Ace of Aces
西澤広義(にしざわ ひろよし)。
零戦好きならおそらく知らない人はいないであろう、超有名零戦パイロット。
その名は日本にとどまらず、アメリカでも有名。いや、世界中で有名といってよいでしょう。
西澤さんは、最強ゼロファイターとして、英語をはじめとする多種多様な言語でサイトやYoutube動画により紹介されています。もはや完全にレジェンド。
なんといっても、アメリカのスミソニアン航空博物館に、第二次世界大戦における日本の「エース」として肖像画が掲げられている零戦パイロット2人のうちの1人なのであります。(もう一人は「空戦の神様」杉田庄一さん。しかし、なぜ、零戦虎徹の岩本徹三さんは選ばれていないのだろう??)
坂井三郎さんの本『大空のサムライ』はアメリカで大人気の本ですので、その本の中に西澤さんが書かれていたことも、アメリカ人の間に彼の名を知らしめた要因だろうと思われます。
公認撃墜数は87機。西澤さん本人は家族宛ての手紙で撃墜数を147機としていて、戦死時の新聞報道では150機以上と書かれていますので、共同撃墜数も入れれば150機前後であったのだと推測します。この記録を上回るのは、「零戦虎徹」岩本徹三さんしかいない。とにかくすごい零戦パイロットでした。ラバウル、フィリピンの激戦の中、一度も墜とされていませんから。
西澤さんが最も活躍したのはラバウルにいた時なので、「ラバウルの魔王」とアメリカから恐れられたということです。が。どうも「ラバウルの魔王」というのは戦後につけられた呼び名らしい。
アメリカの歴史関連サイトを見ると「The Devil」「The Devil of Rabaul」と呼ばれているので、ここらへんから「ラバウルの魔王」となったのかな。アメリカ側から見れば悪魔のように強かったということでしょうね。
アメリカのHISTORYNETというサイトでは西澤さんは「Japan’s Invincible Ace of Aces」(日本の無敵のエース中のエース)と紹介されています。
背が高くて色白だった
西澤さんは身長が180センチ近くと背が高く、肌が白くて、ワイルド系イケメンでした。眉毛は濃く、鼻筋がすっきりしている日本人離れした容貌。
(↑写真はWikiからお借りしました)
西澤さんのことを書いた本にはみな「背が高い」「色が白い」と書かれています。
靖国神社の遊就館にも、土浦の雄翔館にも、西澤さんの大きな写真が展示されています。
著作権の関係上アップできないけれど、「慰問の手紙を読む搭乗員」という昭和18年6月頃の写真があって、手紙を読みながら笑っている西澤さんが写っているのですが、すごく優しいお顔なのです。笑うとこんなに優しいお顔になるのだなあ・・・。とても、ラバウルの魔王というお顔ではない・・・。
でも戦となれば厳しいお顔になり、千歳海軍航空隊で西澤さん(当時、飛曹長)から指導を受けた安部正治海軍一飛曹は手記「忘れざる熱血零戦隊」(『わたしはラバウルの撃墜王だった』(光人社NF文庫)に収録)の中で
「(西澤)飛曹長の眼光にはいつも二十ミリ弾を撃ちこむような迫力があった」
「スラリと上背ののびた眼光のするどい、まゆの太い、やや巻き舌でしゃべる人であり」
と書いています。
いや、二十ミリ弾撃ち込む眼光って・・・・( ;∀;)
それと、西澤さん、巻き舌だったんだ・・・。かわゆいところもあったのですね。
西澤さんは150機の撃墜王として若い搭乗員達から尊敬と畏敬の念で見られていたそうです。
ソロモン空戦で奮闘
西澤さんは乙種予科練卒。横須賀航空隊→霞ヶ浦航空隊→大分航空隊→千歳航空隊と訓練を積み、1942年(昭和17年)からラバウルに進出します。そして勇名を馳せる台南海軍航空隊(台南空)に配属されます。笹井醇一中尉や坂井三郎さんがいた戦闘機隊ですね。坂井三郎、太田敏夫、西澤広義で、「台南空の三羽烏」と呼ばれたという話も(坂井三郎さん説なので・・・)。
台南空はラバウルを拠点に大活躍し、敵機をバンバン撃墜していきますが。1942年8月7日から、ソロモンでアメリカ軍の反攻が始まり、戦争の潮目が変わっていきます。
西澤さん達もラバウルからガダルカナル島までの長距離を飛び空戦するという、ガダルカナル攻防戦を戦っていくことになります。その中で、笹井中尉は戦死、太田敏夫さんも戦死、坂井三郎さんは重傷を負い内地へ帰還。西澤さんはラバウルに残り、戦い続け、撃墜数を増やしていきます。
この頃、西澤さんはマラリアにかかり、ラバウルの海軍病院に入院していたことがあるのですが。その時に、斎藤司令や搭乗員仲間が日の丸に励ましの言葉を書いて西澤さんに届けていて、その日の丸が今も残っています。西澤さん、みんなに愛され、頼りにされていたのですねえ。
その後台南空は二五一空になり、損耗が激しかったので再建のために豊橋に帰還。西澤さんも日本本土に帰ります。
しかし、1943年(昭和18年)5月から、再びラバウルに進出。ソロモンの激しい戦闘を戦っていきます。
西澤さんはとにかく格闘戦に強く、航空艦隊司令長官だった草鹿任一さんから100機撃墜記念の感状と「武功抜群」と書かれたのし紙が巻かれた白鞘の軍刀が授与されました。(草鹿さん、恩賞と部下の士気を鼓舞するために、たくさんの刀を発注していたらしいです)。
フィリピンの空に散る切ない最期
厳しいソロモン空戦を生き抜き、西澤さんは日本に帰還、1943年11月から大分航空隊で教官になります。
1944年3月からは千歳航空隊の二〇三空に配属され、北千島方面の防衛にあたります。
1944年10月からフィリピンへ進出。これは、捷号作戦のためです。
そして・・・この作戦から、海軍の特攻作戦が始まります。西澤さんは、10月25日、関行男大尉率いる神風特別攻撃隊敷島隊の直掩を務めることになりました。つまり、西澤さんは、海軍特攻の直掩第一号となったわけです。
西澤さん、敵機と空戦して撃墜することこそ戦闘機搭乗員の務めだと思っていたと思いますから、この特攻作戦についてどう思っていたのでしょうねえ・・・。
でも、西澤さんの命も、この特攻直掩任務の翌日に失われてしまうのです。しかし、空戦で失われたのではありません。
1944年10月26日、セブ島の基地に零戦で移動するのですが、その零戦を特攻に使うからおいていけと命令され、マバラカット基地へダグラス輸送機に乗って移動したのですが。その輸送機がミンドロ島上空でグラマンF6Fヘルキャットに襲われ撃墜されて、戦死。西澤さんは空戦には自信があったでしょうが、自分が操縦しない輸送機に乗っているところを襲われたらたまりません。しかも相手はヘルキャット。零戦だって互角に戦うのに苦労する戦闘機なのに、鈍重な輸送機では、勝負にならないです。零戦ファイターのエースの中のエース、西澤さんは、空戦ではなく、輸送中に敵機に襲われて戦死という、悲しい最期を迎えてしまいました。西澤さん、無念だったのではないかなあ・・・。
あ~、我らが菅野直大尉が一緒だったらなあ~。菅野大尉もフィリピンで輸送機に乗って運ばれている所をグラマンに襲われたのですが、俺が操縦する!と操縦桿を奪い取り、低空に逃げて敵機を巻いてしまったというレジェンドエピソードがあるのですが。西澤さん、菅野大尉と一緒だったらよかったのにねえ・・・(泣)
「(西澤)飛曹長を失ったことは、「零戦の魔力」を大きく後退させることになった」
と安部正治海軍一飛曹は手記「忘れざる熱血零戦隊」(『わたしはラバウルの撃墜王だった』(光人社NF文庫)に収録)で書いています。
西澤さんはお髭を生やしていたので、実年齢よりも上に見えたかもしれませんが、戦死時24歳。25年にも満たない生涯だったのです。
死後二階級特進で中尉。
おとなしい人だった
華々しい戦績のわりに、西澤さんは普段は控えめで大人しい方だったそうです。そして、部下の教育に熱心な方でした。
小高登貫著『あゝ青春零戦隊』の中で
「ラバウル当時は上飛曹だったが、私たち下の者にも、親切に口をきてくれる、おとなしい人だった。そして、当時すでに敵機撃墜八十余機という記録を持ち、空中戦の神さまといわれ、みんなに尊敬されていた」
と書かれています。
『修羅の翼』の著者角田和男氏も「無口で物静かな男」だと、西澤さんのことを書いています。
列機は一人も墜とされていない
ただ、その無口な西澤さんが饒舌だった一夜がありました。
角田さんが日本本土に帰って木更津にいた頃、角田さんの私室に5人の下士官搭乗員が集まりました。西澤さんと零戦虎徹の岩本徹三さんがいました。二人はラバウルの話になり。
岩本さんが「敵の攻めて来る時は退いて、敵の引き際に追い討ちをかけて落とすんだ」というと、西澤さんは「岩本さん、それはずるいよ、私らが一生懸命ぐるぐる回りながらやっているのを見物しているなんて。途中で帰る奴なんかは被弾した奴か、臆病風に吹かれた奴でしょう。それは個人撃墜じゃなくて協同撃墜じゃないですか」とちょっとした口論になりまして。
岩本さんは「合計八十機は撃墜している」
西澤さんは「私は百二十機は落としたよ。百機撃墜した時、ラバウルの草鹿長官から個人感状と軍刀をもらっているよ」
と言い合ったそうです。
(西澤さん、草鹿長官がくれた武功抜群の軍刀、嬉しかったのね・・・)
まあ、これは、口論というよりも、二人の凄腕零戦ファイターの考え方というか、戦い方の違いが明らかになっただけと言えますが。
西澤さんは角田さんにこうも話したそうです。
「私はね、敵の真正面から取り組みますよ。しかし列機は必ずつけておきます。後ろが不安では弾は撃ってられませんからね。万一離れた時は帰ってから殴ってでも必ず離れないように教育するんです。それが列機のためでもあるんですよ。私はまだ直属の上官、列機は一人も落とされていませんよ」(列機とは、編隊を組んで一緒に飛んでいる飛行機のこと。要は隊の仲間)
西澤さんは自ら戦績を自慢するとか、手柄話をするってことはなかったそうです。
ただ、この夜は、けっこう喋ったのですね。角田さんは、上下から好かれる性格のよい方だったようなので、西澤さんも角田さんには話しやすかったのかもしれませんね。
西澤さんは角田さんにこうも話しています。(ラバウルから帰って厚木空にしばらく一緒にいた時)。
「部下を可愛がり過ぎちゃ駄目ですよ。猫がついちゃ駄目ですよ。軍規は厳正にしなくちゃ、戦争には強くなれませんよ。私がラバウルから帰る時に提出した軍規論を読んでもらいたかった」
なんと、西澤さん、軍規についてのレポートまで書き上げているのです!
単なるイケイケドンドンの戦闘機乗りでなかったとわかります。
西澤さんは、その優秀さゆえに、負傷もせず、幾度も激戦の前線に戻ることになりました。
最期を迎えるにしても・・・零戦の上で、空戦で、迎えさせてあげたかった・・・。
でも、Hiroyoshi Nishizawaの名は、死後80年以上の月日が経った今でも、世界中の戦闘機ファンの間に轟いています。
西澤さんのことを知るためにお勧めの本
武田信行著『最強撃墜王 零戦トップエース西澤廣義の生涯』(潮書房光人社)
やっぱり、西澤さんといえばこの本でしょうね。
でも、角田和男さんの『修羅の翼』に描き出されている西澤さんもよいです。
これだけ世界的に有名な、そして実績のある零戦パイロットなのに、西澤さんを主役にした映画って、まだないのですよねえ。
ぜひ、製作してもらいたいです。