忠魂祠堂
先日横須賀の馬門山海軍墓地を訪ねた後、バスに乗って「衣笠十字路」まで行き、衣笠商店街の裏(衣笠町内会館の隣)にある光心寺も訪ねてきました。ここには軍艦比叡の鎮魂碑があります。


 

光心寺には、明治33年に建てられた(昭和12年に再建)忠魂祠堂があります。

ここは日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、そして大東亜戦争の戦死病没者を祀っています。

この「忠魂祠堂」の文字は海軍大臣だった米内光政さんによるものです。


忠魂祠堂の前に「軍艦比叡鎮魂碑」が建っています。

昭和57年に比叡会及び遺族外有志一同によって建立されたと刻まれています。軍艦比叡の戦死者188柱を祀っています。

 


「軍艦比叡戦没者供養塔」の五輪塔は昭和61年に軍艦比叡会により建立されたもの。

 

ちなみに、光心寺の奥には防空壕跡があります。


 

比叡は横須賀海軍工廠で製造された、ちゃきちゃきの浜っ子軍艦でした。
そして昭和17年(1942年11月13日)、第三次ソロモン海戦で自沈。ソロモンのサボ島沖に沈みました。そして比叡の艦長だった西田正雄大佐の運命を大きく狂わせることになりました。

軍艦比叡
比叡は何回か改装されていますが、第二次改装を終えた後、1940年(昭和15年)の紀元二千六百年特別観艦式で天皇が乗る御召艦を務めました。

(↑在りし日の比叡。写真はWikiからお借りしています)
 

豊田穣氏はその著書『四本の火柱』(光人社NF文庫)の中で、観覧式で御召艦を勤めた比叡について次のように書いています。
 

「優美な艦型の比叡が静々とすべるように近づいてくる」
「比叡はいかにも物なれた容子で、それは生まれながら貴婦人が舞踏会に招かれたような風姿で、水鳥のように静々と海面をすべってゆくのである。比叡は何度も御召艦を勤めた経験があり、艦隊一同の敬礼を受けるのが当然のような貴族的な雰囲気を身につけていた」
 

船は「She」と女性名詞で呼ばれますが。比叡の優雅で気高い姿が目に浮かぶようですね。

太平洋戦争が勃発すると比叡は真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦に参加。ソロモン方面でアメリカ軍との衝突が激化すると、ソロモン方面に進出、南太平洋海戦に参加しました。
 

そして運命の第三次ソロモン海戦が、昭和17年(1942年)11月12日深夜に起こり、ガダルカナル島のヘンダーソン飛行場砲撃に向かったところ、アメリカ艦隊と激戦になり、奮戦したのですが、航行不能になって11月13日になって駆逐艦雪風の雷撃によって沈められました。比叡は日本海軍最初の戦艦喪失となり、連合艦隊司令部に大きなショックを与えたようです。
この時、比叡に乗っていた阿部弘毅司令官の命令で、比叡の乗員を駆逐艦雪風に移し、比叡と運命を共にしようとした西田正雄艦長も無理やり雪風に乗せられます。
このことが、西田艦長を悲劇に落していくのです。

軍艦同士の殴り合い―第三次ソロモン海戦
第三次ソロモン海戦で比叡は勇猛果敢に戦っています。

第三次ソロモン海戦は、日本海軍がアメリカ軍に占領されてしまったガダルカナル島のヘンダーソン飛行場を軍艦で砲撃し、飛行場を使えなくさせ、ガダルカナルにいる陸軍兵達に糧食と武器を届ける作戦でした。

昼間はヘンダーソン飛行場からアメリカの戦闘機や爆撃機が飛んできますから、夜間攻撃、夜戦です。日本軍は夜戦を得意としていて、第一次ソロモン海戦の夜戦では軍艦金剛が見事にヘンダーソン飛行場に砲撃をぶっぱなし、破壊しています。第一ソロモン海戦の成功にあやかろうとしたのか、第三次ソロモン海戦でも、夜間ヘンダーソン飛行場を攻撃しようとガダルカナル島へ向かっていきます。西田艦長の比叡はこの海戦の旗艦を勤め、阿部弘毅司令官が乗艦していました。
 

しかし、アメリカ軍は待ち構えていたのです。ただ待ち構えていた割にはアメリカ側にもいろいろなミスが生まれ、装備し始めたレーダーも使い物にならず、敵味方双方入り乱れて打ち合う大混乱となり、第三次ソロモン海戦は軍艦同士の殴り合いのようになりました。戦史家モリソン氏は第三次ソロモン海戦のことを「中世的な殴り合い」と評しています。どっちが勝ったのかよくわからない結果になっています。
ただ、戦略的にみれば、ヘンダーソン飛行場を砲撃できなかった、ガダルカナルの友軍に物資を届けられなかったという意味において、日本軍の負けです。

ちなみに。第三次ソロモン海戦でアメリカ軍の指揮を取ったキャラガン提督(この海戦で戦死)は、日本海海戦の東郷平八郎元帥の崇拝者で。東郷元帥のようなT字戦法を一度やってみたいと思っていて、第三次ソロモン海戦の際に実行しようとしていたらしいです。

西田艦長の悲劇
操縦不能となった比叡から雪風に移った阿部司令官から、比叡の西田艦長に「雪風に来て司令部に報告せよ」という伝書が届き、阿部司令官は西田艦長の見識才幹を惜しんで死なせないようにこの命令を出したようですが。西田艦長としては「わしは比叡をはなれることはできん」と主張。その時、西田艦長は死に装束のつもりで第二種軍装の白い軍服に着替えていたそうですので、比叡と運命を共にするつもりだったのでしょう。しかし、他の士官達が数人で力尽くで西田艦長を比叡から雪風へ移してしまいました。

航行不能になった艦を沈めるのは仕方ないことだと思いますし、第三次ソロモン海戦で大奮戦した西田艦長は何ら恥じることはないと思うのですが。西田艦長が比叡と運命を共にしなかったことをあ~だこ~だ批判する人達が海軍省上層部にいたようで、西田艦長は日本に帰ってすぐに予備役に編入されていまします(つまり現役引退)。そしてアモイ駐在海軍武官という閑職に追いやられます。誰だ⁉こんな人事発動した人は⁉

当時は艦長は自分の船と運命を共にすべきという慣習というか伝統というか、そういうものが海軍にあったみたいです。海軍士官だった豊田穣氏によると「キャプテン・ラストの原則、艦長が艦と運命を共にするのは、英国海軍以来の伝統であり、美徳ですらあるのだ」と書いています。

しかし~、西田艦長は、海軍兵学校44期の首席なんですよ。海軍大学校にも行っていて、そこでも首席。将来が嘱望されていた優秀な海軍将校だったのですよ。将来の連合艦隊司令長官だと目されていた人なのですよ。
敵前逃亡したならともかく、アメリカ艦隊相手に大奮戦した結果の自沈なのに、そこで西田艦長が艦と一緒に沈まなかったからといって責めるのか⁉
私としてはまったく納得できないのですが。
豊田穣氏は『四本の火柱』の中で、西田艦長が当時海軍省で非難された理由を三つ挙げています。
 

  1. 艦と運命を共にしなかった
  2. 艦がまだ動けるのにこれを廃棄した
  3. 艦の最後を見届けなかった
     

いや~なんか、納得できんわ~。


戦後、比叡に乗艦していた柚木元少佐の手記により、司令部から比叡を自沈せしめよという指示がきて、西田艦長が機関長にキングストン弁をあけるよう命じたということがわかっています(キングストン弁を開けると艦は沈む)ので、なおさら納得できんわ~。
 

ちなみに山本五十六連合艦隊司令長官は西田さんを高く買っていて、この左遷人事に憤慨し、宇垣纏参謀長を東京の海軍人事局に出向かせて交渉したそうなのですが。変更はできなかったそうです。
 

人間の運命とは・・・

この第三次ソロモン海戦で同じように艦が沈んで生き延びた艦長が、西田艦長の他に二人います。


一人は駆逐艦夕立の吉川潔艦長。
吉川艦長、先陣切ってどんどんアメリカ艦隊の中に入っていって砲弾うちまくるわ、魚雷ぶっぱなすわ・・・。アメリカ側の旗艦アトランタを葬り、二番艦カッシンも沈め、周囲の駆逐艦にも撃ちまくり、ひとりで獅子奮迅の働き。当然夕立もアメリカから集中砲火を受け、吉川艦長もあちこちに弾片を受け血だらけになりながら、それでも戦闘継続。いや、ほんと、夕立と吉川艦長だけで、10ページくらい書けそうなブッチギリの戦闘をしてくれてます・・・。
最終的に夕立も自沈させられることになり(だって穴だらけになってましたから・・・)、でも吉川艦長は夕立と供に沈むことはしていません。その後もイケイケな戦いをし続けます。

もう一人は軍艦霧島の岩淵三次艦長。

霧島も大破して自沈しましたが、岩渕艦長は艦と運命を共にしていません。しかし、その後左遷されることもなく、少将に昇進しています。

西田艦長、吉川艦長、岩淵艦長は、共に自分の艦と沈まなかった艦長ですが。人事待遇の違いはどこから来ているのだろうか??西田艦長が乗艦した比叡が、それだけ日本海軍にとって重要な艦だったということでしょうかねえ。

西田艦長の不遇が不憫です(涙)。

しかし、「軍人」としてではなく、一人の「人間」として見た場合、西田艦長は「不遇」ではなかったかもしれません。
吉川艦長は、その後もソロモンで戦い続け、昭和18年(1943年)11月24日、駆逐艦大波の艦長として、ニューアイルランド島南端のセントジョージ岬沖海戦で戦死。
岩淵艦長は、昭和20年(1945年)2月、マニラ陸戦隊の司令官として、海ではなく陸地で、数万の米軍を迎えて奮戦した後、自決しました。


西田氏は太平洋戦争を生き抜き、昭和49年(1974年)に郷里の兵庫県竜野にて78歳で亡くなりました。

西田氏があのまま軍艦に乗り続けていたら、おそらくレイテ海戦か坊ノ岬海戦で戦死することになっていたのではないでしょうか。
人間の運命とはわからないものです。

ちなみに、2019年にアメリカの調査チームが、比叡がガダルカナル島のサボ島北西、水深985メートル地点で沈んでいるのを発見したそうです。
比叡よ、ソロモンの海に、安らかに眠れ。

比叡の活躍について知るためにお勧めの本
豊田穣著『四本の火柱』(光人社NF文庫)

比叡だけでなく、金剛、愛宕、夕立、暁の活躍も活写してくれています。金剛がガダルカナル島のヘンダーソン飛行場に砲撃をぶっぱなすシーンは、何回読んでもやったー!と思ってしまいます。
 

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