飢餓の島、メレヨン
梓特別攻撃隊の一員として銀河隊をただ一機でウルシーまで誘導した二式大艇。
大役を果たした・・・と思ったのもつかの間、エンジンが一個爆発してしまい、海上に不時着する羽目になります。
待機しているはずの潜水艦からも応答ないし(事実はY参謀長の嘘であり、潜水艦は待機なんてしてなかったのですが)。
日本陸軍が守っていたメレヨン島の湾に着水。(正確にいえば日本海軍もいました)
「われメレヨン。メレヨンに不時着せよ」というメッセ―ジを二式大艇は受信したから。

メレヨンはウルシーから更に南東に下がって、今はミクロネシア連邦に属し、ウォレアイ環礁という名前になっています。

 

メレヨン島では太平洋戦史に残るような戦いはなく、実際一度もアメリカ軍と戦闘らしい戦闘は行われませんでした。米軍は飛び石で島を攻めていったので、メレヨンは飛ばされ、アメリカ軍は上陸しませんでした。ただし、空襲は何度もされています。
メレヨンには海軍・陸軍あわせて約6500人の将兵がいましたが、食糧も武器も補給路が断たれ、メレヨンは飢餓の島になっていきます。大本営が補給したくても、昭和20年3月といえば太平洋の制海権も制空権もアメリカ側に奪われていましたから難しかっただろうとは思いますが。
じゃあラバウルみたいに、みんなで農耕に勤しみ自給自足しようとしても、メレヨンは珊瑚の島ですから、畑もほとんど耕せなかったのです。
約6500人の将兵のうち約5000人が死亡、そのうち約4500人が餓死か病死だったそうです。
既に補給が断たれて1年経った、そんなメレヨン島に、梓隊の二式大艇は不時着してしまったのです。

二式大艇と涙の別れ
でも、長峯さんたち二式大艇のペアは、メレヨン島が飢餓の島だなんて知りません。
加えて、潜水艦が迎えにくるということが嘘で、Y参謀長のデタラメであるとも知りません。
メレヨンで待っていれば数日のうちに、潜水艦が迎えに来るだろうと思っていたのです。

二式大艇はエンジンが一個壊れているし、修理する設備も部品もメレヨンにはないし、二式大艇が浮かんでいるとアメリカ軍を刺激して空襲にくるからと守備隊にいわれ、二式大艇を自ら銃撃して海に沈めました。
 

思えば、エンジンが一個爆発したのは、二式大艇が、ウルシーに向かう銀河隊と別れた直後でした。まるで、二式大艇が梓隊としての責務を果たすまではと精一杯頑張ったように思え、長峯さん達ペアは、沈んでいく二式大艇を「よく頑張ってくれた。ありがとう」と泣きながら敬礼で見送りました。
この二式大艇は今でもメレヨン、もといウォレアイの海に沈んでいるそうです。

数日のうちに潜水艦が迎えに来るだろうと考えていた二式大艇のペアは、メレヨン島の兵達がボロボロの恰好なのに驚きましたが、まだ事態を正確に把握していませんでした。

メレヨン島の守備隊長であった北村勝三陸軍少将は、特攻隊である二式大艇の壮挙を讃え、サツマイモをくれたそうなのですが、長峯さん達は、陸軍の将軍からの褒賞がサツマイモ!?とびっくりします。このサツマイモがとんでもなく貴重な食糧だとはその時は知らず、長峯さんたちは、サツマイモを凝視している陸軍兵達に「皆さん、よかったらどうぞ」とあげてしまいます。
長峯さん達は二式大艇から非常用糧食を取り出して持っていましたし、最初は少ないとはいえ守備隊から米の配給も受けていたし、メレヨンの実態を知らなかったのです・・・。

「メレヨンに不時着せよ」のメッセージは誰が打ったのか?
メレヨンにいた海軍側の司令、宮田嘉信海軍大佐から、メレヨンは飢餓が蔓延しており、日本本土との連絡が途絶えて1年が過ぎていること、メレヨンからは誰も二式大艇に「メレヨンに不時着せよ」と電信を送っていないこと、暗号がずっと更新されていないから電信を受信できないし送信もできない(電信は暗号化されて送られていたので)と聞きます。
「えっ!?」と二式大艇のペアたちはダブルで驚きます。
メレヨンがそれほど食べ物がない島だということも驚きだし。
確かに自分達は「われメレヨン。メレヨンに不時着せよ」と電信を受けたのに!?とびっくりします。

この「メレヨンに不時着せよ」メッセージを二式大艇に送ったのは・・・第五航空艦隊の宇垣纒長官の参謀長、そう、あのデタラメの潜水艦暗号を渡したY参謀長だったのです。正確にいうと、Y参謀長から指示された通信班員だったのですが。
 

このことは、長峯さんたちが飢餓のためにボロボロになってやっと日本に帰国した後、良心の呵責に耐えかねた通信班員からの告白で判明します。

Y参謀長は、梓隊の二式大艇は生還できまいと思っていたので、迎えの潜水艦を待機させていませんでした。しかし、彼の意表をついて、二式大艇が任務を終え、メレヨンを呼び出す電信が九州にいる第五航空艦隊の通信班に入ったのです。
潜水艦から応答がなかった二式大艇は、二番手の手段として指示されたメレヨン島に不時着しようと「メレヨン、メレヨン」と呼び続けています。
通信班員はどうしましょうかとY参謀長に尋ねます。Y参謀長はこれを打てと紙を通信班員に渡します。
それが
「われメレヨン。メレヨンに不時着せよ」
という内容だったのです。

戦後、長峯さんは、Y参謀長になぜそんなことをしたのか?(潜水艦が待機しているなんて嘘をつきデタラメの暗号を渡したり、メレヨン島を装ってメッセージを送ったりしたこと)と問いただしていますが、Y参謀長からは「当時の措置として、そうするより他に方策がなかったことを了せられたい」という返答があったそうです。
なんだかな~・・・。納得しがたいですよねえ・・・。
 

梓特別攻撃隊として覚悟を決めて、日本を救うために決死の想いで飛び立っていった二式大艇のペアに嘘を伝えるとか、そういうのって、アリなんですか!?参謀って、神風とか大和魂とか武士道とか七生報国とか、精神論を普段声高に言っているくせに、特攻隊員の真心に対して嘘をつくって、許されるのですかねえ??「嘘も方便」とは、ちょっと言い難い気がしますけど・・・。
私は海軍航空隊ファンですし、海軍で懸命に戦った人達のことを尊敬していますけれど。どうも参謀という名がつく連中は好きになれんわ・・・。他人のふんどしで相撲とっているような感じがしちゃうわ。それも、命の相撲を・・・。

ただ、Y参謀長が二式大艇にものすごく期待していて、二式大艇の能力を買っていたことは事実のようです。この梓特別攻撃隊の任務は二式大艇がいて初めて実行可能なのだと。
飛行大艇八〇一空の隊長であった日辻常雄氏の著書『最後の飛行艇 海軍飛行艇栄光の記録』(光人社NF文庫)には、Y参謀長はかっては横浜航空隊司令として二式大艇でハワイ第二次攻撃を敢行した人で、二式大艇にかなりの思い入れがあり、最後の花を咲かせてやろうという親心があった・・的なことが書かれていますが。
う~む。そんな親心、二式大艇のペアにとっては迷惑な気がしますけど。当時の搭乗員の心理って、そういうものなのでしょうか??

飢えていく二式大艇ペア
メレヨン島にいる二式大艇ペアは、「メレヨンに不時着せよ」を誰が送ったのかわからないけれども、自分達がメレヨンにいることは司令部に伝わっているだろうから、しばらく待っていれば潜水艦が迎えにくるだろうと思います。
しかし・・・来ません・・・。

初めは特攻隊員ということで特別待遇で米の配給をもらっていたけれど(二式大艇ペアを救出のために潜水艦が来れば食糧の補給もあるだろうと守備隊が期待していた部分もあった)、いつまで待っても、潜水艦は来ません・・・。
そのうち二式大艇ペアへの米の配給量はどんどん減り、自ら畑を耕し、漁をし、獲物(といっても、トカゲとかネズミくらいしかいないのですけど・・・)を捕えて食糧を自給するよう言われます。

長峯さんは『二式大艇空戦記 海軍八〇一空搭乗員の死闘』の中で、メレヨンでの飢餓との戦いを書いていますが。もう、信じられないような世界です。トカゲやネズミを食べられればまだマシで。口に入れられるものはすべて食べたという状況・・・。ここにはとても書けないようなものまで食べざるを得ない状況でした。
食糧の量も足りませんが、たんぱく質もビタミンも不足してきますから、栄養失調で体が弱って、病気になりやすくなり、伝染病にかかりやすくなります。
もう一年近く飢えているメレヨン島の守備隊の人達は、鉄砲を撃つ体力もなく、毎日複数の兵達が命を落としていったのです。仲間が死んでも、そのご遺体を埋葬するために土を掘る力さえ出ません。海にご遺体を沈めるために船を漕ぐ力もなかなか出ないのです。飢餓と救いのない状況に耐えられず、毎日のように銃で自殺する兵達が出たそうです。

そして・・・メレヨン島で、士官だけは飢えていなかった、兵達は飢えていた、食糧の配給が不公平だった・・・のではないか、という問題が出てきます。戦後、士官は飢餓で死んでいないが、兵達は飢餓で大勢死んだ、と将校を糾弾するメレヨンから帰還した兵達の声が挙がります。
長峯さんの観察としては、メレヨンでは(兵達は餓死した者がいたが)「餓死した士官はいなかったと思う」と著書に書いています。

メレヨン島の守備隊長であった北村勝三陸軍少将自身が戦後、将校の死亡率は40%で、下士官兵の死亡率は70%であったと述べていますから、下士官兵の死亡率の方が高かったのは事実なのでしょうね。

しかし、二式大艇のペアに対して、既に飢えに苦しんでいたであろう島で北村少将がサツマイモを複数本贈呈したことを知り、そして米の配給も続けたことを知り(後半はその量はかなり減ったけれど)、私は、北村少将はただ自分達将校のためだけに食糧をがめていたわけではないのかもしれない・・・とも思いました。


真相はわかりませんが、戦後、メレヨン島では将校が食糧を独占し、下士官兵たちに十分な食糧を配給せず餓死者を多く出したとして糾弾される立場に、北村少将は置かれます。それは海軍サイドも同じで、海軍のメレヨン司令だった宮田嘉信海軍大佐も大変厳しく当時の行為を世間から責められます。
昭和21年(1946年)頃の出来事だったそうですが、当時の政治家やマスメディアがメレヨン島の問題を取り上げ、北村少将と宮田大佐は、相当責められたようです。この二人に多かれ少なかれ責められるべき点はあったのだろうと思うのだけど。メディアが煽って、悪者(とみられる存在)を容赦なく責めたてる、という手法は、昭和も現代も変わっていないのだなあ・・・と感じました。当時はSNSはないけれども。
 

本当に、将校による食糧独占や不公平配給があったのか・・・。あったような感じもするし、戦場での統制の一環だったように見える部分もあり。わからない部分がいまだに多く、そして当事者はほとんど鬼籍に入っているので、真相がわかることはこの先もないとは思いますが。一番責められるべきは、補給を確保できないような島に兵を送る決断をした大本営だという気もするし。
 

北村少将は、メレヨンでの部下達の遺族訪問を終えた後、昭和22年(1947年)8月15日、割腹自殺を遂げています。海軍の宮田大佐も、残務処理を終えた後、昭和21年(1946年)7月18日、割腹自殺を遂げています。二人ともメレヨンの部下達のことを忘れていなかったことは事実だろうと思います。そして、お二人なりに責任を取られたのだろうか・・・と想像します。介錯無しの割腹自殺って、相当の苦しみですし並大抵の覚悟ではできないでしょうから・・・。

57日目の救出
待っても待ってもこない潜水艦。
二式大艇のペアが諦めかけた頃。不時着から57日目にして、潜水艦がメレヨンに姿を現します。

昭和20年(1945年)5月7日とも5月10日ともいわれますが。とにかく約2カ月ぶりに、長峯さん達二式大艇のペアは潜水艦に救出され、メレヨンから日本本土に帰還することができたのです。ペアは相当弱っていましたが。
この潜水艦はメレヨン島に食糧を補給し、しばらくの間メレヨン島は飢餓から救われるのです。(しかし、6500人の将兵達には全然足りなかったのですが)

日本本土に生還した二式大艇のペアのやせ衰え、変わり果てた姿を見た五航空艦隊の人達は驚愕します。長峯さんの弱り切った姿を見て、良心の呵責に耐えられなくなった通信班員がY参謀長から口止めされていたけれども、真実を告白したのはこの時でした。

潜水艦は一度メレヨンに二式大艇ペアを救出に近づいたのですが、アメリカの潜水艦に攻撃されたらしく音信不通になってしまったそうなのです。別の潜水艦が再チャレンジして、やっとメレヨン島にたどり着いたのでした。もうこの頃は、太平洋そこら中で、海の上だけでなく、海の下も、アメリカ軍が支配する危険水域になっていたのですねえ。
二式大艇のペアが見捨てられずに、救出に潜水艦が赴いてくれてよかったです・・・。

二式大艇の使命
銀河は操縦員、偵察員、電信員の3名が搭乗する爆撃機で、偵察員というのは航法ができるのが普通ですから、ウルシーまで二式大艇が誘導する必要があったのだろうか・・・と素人の私としては疑問に思ったのですが。梓特別攻撃隊は、銀河だけでよかったのではないかと。
しかし、飛行大艇八〇一空の隊長であった日辻常雄氏の著書『最後の飛行艇 海軍飛行艇栄光の記録』(光人社NF文庫)によると、梓隊の銀河は攻撃のために800キロ爆弾を抱いて飛ぶのでコンパスが狂う例が多く、単独でウルシーまで正確に航法するのは無理だったそうです。その点、長距離の飛行に慣れている二式大艇なら、問題なくウルシーまで航法できるとされたそうなのです。
(それに、前述のようにY参謀の思い入れもあったらしい)

二式大艇は途中で引き返すことになっていた天偵機の他に、誘導機として、もう一機あり、こちらが誘導一番機だったはずですが、行方不明になり、長峯さんが乗った誘導二番機が銀河をウルシーまで引っ張ったわけですが。この誘導一番機がどうなったのか・・・わからないのです。自爆したものとされていますが。

二式大艇は、戦闘機や艦爆機のような派手さはないですが、偵察や長距離飛行に活躍しました。
しかし戦争末期、二式大艇の行う偵察は大変危険な任務であり、敵機に攻撃され、未帰還になる機が多く出ています。
ウルシーから帰還した二式大艇のペアも、帰還後、再び二式大艇で任務につき、終戦までに多くの搭乗員が命を落としています。幸い、長峯さんは生き抜いて、記録を書き残し、こうして現代の私達が梓特別攻撃隊の二式大艇の奮闘を知ることができるわけですが。

茨城県の筑波海軍航空隊記念館には小笠原諸島沖から引き揚げられた、二式大艇のプロペラとエンジンが展示されています。

 

これが梓特別攻撃隊で行方不明になった誘導一番機のものなのか・・・はわかりませんが。

物言わぬ、折れ曲がったプロペラに、ご苦労様でしたと伝えたいです。
 

現存する二式大艇は鹿児島県の鹿屋航空基地史料館に展示されている一機のみ。

(↑写真はWikiからお借りしています)

 

こちら、老朽化が進んでいます。見れるうちに、見に行きたいと思います。

3000キロを飛んで特攻する銀河隊を正確にウルシーまで誘導する。その困難な任務を、長峯さんたち二式大艇のペアは立派に果たしました。
飢餓の島メレヨンから生還するという奇跡も叶えました。
二式大艇側からすれば、誘導一番機の未帰還はあるものの、梓特別攻撃隊における二式大艇としてのミッションは成功したといえるでしょう。
では、銀河隊の方はどうだったのでしょうか。
特攻作戦として、成功したといえるのでしょうか。
銀河24機、それぞれに3名の搭乗員達。総勢72名の搭乗員達。
彼らはどんな思いでこの特攻作戦を敢行したのでしょうか。
銀河隊を率いた黒丸直人大尉の名前を取って、この銀河隊は黒丸一家とも呼ばれました。
しかし。実は、その黒丸大尉自身は、ウルシーから日本に帰還しています。
二式大艇と別れた後、ウルシーに突っ込んでいった銀河隊に、黒丸大尉に、何が起こっていたのでしょうか。
 

(続く)

二式大艇の活躍を知るのにお勧めの本
長峯五郎著『二式大艇空戦記 海軍八〇一空搭乗員の死闘』(光人社NF文庫)
 

前述のように、長峯さんの名文が光る感動本です。

日辻常雄著『最後の飛行艇 海軍飛行艇栄光の記録』(光人社NF文庫)

日辻さんは長峯さんの上官。飛行艇部隊を率いた人でした。梓特別攻撃隊だけでなく、太平洋戦争における二式大艇の戦いを書いて下さっています。
特筆すべきは、梓特別攻撃隊の搭乗員を指名する時の状況が、長峯さん(指名される側)と日辻さん(指名する側)で異なっていること。長峯さんは、上官ははじめから全員が特攻隊に志願するという前提で、隊員の希望を聞かれることはなく任命されたと書いているのに対し、日辻さんは、希望を聞いたら全員が特攻を「熱望」だったので感動し、指名を上官から行ったと書いていること。この食い違うニュアンス・・・。特攻員を指名する者と、指名される側の、受け取り方の違い・・・。この違いは、実はいろいろな特攻隊で存在した違いではなかろうかと思いました。

 

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