桶川飛行学校平和記念館
埼玉県桶川駅からバスで15分ほど行ったところにある桶川飛行学校平和記念館に行ってきました。

桶川は「べに花の郷」だそうです。


太平洋戦争中、熊谷陸軍飛行学校桶川分教場として昭和12年(1937年)に設置され、陸軍航空兵を育てるための教育が行われました。太平洋戦争末期になると、この桶川分教場は教育の場ではなく、特攻隊の編成の場になっていきます。そして桶川で体当たりの訓練をした飛行兵達が沖縄へ向けて特攻隊員として飛び立っていきました。
 

有志の方々の貴重な戦争遺跡を残したいという思いが結集し、桶川市の指定文化財となり、令和2年(2020年)にオープンした比較的新しい戦争遺跡です。
とても大切に保存・修復されています。これで入場料無料とは!驚きです。

桶川駅からは川越行きの「川越04」のバスに乗り、15分くらい乗って柏原というバス停で降りればすぐです。バスを降りると「桶川飛行学校平和記念館はこちら→」という看板が出ていますから、わかりやすいです。バス停から徒歩2分。

 

しか~し。私のようにバスで行く方は、バスの本数がとても少ないので要注意。帰りのバスの時刻をチェックしてから見学した方が無難です。桶川駅まで歩こう・・・としても歩くのはかなり大変、多分。1時間くらいかかる。
マイカーで行く方は記念館の前に広い駐車場があります。私が訪れた日もバスで来たのは私くらいで。他の方々はみな車で来ていましたね。私は車の運転免許持っていませんからね~。バスで来るしかない。

第三の空都、桶川
茨城県には海軍航空隊の飛行場が多いけれど、埼玉県には陸軍飛行隊の飛行場が多いですね。

太平洋戦争中、埼玉県の熊谷には熊谷陸軍飛行学校がおかれ、ここが陸軍航空兵教育の本校。海軍でいえば予科練に相当すると思います。熊谷陸軍飛行学校のの分校として各地に分教場が作られました。熊谷陸軍飛行学校桶川分教場もその一つ。

熊谷陸軍飛行学校桶川分教場で生徒は寝食をともにして、陸軍航空兵になるための飛行機の操縦教育を受けた後、戦地へ向かいました。
当時の新聞によれば桶川分教場が所沢、熊谷に続く3番目の飛行学校施設であったことから、桶川を「第三の空都」と呼んでいたそうです。
悲しいのは、桶川をはじめ、多くの分教場が太平洋戦争末期には教育をストップして、特攻隊員の訓練・出撃基地になったことですね・・・。

飛行場の滑走路は、桶川分教場から荒川を渡った向こう側、太郎右衛門橋というなが~い橋を渡った対岸の平地にありました。(現在、ホンダ航空が使用)
桶川飛行学校平和記念館を訪ねた後、太郎右衛門橋を渡ってホンダ航空の敷地辺りに向かおうとしたのですが・・・曇って涼しかった天気が急に太陽が出て猛暑になり。この太郎右衛門橋が渡るのに15分かかる長い橋で、渡った所で干からびた私。

橋から滑走路があったと思われる方向を見て終わりました・・・。夏は戦跡訪問はなかなかキビシイ・・・。



↑この太郎右衛門橋がすごーく長い・・・。


↑荒川沿いに見る桶川の空。

熊谷陸軍飛行学校桶川分教場
看板の説明によると、桶川分教場で戦争中、推定1500~1600名の飛行兵を教育。

陸軍少年飛行兵だけでなく、特別操縦見習士官という陸軍版予備飛行学生(学生から航空士官になる)も教育を受けています。

特別操縦見習士官については後編で詳しく書きたいと思います。

記念館へ向かう道には陸軍境界標が残されております。


記念館の敷地内に、多くの分教場の名残が残されています。守衛所、車庫、本部宿舎、便所(特にトイレの保存状態が素晴らしい・・・)、弾薬庫などが残され、大切に保存されています。

 


↑弾薬庫。(上部は復元されているけれどその他の当時のまま)

↑防火水槽

↑旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場建物 守衛棟
守衛棟には門衛が待機して入場者の管理をしていました。昭和~な感じの造りです。


↑建物跡
ここは消防ポンプ小屋がありました。

↑井戸跡

↑防火水槽跡。八角形ですね。

 

↑車庫棟の写真をうっかり撮り忘れてしまったのですが。車庫棟はトラックなどの軍事車両を格納、整備していました。棟内のコンクリートの土間に車両整備のためのピットが保存されています。

 


↑車庫棟にはものづくり大学が製作した桶川分教場の建物のミニチュア模型が展示されています。美しいですねえ。

 


↑車庫棟のパネル展示がすごくわかりやすかったです。


↑建物跡。ここは学校本部棟でした。

↑建物跡。ここは教室跡です。

 


↑便所棟。トイレがすごく立派。
 

↑トイレにあった甕(当時は汲み取り式でしたから)
思うのですが、戦跡って、トイレがけっこうちゃんと残っていることが多いですよね。鹿島海軍航空隊でも、トイレはやけに形が残っていました。横須賀の猿島でも、館山の赤山地下壕でも、トイレはしっかり残っていた。トイレって頑丈に造られていたのですかね??

展示室
そして、ここが兵舎棟。この中が展示室になっています。

ここに分教場の生徒達が居住していました。

 

ここにいろいろ展示があるのですが。
展示室の中は企画展示している一室をのぞき、撮影OKなのですが、SNSなどにはアップしてはダメということで。

いろいろ貴重な物を見させて頂いたのですが。ブログにはアップできないのです。

展示室には、ここで教育を受けた巣立った飛行兵達の様子や持ち物、復元された寝室が見れます。そして、太平洋戦争末期、桶川分教場からも特攻隊が飛び立ち、彼等の紹介パネルが展示されています。
 

  • 熊谷陸軍飛行学校記念ペンダント
  • 飛行機操縦術習得下士官徽章
  • 三角航法要図
  • 飛行教育手帳
  • 電鍵(通信機器)
  • 新法計算盤
  • 飛行機学教程
  • 空中航法教程
  • 地形学教程
  • 瓦斯防護教範
  • 学生のノート類
     

などなど。
興味深い当時の資料が盛沢山です。
 

こういうのを見ると、当時操縦を学んでいた生徒達って頭がよかったんだなあ~と思います。膨大な知識を習得しないと、そして理数に強くないと、飛行機の操縦ってできないですねえ。優秀な若者達だったのだなあ。


一番奥にある企画展示室では「収集された桶川分教場の記録」が開催中(9月7日まで)。
(この展示室は撮影NGです)


桶川で編成され知覧へ向けて飛び立った特攻隊、第79振武隊、第23振武隊の隊員の遺書写真、そして生涯が映像で紹介されています。
この映像集は、Youtubeの桶川飛行学校平和記念館チェンネルでも公開されています。

桶川飛行学校平和記念館は比較的新しい施設だということもあるでしょうが、とてもきれいに保存されていて、展示が丁寧で、管理側の愛が感じられました。大切に保存して、多くの人に見てもらいたい、知ってもらいたいという気持ちが伝わってくるような記念館でした。

特攻隊の訓練基地となる
桶川分教場は、昭和20年(1945年)2月からは、飛行訓練は停止され、特攻隊の訓練基地として使用され、特攻隊が鹿児島県の知覧に向けて出撃していきます。
桶川から飛び立った特攻隊としては、第23振武隊、第79振武隊があります。
第79振武隊は陸軍初の「練習機による特攻」だったそうです。
第23振武隊は九九式襲撃機に搭乗しました。そして第23振武隊の隊長が伍井芳夫大尉(戦死後中佐に特進)。伍井さんは桶川出身で、桶川分教場で教官を務めました。彼は32歳で志願して特攻隊になっています。32歳というのは陸軍特攻隊員の中で最年長ということです。

伍井大尉を特攻隊に向かわせたものは何だったのか・・・。

後編で、桶川から飛び立った二つの特攻隊について書きたいと思います。
 

(後編へ続く)
 

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