多磨霊園再訪
猛暑が続く東京ですが。
暑さが厳しくなる前の6月に、厚木航空隊事件で自決した山田九七郎少佐のお墓参りをしようと再訪した多磨霊園。

例によって迷う・・・。
「歴史が眠る多磨霊園」によると山田少佐の墓所番地は3-1-1だそうなのですが、見つからない・・・(もともと私は方向音痴ではある)。どうも、多磨霊園のお墓のナンバリング方法がわからないのだなあ、私・・・。そのうち雨が土砂降りになってきて、心折れる・・・。
 

しかし。もうお一人、お墓参りをしたかった方のお墓はさ迷っているうちに発見。
美保関事件で自決した水城圭次海軍大佐のお墓にお参りしました。
墓所番地は6-1-1-13です。
とても美しく整えられたお墓でありました。ご子孫の方々が大切に守ってきたお墓とお見受けします。
当時の海軍の仲間が建てた碑もあります。

↑昭和二年十二月二十六日の文字が。

 

美保関事件
美保関事件(みほのせきじけん)とは、昭和2年(1927年)8月24日に島根県の美保関沖で日本海軍の夜間演習中に起こった海難事故。
明治35年(1902年)、陸軍が演習中に八甲田山の雪中行軍で遭難し多くの犠牲者を出してしまいましたが(映画「八甲田山」で「天は我々を見放したぁ・・・」という北大路欣也さんのセリフが当時ばずりましたな)、それに匹敵するほどの悲劇とされ、「海の八甲田山」と言われているそうです。
水城圭次大佐は、その美保関事件の責任を負って自決した方です。
昭和2年といえば、まだ日中戦争も太平洋戦争も起こる前。「平時」だったわけです。平時だったのに、自決した方がいたとは・・・。
この美保関事件、その後太平洋戦争に突入して、あれやこれややらかす日本海軍の未来が暗示されているような事件だったと思うのです。


(↑美保関の岬。fuyunoB撮影。)
 

添乗員をしている妹、このブログでいうところのfuyunoBは先日仕事で美保関に寄り、美保神社にお参りしてきたそう。
どうせ美保関に行くなら、美保関事件の慰霊碑を訪ねてほしかったなあと言ったら、仕事でいってんねん(怒)と、fuyunoBから叱られてしまいました・・・(^^;)))

大正10年(1921年)のワシントン海軍軍縮条約で保有主力艦艇の数を制限された日本。アメリカやイギリスに太刀打ちできる海軍戦力をどうやって確保するかと、日本海軍は悩みます。悩んだ末の結論が「訓練に制限なし」。え・・・っ( ;∀;)。
当時の連合艦隊司令長官の加藤寛治大将が「訓練に制限無し」(←東郷平八郎元帥が言い出しっぺ説あり)だから、猛訓練で戦力の劣勢をひっくりかえすのだ!と、現代であればパワハラで訴えられそうな方針を掲げ、連合艦隊は猛演習を繰り返したのでした。

今から思えば、戦艦が作れなくなっても、その分航空機をたくさん作ればよかったのじゃないか・・・という気がしますが。それは歴史をわかっている今だから言えることで、昭和2年の当時に、これからの海軍は航空戦力が鍵になると理解している人はいなかったでしょうねえ。

まあ、演習を頑張るのはヨシとしても。美保関事件が起きた時は、夜間、灯をつけず、高速で複数の駆逐艦や戦艦が航行する中で魚雷訓練っていう、とんでもなく危険な演習をしていたのです。

1927年(昭和2年)8月24日、島根県美保関沖で、夜間、無灯火、航行する艦隊に水雷部隊が魚雷攻撃する演習が行われます。甲軍と乙軍と、敵味方に分かれ、攻撃し合うという激しい演習。


そして、軽巡洋艦「神通」(神通艦長が水城圭次大佐だった)と駆逐艦「蕨」(艦長は五十嵐恵少佐、事故で行方不明になる)が衝突事故を起こします。「神通」は艦首を喪失して大破。その時の写真が残っています。

(↑写真はWikiからお借りしています)

 

ぶつけられた「蕨」は沈没。

加えて、「神通」を避けようとした「那珂」(那珂艦長は三戸基介大佐)が、駆逐艦「葦」(葦駆逐艦長は須賀彦次郎少佐)に衝突、どちらも大破。
この大事故で119人もの命が失われました。

美保関事件の原因
「美保関事件慰霊の会」のホームページによれば。
「神通」が敵艦(演習上のってことですが)を発見して魚雷攻撃しようとした時、敵護衛艦(これもあくまでも演習上って意味ですが)が「神通」に照射攻撃をして、「神通」は強力な光力で目つぶし状態となりつつも、魚雷攻撃をしながら航行していました。そして敵艦隊の後方に回り込んで攻撃しようと試み、灯をすべて消して右に回り込もうとした時、掌信号長の目に一瞬艦影らしいものが横切ったそうですが、発見はできませんでした。でも、一応、「艦影らしきもの一つ、艦影は「夕張」らしい」と水城艦長に報告しました。

しかし、この報告が水城艦長に聞こえていませんでした。航海長はそれを聞いたので水城艦長に「今の報告が『夕張』とするとその後に駆逐艦がついているかも知れません」と進言しました。が、水城艦長にはこれも聞こえていませんでした。
水城艦長は砲術出身で、耳の聞こえが悪く、特に左耳が遠かったそうなのです。それにすごい強風で音がよく聞こえない状態だったそうです。
でも、航海長は水城艦長は報告を聞いた上で状況をがすべて了解していると思い込んでしまいました。水城艦長からは何の指示もなかったので、そのまま航行を継続。
 

その後、左前方に無燈火の「蕨」が真っ直ぐ突込んでくるのを認めて、水城艦長は「両舷側停止、後進全速」を命じましたが、既に遅しでした。
「神通」は「蕨」の艦橋めがけて突込んでしまい、「蕨」はボイラーが爆発、真二つに切断され、瞬く間に沈没してしまいました。「神通」も大損壊、そして、「神通」を避けようとした「那珂」は「葦」に衝突してしまうのです。

美保関事件の処置
当時の新聞記事を見ると、大変な騒ぎになっていることがわかります。
そして、原因追及のために査問委員会が開かれます。査問委員会は、「刑事処分不適当」としたのですが、海軍法務局がこの事件を「過失」とみて水城大佐らを起訴し、水城大佐は軍法会議にかけられます。

軍法会議では、水城大佐はすべて自分の責任であると供述しました。そして、判決言い渡しをされる日の前日、12月26日に、自宅で頸部を切って自殺してしまったのです。享年44歳。

水城圭次大佐は、長野県出身。海軍兵学校を卒業後、日露戦争に従軍。砲術畑を歩み砲術校教官などを歴任し、1926年(大正15)年11月から「神通」の艦長になります。その10カ月後に、美保関事件が起きました。


水城大佐は、多くの海軍の兵を失ったこと、大事な艦を複数損壊させたことに、ものすごい責任を感じていたと思われます。軍法会議にかけられるっていう時点で、当時の海軍士官にとっては大きなショックでしたでしょうし。
ご家族の方々はどれほど切ない思いをされたことでしょう。察して余りあります。

「美保関事件慰霊の会」ホームページの記載に従えば、確かに美保関事件の原因は、「神通」にあったのかもしれません。
でも、夜間に無灯火で魚雷演習って、それ自体が無謀ではなかったのだろうか・・・。
このような大事故の責任を個人に帰することがあってよいものだろうか。

現代の企業では失敗をしたら、その失敗を起こした個人を責めて責任を追及して個人を処分して終わりではなく、なぜ、どのようにその失敗が起きたのか、その失敗を起こした個人の上司の監督責任まで調査し、その失敗から学ぶべき教訓や改善策を得ようとする組織が多いと思います。

ところが、美保関事件の後、海軍はもっと激しく訓練しろとはっぱをかけます。
失敗を徹底的に検証して、そこから教訓を得て活かすっていうカルチャーが、海軍には欠けていたのではなかろうか・・・(いえ、陸軍もそうだったかもしれないけれど)

水城大佐が自決した後、当時のメディアの報道としては「責任感の発露」「武士道」などと、まるで賞賛するような記事内容です。「個人が責任を取る」ことを持ち上げるようなメディア報道・・・。時代背景もあったでしょうが、当時のメディアの在り方ってどうなんでしょうね。でも、現代もメディアの在り方は大して変わっていないかもしれない。

もっと奇妙なのが、海軍省は特旨により水城大佐の海軍少将進級を計画します。これは遺族が辞退したため実現しませんでしたが。いや、軍法会議にかけて水城大佐に責任ありとしておきながら、死後進級させようとするってどういうことなのよ、海軍省⁉ これって、太平洋戦争中、失策をした将校を逆に進級させて、「いや、何にも悪いことは起きていませんでしたよ」と海軍内外にポーズを取る(海軍乙事件のF中将とか、ダバオ誤報事件のT中将とか)、海軍のヤミを感じさせます。

そもそも無茶な訓練を推進した加藤寛治連合艦隊司令長官は、まったく責任は追及されませんでした。

このことには、さすがに海軍内で抗議や批判の声があがったようですが。結局加藤長官にはおとがめなしです。
小沢治三郎中将(当時は大佐、後に最後の連合艦隊司令長官になる)は「加藤大将は美保関事件の責任者であり、あの時責任を取らねばならぬ人物だった」と語っていたそうですが。
 

上層部の責任はうやむやになる。
責任は現場の部下が負わされがち。
下っ端への処分は厳しく、上層部への処分は甘い。
これは、海軍だけでなく、現代の会社でも、残念ながらありがちなこと。

悲惨な海難事件となった美保関事件。
しかし、その後も継続された激しい夜間演習。
せめて、その演習の成果が、ソロモン海戦の夜戦で生かされたと思いたいです。
 

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