館山はすごい
しばらく閉鎖されていた赤山地下壕が再オープンしたと知り、早めの夏休みを取ったFuyunoA&Bは、館山の戦跡巡りに出かけてきました。
そして、館山の戦跡の多さに圧倒されました・・・。
館山海軍航空隊に代表される海軍関連の戦跡が山のようにあるだけでなく、陸軍関連の戦跡も多く、とても一回では巡れないです。
館山とその周辺にある戦跡は主なものだけでも
- 館山海軍航空隊跡
- 洲ノ崎海軍航空隊跡
- 岩井袋特攻基地
- 大房岬東京湾要塞地跡
- 山名高井ケ谷砲台跡
- 城山横須賀防備隊跡
- 波佐間震洋発進基地
- 館山海軍砲術学校跡
- 陸軍技術本部冨津・元洲跡
と全部見たら100近い戦跡が残されております。貴重・・・。
全部見たいけれども、今回日帰り旅なので、
館山海軍航空隊・洲ノ崎海軍航空隊跡・震洋発進基地を中心に巡ってきました。絞っても、盛沢山なので、前後編の2回に分けてご紹介したいと思います。
FuyunoA&Bは東京住まい。館山まで行く最適ルートを模索したところ、東京駅八重洲南口から出発するJR高速バスが一番よいということになり、館山駅行きバスに乗車。約2時間でつきます。往復ともに渋滞はなくスムーズでした。1名往復5300円。寝ている間に着きました・・・(笑)。
途中から緑いっぱいの山の中の道路を通り、海も見れて、眺めもよかったです。
そして館山についてからの移動はJRバスと徒歩(FuyunoA&Bは車の運転ができないのでレンタカーの選択肢はない・・・)。
バスの本数は少ないのですが、戦跡巡りルートにちょうどバスが通っているので、戦跡訪問→バスに乗って移動→戦跡訪問→バスに乗って移動を繰り返し、割と効率よく戦跡巡りができました。ただ、沖ノ島だけは片道30分歩かないといけなかったので、これが暑い中きつかった~。しかし、館山は海風がさわやか~に吹いているので、熱中症になるという蒸し暑さではなかったです。
館山海軍航空隊
横須賀航空隊の作戦部隊を1930年(昭和5年)に館山に移したことが館山海軍航空隊の始まりです。その後、太平洋戦争後半、対潜水艦哨戒、首都圏防衛、軍港防衛のための実戦航空隊となります。空襲が始まると、地下壕や防空壕を作って施設を地下に移動したり、飛行機を隠したりしました。
水上班があって、水上偵察機が配備され訓練生の教育もしていました。館山の水上滑走台は太平洋戦争時最大規模であったそうで、あの二式大艇も配備されていました。
それから、房総特有の西風を強く受ける館山航空隊の滑走路は、空母の艦載機の発着訓練にぴったりだったそうです。太平洋戦争前、ハワイの真珠湾攻撃に参加した艦上攻撃機の搭乗員達は、館山で訓練していたそうです。1942年(昭和17年)に東宝が製作した戦意高揚映画『ハワイ・マレー沖海戦』は館山航空隊で撮影されているそうです。
また、九六式陸上攻撃機を制式採用して、搭乗員を養成したのも館山航空隊でした。のちには木更津航空隊ができて陸攻部隊は木更津へ移っています。
1944年(昭和19年)には第341海軍航空隊が移動してきました。絶対国防圏の主力戦闘部隊であり、紫電を制式採用。採用したのだけど・・・紫電がなかなか来なかった・・・。その後、この隊は戦闘第401飛行隊に改編して館山で訓練した後、あ号作戦でテニアン島へ向かいました。結局紫電配備が間に合わず・・・。零戦に乗って、硫黄島経由でテニアン島へ向かいました。向かいましたが・・・硫黄島でアメリカ軍戦闘機と戦闘になり多くの零戦を失い、結局テニアンへ向かえず、硫黄島から館山へ引き返しています・・・。
現在、海上自衛隊第21航空群館山航空基地が置かれていて、その敷地内に、館山海軍航空隊時代の水上滑走基地があるらしいのだけど、中に入れないから・・・。自衛隊基地の外にある戦跡を巡っていきます。
赤山地下壕跡
その館山海軍航空隊が作ったという赤山地下壕跡は、全長約1.6kmで、全国的にみても大きいです。
赤山地下壕の中には発電所や格納庫や館空応急治療所もあって、館山航空隊の事務を行っていたそうです。(赤山地下壕に関する資料はほとんど残っていないそうです)
館山駅からJRバスで宮城バス停まで行きます。
看板が出ているのでわかりやすい。
豊津ホールで受付で氏名と住所などを記入、ヘルメットと懐中電灯を借ります。1名200円。安すぎる・・・パンフレットもくれるし、1名500円くらい取っても全然いいと思うけど・・・。
さて、いよいよ、地下壕に入ります。


中に入ると、ひや~り。とても涼しい!夏はちょうどいいですね。この中にずっといたいくらいです。
所々電気はついているのですが、暗いですねえ。お借りした懐中電灯の光では、奥の方はよく見れない。スマホのライトでも照らせないので、皆さん、強めの懐中電灯を持参した方がいいかも。

房総半島南部は新生代第三紀という比較的新しい地層(とっても約2400万年前)で、きれいな地層を見ることができます。
↑自力発電所の跡
↑ガンルーム(少尉・中尉クラスの分隊長未満の士官が集まった部屋)
↑御真影を安置した奉安殿の跡
↑トイレの跡だそうです。
↑電話が置いてあった跡。
中は迷路みたいになっていて左右に回廊がめぐらされています。
相当大きいですねえ。涼しくて、出たくなかったわ・・・(笑)。
この地下壕は終戦後忘れ去られ、昭和30年頃からキノコ栽培に使われたそうです。
豊津ホールの中の一室には、館山の戦跡関連のパネル展示がありますので、是非お見逃しなく!当時の貴重な写真と、戦跡の説明があります。
そして~豊津ホールで購入した『戦跡散策』のパンフレット(1000円なり)。
これがすごい!館山とその周辺の戦跡探索を網羅してありまして、戦跡マニアには必携です!これを片手にこの後の戦跡巡りして来ました。
宮城の掩体壕
赤山地下壕の横、歩いて10分くらいの宮城熊野神社(すごーく古い)の斜め向かいに、掩体壕があります。
掩体壕まで行く道が赤山の道。
向かって左側が赤山地下壕になります。こちら側からの入口は閉鎖されています。
この掩体壕は保存状態もよく、立派に残っています。草ぼうぼうですが(笑)。俗に「宮城の掩体壕」。でも私有地なので、マナーを守って静かに見学しましょう。
館山海軍航空隊と洲ノ崎海軍航空隊の周辺には40以上の掩体壕があったのですが、現存しているのは2個のみで、公開されているのは「宮城の掩体壕」のみ。もう一個の「香(こうやつ)の掩体壕」は民家の中にあり見学不可。
夏草と夏の蒼空のもと、掩体壕も心なしかのんびりしているように見えました。
蟹田川周辺の戦跡
バスが通る257号線(房総フラワーライン)に戻り、その道路を越えて、館山海上自衛隊基地がある方向を目指して歩いていくと、蟹田川という川があります。
蟹田川を挟んで海側が海上自衛隊基地。
山側が民家。
その民家と畑のあたりも、昔は館山海軍航空隊の敷地でしたので、いろいろ残っています。
↑旗掲揚台
↑退避壕が土に埋もれて幾つか残っていますが。私有地の畑なので、中に入れず。農作業している方もいましたし。外から眺めるのみ。退避壕とは防空壕のようなもので敵から攻撃があった時に隊員達が退避する壕。他にも残っているはずだけれど、2つしか見つけられませんでした。
反対側見ると橋名が「かがみはし」になっている面白い橋。
洲ノ崎海軍航空隊の碑
再び257号線に戻り、国立館山海上技術学校へ。
この学校、今年で閉校、来年なくなってしまうそうです・・・。
この学校の裏門の横に洲ノ崎海軍航空隊の碑があります。
洲ノ埼海軍航空隊は、1943年(昭和18年)に開隊、飛行機を整備する隊員を教育する航空隊でした。
碑にも「海軍第六期兵器整備科予備練習教程修了 四十周年を記念してこれを建てる」と刻まれています。
国立館山海上技術学校が閉鎖されて、建物が壊されたりして土地が再利用されたら・・・この碑はどうなってしまうのだろう。ちょっと不安。どうか無事に残されますように。
洲崎神社の御神石
次に洲崎神社へバスで向かいます。257号線をJRバスが行き来しているので便利。バスに乗って冷房きいた車内で休憩。洲崎神社で下車。
ここは太平洋戦争の戦跡とは関係ないのですが。珍しい石があるので見たくてきました。洲崎神社はすごーくたくさんの階段を昇らないといけなくて夏の暑い時には昇れません・・・。
お目当ては海側の浜鳥居。
海に向かって鳥居が映える~。そしてこの御神石。ドーンと迫力。
実はこの御神石は、海を挟んで向き合っている三浦半島の安房口神社の御神石と対になっています。この辺りの古代神話がすごく面白そう。機会があれば調べてみたいです。
しばし、海を眺めてぼーっとしました。いやあ~海が青いなあ・・・。
館山グルメ
再びバスに乗って、波佐間まで。
震洋の発進基地がある場所です。でもその前に、お昼休憩。
「磯の香亭 伝平」で海の幸丼を頂きました。やっぱり房総半島来たら、海の幸ですよね。
2000円くらいしますが、新鮮なお刺身とすごいボリュームで大満足です。
(後編へ続く)


































