横須賀へレッツゴー!
猛暑が続くと戦跡巡りができなくなる・・・。
そんな中で奇跡のように最高気温30度と比較的涼しい日があったので、チャンス到来と横須賀戦跡巡りに出かけてきました。

横須賀ツアーは3回目。もはや横須賀中央駅が懐かしい気さえします(笑)。


京急線の横須賀中央駅って、岩山をくりぬいたトンネルとトンネルの間を走っていて、「トンネルを抜けるとそこは横須賀だった・・・」なんて呟きながら横須賀中央駅で降りまして。

 

まず向かうところは、これももうお馴染みのヨコスカベーカリー。

 

ここでおやつとランチのパンを買い込み、散策途中で食べる計画。

米ヶ濱砲台跡地
まずは横須賀中央駅の裏手の小山の上にある米ヶ濱砲台跡地へ。現在では横須賀平和中央公園となっていて、きれいに整備されています。


横須賀海軍航空隊跡を訪ねた時に行った龍本寺(永野修身海軍大将の揮毫の碑がある)の、隣の小山にあります。

 

 

ひろびろ~としていて、海も見れて、快適です。猿島も見えるぞ~!


 

ここにかっては東京湾要塞の一部である米ヶ濱砲台がありました。横須賀は大事な軍港でしたし、横須賀航空隊もあったし、横須賀周辺の高台は重要な防御の要になっていました。


一瞬、掩体壕?って思ったけれど、弾薬庫でした。
砲台の弾薬庫として使われていました。


中には入れないようになっていますが、覗けます。


弾薬庫の上には、砲台の土塁が残っています。


今は鳩さんの休息の場になっていましたが。


土塁の上に登ると、海が見えます。台風が近づいてきていたので曇り空でしたが、涼しかった。ここでヨコスカベーカリーで買った全粒粉パンのあんずジャムパンを食す。おいしかったです。海を眺めながらの甘いモノ、最高ですね。



砲台跡から降りて、公園内を歩いていくと、平和モニュメントがあります。


ここは砲台のための観測所があった所。
平和モニュメントの金属の柱には、細かい文字がびっしり書かれているのですが、「平和」を意味する世界中の言葉が刻まれています。

もう一つあった加農砲台の跡地は今は芝生の広場になっています。


 

その広場の端にある慰霊塔。

横須賀市出身の日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、そして大東亜戦争で亡くなった戦病死者の遺影約3600枚を納めているそうです。
慰霊塔の横には、横須賀遺族会婦人部の方々が設置した「慰霊の水」がありました。
合掌。


横須賀市自然・人文博物館
公園の奥には横須賀市自然・人文博物館があります。

ここ、入場料無料とは思えない展示の充実度なのです。海軍関係の資料もたくさん展示されています。しかも、訪れた時は「横須賀の歩んだ昭和」という企画展が開催中で、昭和の貴重な資料がたくさん展示されていました。


日本遺産の煉瓦があって、触れます。そして、ヨコスカ製銕所のスタンプも押せる。思わずはしゃぐ私。子供か・・・⁉(≧▽≦)


明治33年の海軍省の横須賀軍港境界標もありました~!

 

陸軍と海軍の弁当箱と水筒が展示してあったのだけど、これは微妙な違いがあるのかな?
なんか、こういう弁当箱欲しくなりました。


海軍関連の展示品もたくさん。

 

海軍航空廠の建物のミニチュアも。

 

興味深かったのは「東部軍管区情報解説図」。東部軍管区(関東甲信越地方)に飛来するアメリカ軍爆撃機の侵入経路や性能を解説している図。どうやってアメリカのB29が関東に飛んできたか、そのルートがよくわかります。


 

許せない特攻兵器「伏龍」の模型。「伏龍」の部隊は横須賀の海で訓練していたそうです。

「伏龍」は「人間機雷」とも呼ばれました。潜水具を着用した兵が浅い海底に立って待ち構え、棒付き機雷を敵の舟艇に接触させて爆破。兵はほぼ死にます。「震洋」と同様、飛行機に乗るために訓練していた予科練卒業の搭乗員達を海軍軍令部はこの「伏龍」要員とします。そして、厳しい訓練を課します。幸い、この非人間的な特攻兵器が実戦で使われる前に終戦になったのですが、訓練で多くの事故が起こり死亡者が出ています。

特攻兵器はどれも非人間的で許せないものですが、この「伏龍」は「兵器」とさえ呼べるのか!?と思うほど、呆れるほど、命を軽視した作戦です。

太平洋戦争後半、こういう特攻兵器ばかり作っていた海軍軍令部は、狂っていたとしか思えません(怒)。

 

気持ちを切り替え・・・・。

当時の横須賀港のジオラマもあって、なかなか楽しい。

 

「昭和」がつまったコーナーも。

「これっきりこれっきりもう~これっきり~ですか~♪」(山口百恵の横須賀ストーリー)

懐かしい昭和なレコードが展示されていました。

 

そして、2027年のNHK大河の主役、小栗忠順さんの像も!

そうかあ、小栗さんは横須賀製鉄所を作って、横須賀の発展を築いた人なんですよね。
2027年になったら、この博物館も人がたくさん訪れそうですね。

横須賀市自然・人文博物館の展示の充実度はハンパないです!

しかも無料!

海軍好きな方にはお勧めスポットです。

 

馬門山海軍墓地
横須賀中央駅に戻り、北久里浜駅まで京急で行き、馬門山海軍墓地へ。

馬門は「まかど」と読むそうです。明治15年(1882年)に海軍省が海軍軍人の埋葬地として開設したそうです(今は一般市民に開放されている)。この墓地には、軍艦の碑もたくさんあります。太平洋戦争前に沈んだ軍艦が多いですね。



まずは入ってすぐの拝霊堂に手を合わせます。


高台に登っていきますと、多くの碑が円形に立っています。


上海事変死者之碑
野村吉三郎海軍中将の揮毫。 昭和7年(1932年)の第一次上海事変の際の犠牲者を悼みます。


支那事変大東亜戦争戦没者忠霊塔
最後の横須賀鎮守府長官となった戸塚道太郎海軍中将が揮毫。横須賀鎮守府の戦没者が祀られています。戸塚中将ですか!! この方は、終戦後厚木航空隊の小園安名司令が徹底抗戦を主張した厚木航空隊事件の時に、その制圧にあたった方です。大きな叛乱になる前に、小園司令が病に倒れ、鎮静化されたので、海軍陸戦隊による同士討ちはなくなったのですけれども。

 



第四艦隊遭難殉職者之碑
昭和10年(1935年)に岩手県沖で演習中だった第四艦隊が台風に襲われ大変な海難事故になり、36名の方が亡くなられたそうです。

軍艦河内殉難者之碑
大正7年(1918年)に、山口県徳山沖で火薬庫爆発で沈没し、621名もの乗務員が亡くなられたそうです。揮毫は正木義太海軍中将(沈没時の河内艦長)

 



軍艦筑波殉難者之碑
「忠烈」は東伏見宮依仁親王が揮毫。碑文は名和又八郎海軍大将の揮毫。
巡洋戦艦「筑波」は大正6年(1917年)に横須賀港で火薬庫爆発事故で沈没し、125名の乗務員が亡くなり、27名が行方不明となった痛ましい事件だそうです。

特務艦関東殉職者碑
特務艦とは工作艦のこと。加藤寛治海軍中将が揮毫。
大正13年(1924年)に呉から舞鶴に向けて物資輸送中、暴風雨のために福井県下糠浦海岸沖で座礁し沈没。99名が死亡。


北京籠城軍艦愛宕戦死者碑
伊東祐亨海軍大将が揮毫。明治33年(1900年)の義和団の乱が起こり、「愛宕」の乗組員は陸戦隊となって戦ったそうです。

碑の横には砲弾と錨が置かれています。海軍の碑らしいですねえ。




こうしてみると、太平洋戦争勃発前、軍艦は台風などの自然現象によりけっこう被害を出しているのですね・・・。だから、安定した、不沈の、戦艦大和のような巨大な戦艦を欲したのかなあ。

この海軍墓地には、明治、大正時代に戦死した海軍関係者の古いお墓がたくさんあります。もう文字がほとんど読めない墓碑もたくさん・・・。


 

その中に、墓碑のすぐ横に白い百合が咲いているのを発見。

墓碑に眠る人の側に寄り添っているような清楚な百合の姿に心を打たれました。
私以外に人はいなくて、緑の中、蝉時雨が降るようで、静かな墓地でした。
 

八十の年月重し蝉時雨
 

日本にとって戦争が「過去」のものとなったことに感謝(そして、ずーっと「過去」のものでありますように)
皆様、安らかにお眠り下さい。合掌。

実は、この馬門海軍墓地を訪れた主な目的は、「関口特攻兄弟」のお墓にお参りするためだったのです。

兄も弟も特攻隊として散った兄弟。しかも弟の方は水心隊という「下駄ばき」と呼ばれた水上偵察機での特攻だったのです・・・。涙うるうるストーリーがあるので、関口兄弟については別途書きたいと思います。

馬門海軍墓地を出た後、今度はバスにのり衣笠十字路というバス停で降りて、光心寺へ。ここは軍艦比叡ゆかりのお寺なのです。このお寺にもいろいろ戦跡がありまして。長くなるので、それについては別の機会に書きたいと思います。

 

今回のご当地マンホール。ペリーさんですね。

 


 

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