神雷部隊を率いた野中五郎少佐
野中五郎少佐といえば、神雷部隊。特攻兵器「桜花」を運んだ部隊の指揮官として知られています。彼自身の思いとは裏腹に。
野中少佐は、野中一家と呼ばれた中攻隊を率いて勇猛果敢に戦いました、そして散った・・・。
ものすごーく男気のある雷撃隊指揮官です。しかし、彼の人生は二面的であり、悲劇的でもあります。

(↑写真はWikiからお借りしています)
野中さんの雷撃隊は出撃すること300回以上・・・。その回数の多さもすごいけれど、雷撃機で300回も出撃して生き抜いたことがすごい。勇敢さだけでは無理です。並大抵の技術では無理です。敵艦船や敵基地に肉薄して魚雷を放つ雷撃隊は、艦砲射撃をまともにくらいやすいですし、鈍重な機体なので敵戦闘機に狙われたら空戦もままならず、生還が困難なのです。
兄が二・二六事件で自決
五郎さんは父親が陸軍将校で、兄二人も陸軍士官、陸軍一家だったそうですが、五郎さんだけは海軍を目指し、海軍兵学校に入学しました。
兄の一人が野中四郎です。野中四郎・・・と聞いてピンとくる人もいるのではないでしょうか?
そう、二・二六事件を起こした陸軍青年将校の一人、あの、野中四郎大尉です。
二・二六事件が起きたのは、昭和11年(1936年)、五郎さんが海軍中尉で館山海軍航空隊で艦攻の訓練をしていた時のことでした。五郎さんは四郎兄さんをとても尊敬していたそうですが。事件後、五郎さんは家族の話を一切しなくなったそうです。
二・二六事件の首謀者の一人を兄に持ち、海軍に務めるって、どういう気持ちだったのだろうか・・・。四郎兄さんはピストルで自決していますが、他の青年将校たちは裁判も開かれず、死刑になっています。
私は、この時に、五郎さんは、軍人としての栄達や出世や、天寿を全うしようという思いは捨てたのではないかと思っています。
板倉光馬氏はその著書『不滅のネービーブルー』の中で「彼が中攻隊の隊長として、三百余回にわたり出撃したことは異例であるが、それも兄の汚名を雪がんとする悲愴な決意の発露だったのではあるまいか・・・」と書いています。
(板倉氏は、五郎さんと海軍兵学校のクラスメートだった)
入佐俊家中佐に心服して中攻に転向
五郎さんは小柄だったそうですが、スポーツ万能で、運動神経がよかったそうです。しかし、お勉強の方はあまりおできにならず・・・。あるいはあまり熱を入れてなかった。海軍兵学校での成績はびりに近かったし、授業中によく居眠りもしていたそうです。海軍兵学校では一年留年しています。留年した結果、五郎さんは、板倉光馬さんとクラスメートになるわけです。
五郎さんは、海軍兵学校卒業後、飛行学生過程を修了し、館山海軍航空隊をへて、霞ケ浦海軍航空隊で教官をしていました。五郎さんは初めは艦攻、艦上攻撃機に乗るつもりで訓練していたのです。ところが霞ヶ浦で入佐俊家中佐(戦死後二階級特進で少将)に出会い、彼に心酔し、艦攻から中攻へ転向しました。
入佐中佐は、あの源田実航空参謀と海軍兵学校同期の五十二期。入佐中佐は、支那事変の頃から渡洋爆撃で知られ中攻隊の神様みたいに尊敬されていた人でした。その雷撃の技術もすごいことながら、その人柄が、浮ついたところのない、部下思い、指揮官先頭の、すばらしい隊長として、上下ともに慕われていたそうです。
入佐中佐は、豊田譲氏が霞ヶ浦で訓練を受けていた時の教官の一人で、無口で静かな人だったそうですが、周囲から大変尊敬されていたそうです。(霞ヶ浦時代の豊田氏の教官であった納富健次郎大尉は、「入佐中佐がいかに素晴らしいか」という講義を豊田さんたちにしています)
入佐中佐の生涯については、豊田譲氏が書いた「一期一会」(『新・蒼空の器』に収録)を読むとよくわかります。(入佐中佐はマリアナ沖海戦に参加して1944年6月19日、乗っていた空母大鳳が敵潜水艦に雷撃された時に吹き飛ばされてしまい行方不明、戦死認定されています)
五郎さんは、「いかなることがあろうとも、冥土で入佐さんの前で頭をかくような死に方はしたくない」と言っていたそうで、入佐中佐への敬慕はずっと続いていたようです。
「中攻隊の至宝」として勇躍
五郎さんは中攻に転向した後、空母蒼龍の飛行分隊長に着任、雷撃隊を率います。
ところで。雷撃機、中攻、陸攻と、言っていますが、要は同じことを指しています。雷撃機、すなわち、魚雷をぶちこむ爆撃機で、陸攻とも中攻とも言われました。この陸攻、雷撃機、中攻の区別がややこしいという方は、こちら「中攻隊に檜貝あり(前編)」にまとめておりますので、参考にして下さい。ざっくりいうと、雷撃機⊆陸攻=中攻です。
空母から発艦して雷撃する艦攻(艦上攻撃機)とは区別されています。
昭和16年(1941年)の真珠湾攻撃があった頃、五郎さんが乗ったのは九六式陸上攻撃機でした。檜貝嚢治大佐と同じ機体ですね。
海軍兵学校を留年しようが、成績はテールエンドだろうが、五郎さんは優秀な雷撃隊長で、現場での信頼厚く、昭和16年9月には一航空隊の分隊長になり、雷撃隊を率います。
そして昭和16年12月太平洋戦争勃発で、五郎さんたちの雷撃隊は、フィリピン方面の米英の飛行場や艦船を毎日のように攻撃し戦果をあげます。五郎さんは、「中攻隊の至宝」として海軍内に名を轟かせることになります。
やっぱりねえ・・・学校のお勉強の成績って、実社会では、特に戦争では、関係ないんだなあ・・・。私が尊敬する宮野善治郎大尉も笹井醇一中尉も檜貝嚢治大佐も、海軍兵学校での成績はあまりよくなかったけれど、素晴らしいパイロットであり、指揮官でしたからねえ・・・。太平洋戦争当時の海軍のハンモックナンバー主義(海軍兵学校の卒業時の成績順でその後の配属や昇進が決まる)は、いろいろ問題ありましたよねえ・・・。
野中一家
中攻隊というのは、隊員の団結が固いそうです。空母の艦載機と違って、他基地に移動するにしても、人員まるごと移動するので、ずっと一緒で絆が強かったそうです。隊員のチームワークが戦果に大きく影響するものでした。攻撃は指揮官先頭で一糸乱れず行いますが、敵戦闘機に襲われた防衛戦の時も緊密に編隊を組み集団防御をするので、お互いに守り合う気持ちが強く、一蓮托生の気持ちが醸成されるそうです。
五郎さんの中攻隊は特に結束力が強く、「野中一家」と呼ばれたそうです。
しかし、「野中一家」は五郎さんはもちろん、隊員もかなりガラが悪かったようで(笑)。
五郎さんは飛行服の上に陣羽織を羽織っていて、搭乗員にはべらんべー口調で命令を与えます。「やろうども、かかれ~!」「がってんだー!」って感じで。五郎さんの隊の待機所の前には「八万大菩薩」「風林火山」「非理法権天」という幟が立っていました。出撃時には陣太鼓をドドド~っと叩いたそうです。武田信玄みたい・・・。
五郎さん、一応、海軍兵学校卒の士官搭乗員なのですが、「エリート海軍士官」というイメージからは遠い・・・。まあ、なんというか、清水の次郎長一家みたいな感じですよね。
なんか、菅野直大尉と重なるところありますね・・・。
少なくとも、もう一人の中攻隊の名指揮官、檜貝嚢治大佐とは全然違いますね・・・。
こんな野中一家のべらんべえぶり、そして海軍兵学校卒のスマートであるべき士官の姿とは真逆な五郎さんの態度に、目くじらを立てたり、眉を顰める上官たちもちらほらいたそうです。
五郎さんの部下だった西田三郎大尉によると
「野中さんが陣羽織を着たり、旗幟をひるがえしたのは、それによって、先頭で戦おうという自分の意志を極限まで高め、またそうすることで部下の士気を高揚しようとしたのだ」と述べています。
うん、うん、そうですよね。
中攻隊は、戦争当初こそ戦果を挙げたけれど、ミッドウェー海戦以後は死闘の連続。死を覚悟しての出撃が繰り返されていました。当時は過酷な戦闘に、少なからぬ精神異常者が搭乗員に出たそうです。
野中さんの部下だった伊藤福三郎さんは
「隊長がみずから「野中一家」という言葉を口にしたことはない。だれがいうともなく、この飛行隊の通称となって、その後戦歴を重ねるにつれて、関係のあった人人の間では、多少の得意さをまじえて広く流布された」
と述べています。
(中編に続く)

