吉澤平吉中尉
成増飛行場で陸軍飛行第47戦隊が首都防衛のために体当たり攻撃を含めB29撃墜に奮闘したという話を、「陸軍飛行場跡めぐり:成増飛行場と陸軍飛行第47戦隊」で書きましたが。

 

 

第47戦隊ではもう一人紹介したい人がいます。それが、吉澤平吉中尉。
この人も、B29に体当たり攻撃して命を落としました。


陸軍戦闘機隊では、B29を墜とすために空対空特攻の震天制空隊を、それぞれの戦隊の中に作ったと以前書きましたが。震天制空隊の隊員だけが、B29に体当たり攻撃をしたわけではないのです。他の隊員もやむにやまれず、B29に体当たり攻撃しています。吉澤中尉もその一人です。


吉澤中尉は、陸軍航空士官学校卒第56期。いわゆる「航士」。陸軍の航空士官です。
吉澤中尉は特攻隊員に指名されていませんでしたが、部下が震天制空隊としてB29に体当たり攻撃をしていく中で、自分もやると心に決めていたようです。

1945年(昭和20年)2月10日、成増飛行場から鐘馗を駆って飛び立ち、群馬県の太田上空でB29に体当たり攻撃をして戦死。

死後特進で最終階級は陸軍少佐。享年24歳でした。

大法禅寺
それから月日は流れ・・・1983年(昭和58年)に、武蔵野市の吉祥寺、大法禅寺に、吉澤中尉の二人のお姉さんによって、吉澤中尉の勇魂碑が建てられました。
 

大法禅寺は、JR吉祥寺駅北口から出て大通りを北上し、武蔵野八幡を過ぎてしばらく行ったところを右に曲がったところにあります。住所は武蔵野市吉祥寺東町2-9-13。
ザ・吉祥寺って感じの閑静な高級住宅街の中にあります。



 

お寺の吉祥観音像の裏に、吉澤中尉の勇魂碑があります。

 

吉澤中尉の戦績について刻まれていて、お姉さん二人の切々たる思いが伝わってきます。


 

昭和58年といえば、終戦から38年の月日が流れています。戦争の頃とは、時代も、人々の暮らしも、武蔵野の地も、まったく変わっていたでしょう。1983年は、社会はロッキード事件で大騒ぎ、若者は浦安にディズニーランドができて大騒ぎの年であります。もう成増飛行場のことも、陸軍飛行第47戦隊のことも、震天制空隊のことも、思い出す人は関係者以外はほとんどいなかったでしょう。既に完全に「戦争を知らない子供達」の世代です、私も含めて。戦争なんて「装甲騎兵ボトムズ」や「宇宙戦艦ヤマト」とかのアニメの中だけの話になってました。
それでも二人のお姉さんの心には、戦死した弟さんを偲ぶ思いがこんなにも強く存在していたのだなあと、碑に刻まれたたくさんの文字を見て、心を打たれます。


 

その碑を読んで初めて知ったのですが、吉澤中尉にはお兄さん、陸軍大尉吉澤正夫さんがいて、そのお兄さんも仏印の空に散華したということでした。二人のお姉さんは、二人の弟さんを戦いの空で失っているのですね・・・。

雲染め散なむ 翼なりせば
吉澤中尉の体当たり攻撃戦死については、当時昭和天皇のお耳にも達したということです。当時、防空総司令官であった東久邇宮稔彦王殿下から感状が授与されて、その写しが碑に刻まれています。


 

 

吉澤中尉の辞世の歌。


君の為 捧げし命の 重からで 只一筋に 宮居護らむ
大君の 御楯とあらば 何惜しまむ 雲染め散なむ 翼なりせば

切なく、高潔な歌です。

吉澤中尉、文才もあったのではないだろうか。合掌。
この碑がいつまでも大切にされますように。

 

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