(軍都柏前編から続く)
秋水
秋水(しゅうすい)は、太平洋戦争末期に、陸軍と海軍が協力して開発していたロケット戦闘機です。
↑秋水試作機 (写真はWikiからお借りしました)
プロペラ回す戦闘機ではなく、ロケットエンジンで飛ぶ戦闘機ということで、敗戦の瀬戸際に追いやられていた日本軍は、秋水に大きな期待をかけていました。大きすぎるほどの・・・。
その秋水の開発部隊の一部と実戦部隊が置かれたのが柏です。
仲の悪い陸軍と海軍が共同開発ってところからして驚きで、いかに当時の日本軍が秋水に力をいれていたかがわかります。
ロケットエンジンを陸軍が開発、機体を海軍が開発、設計製作の実務は三菱という役割分担でした。
秋水は完成すれば、最高速度900キロ、高度1万メートルまで3分30秒で上がれるということで、日本を空襲していたB29に対抗できる機体であり、燃料が、ガソリンではなく、工場生産できる過酸化水素と水化ヒドラジンだったことが、秋水に対する期待を大きく膨らませました。
戦争前にためた石油は昭和18年でほとんどなくなり、フィリピン一帯の制海権、制空権をアメリカ側に取られて、南方の石油を日本へ輸送することが昭和19年から難しくなって、飛行機を飛ばすにもアルコール燃料や松根脂に頼る始末でしたから。ガソリン以外の燃料で飛ばせるロケット戦闘機ということで、「これで戦局を挽回できる」と、陸軍・海軍ともに夢を抱いたのです。
秋水は昭和20年9月までに1300機、昭和21年3月までに3600機を作る計画だったということで、その壮大なプランにびっくりです。っていうか、昭和21年3月まで戦争をバリバリ続けるつもりだったんか・・・。
でも、空襲による工場の遅延や、ロケットの基礎的研究が当時の日本にはなかったですし、結局試作機を作っただけで、終戦を迎えました。
儚い夢でした・・・。
このロケットエンジンは、ドイツから潜水艦で持ち帰った資料に基づくもの。しかし、完全な資料の方が潜水艦が沈められて失われてしまっています。シンガポールで潜水艦を降りた巖谷英一技術中佐が持ち帰った資料の一部だけが、日本にもたらされました。
海軍の試験飛行
秋水試作機を使って、まずは海軍が試験飛行をします。これが・・・闇が深い・・・。
海軍では秋水搭乗員として16人の搭乗員を集めました。昭和20年2月に横須賀航空隊を本拠地として柴田武雄大佐を司令とし、百里原航空隊で滑空定着訓練をしていました。そして、厚木で秋水の実験する予定だったのです。
ところが。柴田司令の「神のお告げ」により、厚木ではなく、追浜で試験飛行をすることになりました。
この柴田司令、勇敢な戦闘機乗りであり、ラバウルで二〇四空の司令をしたり、部下思いであったり、いいところもあると思いますが。相当ヘンな人なのです。源田実さんと海兵同期だけど、源田さんのこと大嫌いで戦後も批判ばかりしていました。まあ、源田さんも特攻への関わりとかいろいろ批判すべき点はあると思うので批判するのはいいとしても、柴田司令の神がかりはどうしようもない。厚木航空隊の小園安名司令の神がかりなんて、柴田さんに比べたら全然かわいいものだと思いますね。
柴田司令は新興宗教にこって、神様のおつげでいろいろ指示を出して、部隊を混乱させました。戦後は自ら悟ったということで特殊な宗教を開いている。まあ、宗教の自由は憲法で認められておりますけれども・・・。とにかく、一般人から見ると、なぜ、こういう人を、科学の極致であるロケット戦闘機秋水の責任者にしたのか、本当に理解不能。当時の海軍の人事を決めた人の頭の中、見てみたい。
この神がかり柴田司令の指示で、秋水の初の試験飛行は厚木ではなく、追浜になり、燃料搭載量もフルではなく3分の1になりました。昭和20年7月7日、犬塚豊彦大尉が秋水試作機に搭乗し、離陸は成功したのですが、高度450メートルでエンジンが停止し、墜落。犬塚大尉は殉職。墜落は燃料切れが原因でした。他にも原因があったかもしれないけれど。
柴田司令の戦後の回想では、厚木では空襲の危険性があった、軍首脳見学者が集合するには追浜の方が都合がよかった、試飛行では燃料搭載量を満杯にしないことが多いなどと、書かれているそうですが。まあ、少なくとも、柴田司令は自分の指示に非があることは認めました。しかし、事故調査委員会の結論は不透明なものでした。
私は海軍航空隊ファンですし、海軍って全体的に素晴らしい組織だったと思いますけども、身内(特に士官)に甘い、身内の処分や責任の所在をはっきりさせないっていうのはお家芸のようになっていて(海軍乙事件はその最たるもの・・・)。秋水試験飛行でも、海軍の悪い所がでましたなあ・・・。
陸軍の試験飛行
陸軍の方は昭和19年11月から6名のパイロットを特兵隊員(特兵隊パイロット)として秋水の実用実験を開始しています。陸軍航空審査部・柏派遣隊を作りました。柏は陸軍飛行場では珍しくコンクリートだったのです。秋水は可燃性の過酸化水素を燃料とするので、草地の飛行場は危険でしたから、柏が選ばれました。
荒蒔義次少佐のもと、伊藤武夫大尉が試験飛行をしますが、高度を失い松林につっこんでしまいました。伊藤大尉は重傷でしたが命は助かっています。しかし、伊藤大尉は秋水について当時も戦後も、何も語りませんでした。沈黙を続けました。
つまるところ、秋水は海軍も陸軍も懸命に取り組み実戦投入の準備をしていましたけれど、機体自体はまだまだ完成には至っていなかったのです。日本にはロケットエンジンの知識も研究も不足していたのです。
でも敗戦濃厚な戦況を魔法のようにひっくり返せる決戦機だという妄想にも近い夢に、陸軍も海軍も(どちらかというと海軍の方がより)幻惑されていたのです。
海軍が桜花を特攻最強兵器として実戦導入した経緯と似ています。
それに・・・ロケットエンジンでスピードだけはすごく出ますから、海軍はまたよからぬことを考え始め、秋水を未完成ながら、桜花のように特攻兵器として使えばいいのではないかと検討し始めます。いや、本当に、この時期の海軍中枢部の特攻兵器狂いは、あの理性的で論理的な思考を持った海軍士官の姿はどこにいったのか!?と叫びたくなるような、頭のネジの外れっぷりです。
だから、秋水の試験飛行が成功して秋水が実戦部隊に配備されたとしても、桜花のように特攻兵器として使われたのではないか・・・と思います。実際、海軍では特攻兵器として使えるのではという意見が出ていました。
やっぱり、秋水は試作機のまま、夢のまま、儚く消えてくれてよかった・・・
と私には思えます。
更なる命の犠牲を出す前に。
秋水の地下燃料貯蔵庫
秋水を大量生産するつもりだった軍は、試作機製造とあわせて燃料貯蔵庫の準備も進めました。なにせ危険な化学燃料を使うので、秋水用に特別な燃料貯蔵庫が必要だったのです。
花野井木戸のバス停の左手に曲がった坂道を登っていくと、住宅の横に時代を感じさせる異様な形のコンクリート建物があります。
それが秋水用の燃料貯蔵庫。中は空洞になっているようですが・・・。

この中には入れないのです。(特別な見学ツアーが開催される時は入れてもらえるらしい)
そして、もう少し進んで、階段を昇ったところに畑がありますが
そこに秋水の地下燃料貯蔵庫の通気孔があります。
普通の畑の中に出ている茶色い人工物。かなりシュールな光景です。
ここは個人の私有地になっているのですよね。一個の通気孔は、なんか物置のように使われておりました。

この畑の下に地下貯蔵庫が埋まっているはずで、階段途中で、出入り口らしき部分が見えています。

太平洋戦争末期、苦戦を逆転できる切り札として秋水の開発と準備のために、懸命に働いていた人達がここにいたのだなあ。
その記憶が、この畑に埋もれています。
当時の最先端の科学、ロケットエンジンを研究し開発していた人達。
戦況を覆すために必死だったと思うのですが。
でも、やっぱり、秋水は未完のままで終わってよかったと私は思うのです。
たとえ秋水が終戦前に完成して、実戦投入されたとしても、日本の敗戦を避けることはできなかったと思うし、秋水に乗って命を散らした搭乗員達がきっと出たと思うので。
戦争末期、秋水が日本軍に見せた哀しい夢。
その夢の名残が、柏・花野井の一角にひっそりと残っています。
柏飛行場と秋水のことを知るためのお勧め本
上山和雄編著『柏にあった陸軍飛行場 「秋水」と軍関連施設』(芙蓉書房出版)
柏歴史クラブの皆さんの調査に基づく力作です。
秋水開発のプロセスがよくわかります。







