弟・関口剛史の戦い
三男の関口剛史海軍少尉(享年19歳)は神風特別攻撃隊琴平水心隊員でした。

昭和20年5月4日沖縄沖方面で戦死。

19歳・・・。まだ青年とも呼べない年齢です。少年ですよ、まだ・・・。

剛史さんは兄の哲男さんとは違う道を選び、予科練に入ります。甲種飛行予科練習生を卒業し、水上偵察機の操縦員となりました。そして、香川県の詫間航空基地(水上機の基地でした)で編成された特攻隊「琴平水心隊」の隊員となり、鹿児島県の指宿航空基地から出撃し、戦死しました。


剛史さんの特攻は、豊田連合艦隊司令長官により「忠烈万世に轟きたり」と賞賛され、全軍布告されました。
終戦から1年近くたった1946年8月に剛史さんの戦死公報が遺族のもとに届き、剛史さんは二等飛行兵曹から少尉に4階級特進したことが記されていたそうです。

水上偵察機
沖縄戦ではものすごい数の特攻隊が投入され、特攻機が不足して水上偵察機まで特攻機として使うことを海軍中枢部は決断します。

零式水上偵察機、94式水上偵察機、零式観測機などの水上機は下にフロートがついていますから、「下駄ばき」と言われていました。本来、名前の通り偵察が目的の機であり、攻撃用でも特攻用でもないのです。機体はスピードは出ませんし、重いです。その機体に800キロの爆弾を乗せるのですから、攻撃がどうのこうのという前に、敵艦隊に近づけるかどうかさえ困難だと思います。

剛史さんは「琴平水心隊」の隊員として、94式水上偵察機に乗って、鹿児島の指宿基地から出撃しました。菊水五号作戦の一端でした。


(↑94式水上偵察機。写真はWikiからお借りしています)
 

94式水上偵察機は、川西航空機の開発。1934年(昭和9年)から海軍に制式採用されています。

航続力・安定性・操縦性に優れていたということですが、太平洋戦争後半ではさすがに旧式となり、95式や零式の水上偵察機が登場していますので、偵察任務からは退いていました。
最高速度は239km/hで、零戦の最高速度560km/hに比べれば、超スロー。零戦でさえ、特攻防御対策を整え最新の艦上戦闘機の護衛がついたアメリカ艦隊を攻撃することが困難になっていた太平洋戦争末期に、フロートつきの水上偵察機に重い爆弾乗せて特攻するなんて、ミッション・インポッシブルなんです。そんなことは、数学や物理に強い海軍兵学校卒のエリート達が集う海軍中枢部は十分に分かっていたはずなんですけどねえ。
敵までたどり着くことさえ困難な水上偵察機を特攻に使うなんて、搭乗員の命を無駄に散らすつもりかと、私は怒りを覚えました。
 

しかし。なんと。

水心隊は下駄ばき水上偵察機でもって勇猛にアメリカ艦隊を攻撃し戦果を挙げたのです。

水上機特攻
昭和20年5月4日、剛史さん達水心隊は鹿児島の指宿基地から出撃します。

零式水上偵察機、94式水上偵察機で編隊を組み沖縄沖のアメリカ艦隊に向けて飛びます。が、途中で哨戒中のアメリカ戦闘機に捕捉され次々と撃墜されていきます。スピードが遅く、おまけに重い爆弾を抱いた水上偵察機は鈍重な動きしかできません。アメリカの戦闘機に狙われたらひとたまりもありません。中には回避運動しているうちに燃料切れになり、近くの島に不時着する機もありました。

しかし、それでも、複数機が沖縄上空に到達し、アメリカ艦隊の砲撃をくらいならがも「ワレ突撃ニ転ズ」と打電して消息を絶ちます。電信が混乱し、どの機の誰がどの艦に特攻したのか、司令部にはよくわからなかったのですが。
アメリカ側の資料に記録が残っていました。

その日、アメリカの駆逐艦モリソンに零戦一機が艦橋に体当たりした後(直掩機か??)、3機の旧式フロートの複葉機が、猛烈な対空砲火をものともせずモリソンに向かってきて体当たり攻撃を敢行、モリソンは大爆発し、沈没しました。
 

菅原氏は調査の結果、このモリソンに突っ込んだフロート複葉機の1機が、剛史さんの水上偵察機であろうと推察しています。
下駄ばき水上偵察機でアメリカ艦隊の防衛線を突破し、対空砲火の中、敵艦に体当たり攻撃するって、並大抵の技術と精神力ではできません。剛史さんは相当優れた操縦員であったであろうと考えられます。

そして、剛史さんの操縦する94式水上偵察機には、偵察員として中谷栄一少尉も搭乗していました。

特攻するのになぜ偵察員まで搭乗したのか・・・。これまでも銀河や彗星、天山が特攻する時に、死ぬとわかっているのになぜ操縦員だけでなく偵察員や電信員まで搭乗するのか・・・と悲しく切なく思ってきましたが。

剛史さんと中谷少尉は普段からペアを組んでいたのかもしれません。中谷少尉は法政大学出身の飛行予備学生14期であることまではわかったのですが。これまでのところ、それ以上のことは分かりませんでした。中谷少尉、享年24歳でした。

水上偵察機の特攻には、予科練を卒業したばかりの若者の他に、学徒出身の飛行予備学生13期、14期が多く投入されています。
詫間航空隊から指宿基地経由で飛び立った水上機特攻、琴平水心隊は、一度で終わらず、繰り返される沖縄攻防戦の菊水作戦に投入され続けます。
昭和20年5月28日に沖縄沖で特攻戦死した、飛行予備学生14期出身の琴平水心隊の重信隆丸さんが、出撃前日に妹さんに宛てて書いた手紙が、『あゝ同期の桜 かえらざる青春の手記』(海軍飛行予備学生第十四期会編)に納められています。

「兄さんが晴れの体当たりをしたと聞いても、何もしんみりするんじゃないよ。兄さんは笑って征くんだ。およそ人生とはだね、エッヘン!大きなあるものによって動かされているのだ。小さな私たちの考えも及ばない大きな力を持つあるものなのだ。」
(一部のみ抜粋)

大きなあるもの・・・。
「運命」でしょうか。
いやいや、本来「偵察」が任務の水上偵察機に重い爆弾を乗せて敵艦船に特攻させる軍上層部の命令を「運命」だとは思い切れません・・・。
軍の上層部は、「戦果」よりも「死ぬ」ことを特攻隊員に求めていたのではないか、「特攻は戦果ではなく死ぬことに意義があるのだ」(←これ、アノ中島正少佐のぶちかました言葉です)と考えていたのではないかと、腹ただしい気持ちになります。
「自分達が命を投げ出すことで国や大切な人が救われるなら・・・」という純粋で健気な若者達の心を、軍の上層部は操っていたのではないか。
本当の戦犯は、「人道に対する罪」を犯したのは、特攻を命じ続けた軍の上層部ではないのかと、私は思ってしまいます。

君は信じてくれるだろうか
剛史さんが特攻に出撃した指宿基地の跡地には「指宿海軍航空基地哀惜の碑」があります。

(写真はWikiからお借りしています)

その碑には次のように刻まれています。

君は信じてくれるだろうか
この明るい穏やかな田良浜がかつて太平洋戦の末期本土最南端の航空基地として
琉球弧の米艦隊に対決した日々のことを
拙劣の下駄ばき水上機に爆弾と片道燃料を積み
見送る人とていないこの海から万感をこめて飛びたち
遂に還らなかった若き特別攻撃隊員が82人にも達したことを

 

・・・令和の世を生きる私達には、とても信じられない事態です。
「拙劣の下駄ばき水上機」で特攻させるなんて。
そんな若者が82人もいたなんて。
そんな若者を82人も、生還のない攻撃に国の命令で送り出したなんて。

指宿海軍航空基地から沖縄へ向けて出撃した水上偵察機の特攻隊は、
剛史さんが所属した詫間空の琴平水心隊の他に
北浦空魁隊
福山空琴平水偵隊
でした。
零式水上偵察機、94式水上偵察機、零式観測機に搭乗し、彼らは出撃していきました。

指宿基地跡を近いうちに訪れたいと思っています。


関口兄弟のことを知るのにお勧めの本
菅原完著『無名戦士の最後の戦い 戦死公報から足取りを追う』(光人社NF文庫)

菅原氏は海軍兵学校77期。ん?77期ってあったかしらん??と思ったのですが。終戦間際の4ヶ月だけ在籍した海軍兵学校最後の生徒でした。菅原氏が日本とアメリカの資料を丁寧に調査して、太平洋戦争史上有名ではないけれど、懸命に戦った「無名戦士」の生き様、死に様を書いて下さっている感動のノンフィクションです。この本に納められている海軍機上作業練習機「白菊」で徳島海軍航空隊から特攻隊として命を散らした「知られざる練習機特攻 徳島白菊特攻隊の悲劇」も、涙なしには読めませぬ・・・。

 

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