。

 

 

↑シーサーがお出迎え。
 

 

海軍司令部壕は、重要機密を守るために海軍の兵達が民間人の手を借りずにつるはしなどを使って掘ったそうです。全長約450mの坑道がはりめぐされ、コンクリートや漆喰で壁が補強されています(見学できるのは300m分)。よく、つるはしでこれだけの深さ、大きさの壕が掘れたなあ・・・。

陸軍は第32軍が沖縄で戦い、やはり壕を掘っていて、陸軍の司令部壕跡は首里城と平和祈念公園にありますが、壕の中に入ることはできません。
沖縄戦を戦った空間がそのまま残されていて、実際に見ることができるという意味で、海軍司令部壕は貴重な戦跡だと思います。

沖縄の戦い
1945年(昭和20年)1月20日に、大田實海軍少将が沖縄方面根拠地隊司令官として着任します。アメリカ軍が沖縄へ侵攻してくるのはもう時間の問題と見られていました。
生きては帰れないことは、おそらく大田少将も覚悟していたのではないでしょうか。

3月23日から、アメリカ軍の攻撃が本格的に始まり、5月半ばにはアメリカ軍は那覇市街に入ります。
陸軍の方は首里付近に集結していて、アメリカ軍との直接対決を避けつつ沖縄本島南端部へ撤退していき、持久戦を狙います。この過程で沖縄の多くの民間人を巻き込み、犠牲者を出していくことになるのですが・・・。

沖縄のアメリカ軍を攻撃しようと、海軍は菊水作戦を発令。海軍、陸軍ともに、ものすごい数の特攻機が出撃したのもこの頃です。沖縄戦で散った特攻隊員の数は1,000人を超えると言われています(沖縄翼友会のホームページより)。

陸軍の知覧飛行場から飛び立つ特攻隊が向かった先も多くが沖縄方面です。

海軍の非道の特攻兵器、震洋も(いえ、特攻兵器はすべて非道なのですが、特に無茶無茶だという意味で)沖縄戦に投入されています。
 

沖縄の空でも、海でも、地上でも。

日本海軍の、日本陸軍の、沖縄県民の、そしてアメリカ兵の、多くの命が失われる苛烈な戦いが行われていました。

司令部壕にいた海軍は、勇猛にアメリカ軍と戦いますが、次第に追い詰められていきます。
陸軍と合流しようとしましたが、アメリカ軍の攻撃がものすごかったのでできず、そのまま司令部壕付近に留まることになりました。もう壕の中にこもっているしかできない状況でした。武器や食糧も限られてきて、アメリカ軍に決死の斬りこみや夜襲をするくらいしか戦う術が残されていませんでした。

6月4日にはアメリカ軍は海軍司令部壕がある那覇市南西部を包囲します。

もはやこれまでと覚悟した大田司令官は6月6日に訣別の電報を大本営に打ち、その後、海軍次官あてに、あの有名な「沖縄県民かく戦えり、県民に対し後世特別のご高配を賜らんことを」の電報を打ちました。
 

6月13日、アメリカ軍の集中攻撃が司令部壕に加えられる中で、大田司令官とその幕僚達は自決を遂げました。これにより、司令部壕における日本海軍の組織的戦闘は終了しました。海軍司令部壕には約4000名の兵がいたと言われていますが、その多くが壮絶な最期を迎えています。

陸軍の方は、6月23日に牛島満司令官や長勇参謀長などが自決し、兵達は次々と玉砕攻撃を行い、陸軍部隊も消滅。6月23日をもって、日本軍による沖縄での組織的戦闘は終わりを遂げました。

終戦後、この海軍司令部壕は放置されていて、1953年(昭和28年)に、生き残った元海軍部隊隊員が司令部壕跡を訪れてみたところ、入口は崩壊し壕内には泥水が溜まっていたそうです。兵達のご遺体もそのままであったようで、壕内から800名以上の遺骨が収集されたそうです。1958年(昭和33年)には更に1500名以上の遺骨が収集されて、沖縄海友会によって海軍慰霊之塔が建立されました。

 

 

↑桜と錨マーク。

 

↑海軍慰霊之塔

慰霊之塔には、野村吉三郎氏のお名前が。

海軍兵学校卒26期の海軍軍人で、国際法の専門家、外務大臣を務めた後、太平洋戦争開戦時には駐米大使でした。この野村氏、「石垣島事件」で被告となった田口泰正さんの減刑を求める手紙をアメリカ側に送って、死刑判決を覆そうと運動してくれています。

 

 
海軍司令部壕
海軍司令部壕の上には資料館が立っています。
 
資料館については、後編で書くとして、まずは壕の中へ。資料館の階段を下りて・・・。
 

 

案内板でかなり長く大きな壕だとわかります。

 

地下約20メートルへ。階段を下りていきます。

たくさんの折り鶴が・・・。

 

 

かな~り深いです・・・。

 

 

ひや~りとする空間です。

水っ気も多い。

 

壕内には、堀った時につかったつるはしが展示されていました。

 

階段を下りきって一番はじめにあるのが「作戦室」。

戦争当時そのままの壁が残されているそうです。

 

そして、幕僚室・・・。

 

幕僚達は自決する時に手榴弾を使ったのですが・・・その跡が生々しく残っています・・・。

 

(後編へ続く)

 

 

 

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