関口特攻兄弟之碑
先日、横須賀の馬門山海軍墓地を訪れた主な目的は、「関口特攻兄弟」のお墓にお参りするためでした。
兄も弟も特攻隊として散った兄弟。この関口兄弟の墓碑に「特攻」と刻むまでには紆余曲折がありました。
この墓碑には、兄弟のお父様、関口辰次さんの強い想いが込められています。
馬門山海軍墓地にある関口特攻兄弟之碑。第三航空艦隊司令長官であった寺岡謹平海軍中将の揮毫。
いろいろな軍艦の慰霊碑が並んでいる高台の広場の中にあります。
この碑は、兄弟のお父様(関口辰次海軍大尉)が昭和32年に建てたものです。
息子二人を特攻で失うとは・・・。お父様のお気持ちはいかばかりだったか・・・。
この関口兄弟については、2024年8月15日に「戦後79年 大空に散った兄弟」として読売新聞が取り上げ、詳しい記事を書いてくれています。そして戦史研究家の菅原完氏が、著書『無名戦士の最後の戦い 戦死公報から足取りを追う』(光人社NF文庫)の中で調査した結果を詳細に書いて下さっています。
兄・関口哲男の戦い
次男の関口哲男海軍少佐(享年24歳)は神風特別攻撃隊新高隊長でした。昭和20年(1945年)1月21日フィリピン方面で戦死(したとされていました、当初は)。
哲男さんは海軍機関特務大尉のお父様の後を追ったのか、海軍機関学校を卒業しています。その後飛行学生課程を経て零戦の搭乗員になりました。昭和19年(1944年)12月に大尉となり、台湾の台南航空基地の飛行隊分隊長になります。そして昭和20年1月に、神風特別攻撃隊「新高隊」の指揮官となり台湾沖方面のアメリカ艦隊に攻撃するため出撃しました。しかし、敵艦隊を発見できなかったり、零戦の故障で、2回出撃したけれど、2回とも戻ってきました。そして、1月31日、台湾ではなく、フィリピン方面に出撃し戦死した・・・とされていました。
特攻隊慰霊顕彰会がまとめた特攻隊戦没者の名簿を見ると、「台湾方面」の特攻隊の名簿の中に「第二新高隊」として関口哲男さんの名前が確かにあり、戦死の日が昭和20年1月31日になっていますが、それ以外は空欄になっています。しかし「新高隊」の出撃は1月31日にはありません。
終戦から半年たった1946年に、お父様のもとに哲男さんの戦死公報が届き、戦死日を1945年1月31日とし、少佐へ昇進したと記されていました。
一般的に、特攻戦死した場合、海軍士官は2階級特進、下士官は少尉に特進することになっていました。つまり、哲男さんの場合、大尉から少佐への1階級昇進ですので、「特攻戦死」と認められていないことになります。このことがお父様を苦しめました。
菅原完氏は哲男さんの足跡を調べ、昭和20年1月31日の出撃記録は発見できなかったけれど、日米の戦闘記録を調べ、1月21日の台湾沖出撃で部下を失った哲男さんがフィリピンのツゲガラオ航空基地の特攻隊に赴任したことが推測されるとしています。当時の司令の交代や戦地の混乱で哲男さんの赴任の記録がなかったのではないかと。
新高隊の戦い
哲男さんが隊長を務めた特攻隊「新高隊」。ニイタカタイと読みます。
あの真珠湾攻撃のゴーサインの暗号「ニイタカヤマノボレ」のニイタカです。
新高隊は、台南空から三次に分けて出撃、台湾沖のアメリカ艦隊に攻撃をかけます。
(新高隊の戦いについては資料によって記述が異なる部分があります。今回は、菅原完氏の『無名戦士の最後の戦い』を基に書いていきます。)
第一新高隊
昭和20年1月15日、台中基地から台湾沖へ出撃。哲男さんは指揮官として爆装零戦に乗って出撃。しかし敵艦隊を発見できず帰還。
第二新高隊
昭和20年1月18日、台湾の台南基地で大西瀧治郎長官が出席して特攻隊「新高隊」の命名式が行われ(そうすると第一新高隊は、正式命名前だったということか??)、哲男さん達特攻隊員は豊田副武連合艦隊司令長官から短刀を贈られています。この任命式には、日本本国へ帰る途中のアノ中島正少佐も列席しています。
1月21日、台南基地から台湾沖へ向けて出撃。第二新高隊は、直掩の零戦、爆装零戦、彗星(爆撃機)で編成されていました。哲男さんは指揮官として零戦で出撃しますが、この時は爆装ではない零戦で直掩任務でした。しかし哲男さんの零戦は機材故障が起き途中で引き返し、台東基地に帰還。
他の隊員達は攻撃を続行。この攻撃でアメリカ空母タイコンデロガを大破させ、他に軽空母一隻小破、駆逐艦一隻大破させました。アメリカ側にも多くの死傷者を出しています。
「新高隊」がタイコンデロガにつっこむ様子はアメリカ側の映像が残っており、タイコンデロガの艦橋が猛火に包まれる様子が映像に捉えられており、Youtubeでも見れます。
タイコンデロガに突っ込んだのは爆装零戦に乗った堀口秀吉少尉(予備飛行学生13期)と、彗星に乗った平井孝二少尉(予備飛行学生13期)と偵察員の杉山喜一郎一飛曹(予科練乙飛17期)とされています。攻撃する側も、攻撃される側も、凄惨、悲惨に尽きます・・・。
第三新高隊
昭和20年1月21日、斎藤精一大尉(海軍兵学校71期)を指揮官とし爆装零戦隊と、川添実大尉(海軍兵学校69期)の零戦直掩隊が、台湾沖へ向けてフィリピンのツゲカラオ基地から出撃。しかし敵を発見できず帰還。途中で敵戦闘機と戦闘になり、川添大尉が未帰還。
菅原氏は、ここで戦死した川添大尉の後任として、哲男さんがツゲカラオ基地に赴任し、赴任早々の1月31日に来襲した敵機と交戦して未帰還となったのではないかと考察しています。
哲男さんが特攻隊である「新高隊」の隊員として任命されたことは確かです。が、戦死した際の所属、戦死状況がはっきりしないのでした。
父・関口辰次さんの戦い
お父様の辰次さんは、哲男さんは特攻隊員として死んだと認めてもらいたくて、国(復員局や厚生省)に訴えています。
しかし、国としては「哲男さんが特攻で戦死した」という記録がないから認められないと主張します。
でも、辰次さんは諦めません。遺族会や民生委員や旧海軍関係者、防衛庁長官、政治家に、哲男さんの戦死状況の調査と特攻戦死としての認定を働きかけ続けます。
しかし、結論から言えば、お父様の「哲男さんの戦死は特攻戦死であると正式に認めてほしい」という願いは国に認められることはありませんでした。
そして、辰次さんは1975年(昭和50年)に亡くなられました。
兄弟の墓碑に刻まれた哲男さんの階級は「少佐」のままです。
でも墓碑には関口「特攻」兄弟と刻まれています。
兄弟の慰霊碑を馬門山海軍墓地に建てたいという辰次さんの願いを関係者は聞き入れて、その墓碑銘に刻む文を寺岡中将に辰次さんが依頼し、寺岡中将は哲男さんの特攻戦死についての辰次さんの強い想いを汲んで、「最初の戦死広報では1月21日が戦死になっていて、(哲男さんが)第二新高隊を率いて出撃したのがこの日だから、21日に特攻死とすればよい」として、碑文を書いたのでした。(寺岡中将、イロイロ責めたくなる点が多い方ですが・・・この恩情ある対応は素晴らしいと思いました。)
そうして、兄弟の墓碑には「特攻」兄弟と刻まれたのでした。だから碑文では、哲男さんの戦死日は昭和20年1月21日台湾沖と刻まれています。

墓碑の裏に
「次男海軍少佐関口哲男は神風特別攻撃隊新高隊長として昭和二十年一月二十一日台湾東方海面に於て三男海軍少尉関口剛史は神風特別攻撃隊水心隊員として同年五月四日沖縄海面に於て何れも敵艦隊を激撃して之に突入偉功を奏し壮烈なる戦死を遂げて悠久の大義に生く時に哲男二十四歳剛史十九歳兄弟共に特攻隊として国難に殉ず故に特攻兄弟の碑となす」
という寺岡中将の文が刻まれています。
「兄弟共に特攻隊として国難に殉ず」
この一言が、お父様の辰次さんが欲しかった言葉だったのではないかと思います。
でも、一方で、まだたった24歳、19歳の若者に、国の命運を背負わせた、自らの命を捨てて国を守れという命令を背負わせた、軍の上層部の責任は大変重いともいえると思います。
弟の剛史さんの方は、忠烈果敢な特攻戦死として豊田連合艦隊司令長官によって全軍布告されており、戦死後4階級特進で少尉という、なかなか他に例をみないような進級をしています。
しかし、剛史さんは「下駄ばき」と言われた水上偵察機で特攻という無理難題な出撃命令を受けたのです。
剛史さんのお話は後編で書きたいと思います。
(後編に続く)


