東郷平八郎元帥を祀る東郷神社

東郷神社は、日露戦争でバルチック艦隊を破った日本海海戦の英雄、東郷平八郎海軍元帥を祭った神社。

海軍にゆかりのある史跡がいろいろあります。
場所は原宿の竹下通り横。こんなところにあるのですか~!?という場所にあります。原宿駅から徒歩3分と至極便利な場所です。
原宿駅を降りたら道路を渡って韓流グッズやらコスメグッズがわんさか売られている竹下通りを歩き、1分くらいで左に曲がる。え?ここで本当にあってる?という感じの、いたずら書きでいっぱいの公衆トイレの前を過ぎてすぐ、石段と鳥居が見えます。
(いや~、もうちょっと、この界隈、きれいにしてくれないだろうか・・・と思いますけども)

 


鳥居をくぐって神社内に入れば、そこは別世界。桜が散り(ちょうど桜の季節に訪問しました)、鳥の鳴き声が聞こえる、広々として静かな空間です。
原宿駅前の一等地にして、この広さ!やっぱりねえ・・・日露戦争は日本の勝ち戦だから・・・その勝ち戦の英雄を祀る場所は、太平洋戦争ゆかりの神社とは、スケールと堂々さが異なりますね・・・。



しかし、私は別に東郷さんをもちあげにきたのではなく(←オイ・・・いえ、ちゃんと神社にお参りはしましたよ。お賽銭も納めました)。
海軍の太平洋戦争関連の戦跡があるので見に来たのです。

それと航空安全御守りを購入するために。

私は海軍航空隊ファンなくせに、実は飛行機に乗るのが怖い、飛行機恐怖症です・・・。

見るのはいいのよ、見るのは。

自分が飛行機に乗るとなると、心臓バクバク、頭ズキズキ、意識フェードアウト。パニック寸前。閉所恐怖症&高所恐怖症。それで苦しい時の神頼みで、航空安全御守りを集めているのです。
東郷神社で無事に、航空安全御守りを購入。

 


ん?でも、なぜ、東郷神社で航空安全なのかな?東郷さんの時代はまだ戦闘機なかったけど。
まあ、細かいことは気にしないでおこう。
 

桜も美しく、日本庭園が美しい神社です。
人も少ないから、ゆったりお花見できます。


日本庭園にある明治44年建立の歴史ある鳥居。水交社にあったものを移築。東京大空襲でも無事残った鳥居です。

海軍経理学校正門の敷石

手水舎の前にある石が、海軍経理学校の正門敷石だったものです。

主計課と言われた人達。海軍経理学校は、海軍兵学校、海軍機関学校と並ぶ’海軍三校。非常に優秀な方々が集まったということです。海軍での庶務や経理を担当したということなので、現在の会社でいう経理部や総務部にあたる業務ですね。
有名どころでは、俳優の神山繁、料理家の土井勝、中曽根康弘元首相、元ブリヂストン社長の石橋幹一郎や、〇〇庁長官のような官僚のトップの多くが、海軍経理学校出身。戦後、政治、官僚、実業界を引っ張ったリーダー達がたくさん出ています。すごい秀才ぞろいだったのですね。

海軍特年兵之碑

昭和の白虎隊と言われた、14歳からの志願兵。 特年兵と言われました。

とにかく、まだ幼いのですよ・・・。碑によれば「一期生3200名をはじめ 二期生約17200名におよんだ」ということで5千余名が戦場で亡くなりました。
いや、哀切極まる・・・。兵とは呼べないような幼さですよ、まだ子供ですよ、14歳なんて。
合掌。
海軍特年兵制度は、元々は士官教育のために幼い時から養育しようとした制度だったようですが。太平洋戦争の状況が悪化してからは前線に配属されて命を散らす特年兵達も多くなっていきます。
『海軍特別年少兵』という東宝の映画があるのですが(1972年公開)。すみません、私は見れていないです。見るのが恐ろしくて。硫黄島に配属された特年少年兵の話ということで、すごーく辛くなりそうで見れていないです・・・。

潜水艦殉国碑
そして、今回、東郷神社を訪れたメイン目的が、こちら。


太平洋戦争中に亡くなられた全ての潜水艦関係者の英霊を慰霊する碑。
波の下に潜水艦が描かれていて、とてもよくできているレリーフです。

潜水艦を型どった碑の司令塔部分に、伊号33の潜水艦の潜望鏡が取り付けられているのです。
この伊号33という潜水艦は悲劇的な物語があり、また、ミステリアスなナゾもあるのです。

伊号33潜水艦の数奇な運命ー3は忌み数?
伊号33潜水艦と、3という数字にまつわるミステリーについては、潜水艦乗りでもある板倉光馬氏が書いた『不滅のネービーブルー どん亀艦長海軍英傑伝』(光人社NF文庫)の中の「呪われた潜水艦」に詳しく書かれています。(この本、絶版かなあ。私は古本屋さんで購入)
 

この伊号33潜水艦は3回、人の命を奈落に持っていってます。
1回目は、昭和17年9月、トラック島で事故により沈没。33名が殉職。
2回目は、トラックから引き揚げられて呉で修理され、昭和19年6月、訓練中に与居島沖で沈没。奇跡的に助かった3名を除き、乗員全員殉職。この時の和田艦長は、板倉氏の同期でした。
3回目は、戦争も終わった昭和28年、伊号33潜水艦を引き揚げて、長い間潜水艦に閉じ込められていたご遺体と遺書を収容。その後、調査官の3名の技術大佐が潜水艦の中に降りて、その直後に死亡。
 

皆さん、お気づきでしょうか?
伊号33潜水艦の悲劇には、常に「3」という数字がまとわりついていることを・・・。
板倉氏もその著書の中で「潜水艦乗りの中で“3”という数字はCurse Number(呪われた数字)とされていた」と書いています。
 

1回目、2日目の沈没の原因は人事的なケアレスミスだったと判明しているのですが、3回目がミステリアス。この3名の技術大佐は悪性のガスで命を奪われたようなのですが。彼らの前に潜水艦には何人もの人が入っているのです。ガスが溜まっていると警戒されたので換気もしました。しかし、この技術大佐3名は、潜水艦の中に降りたとたんに、意識を失い倒れてしまったのでした。

伊号33潜水艦が呪われた「3」の潜水艦だったのか・・・。それはわかりませんが、2回目に沈没した時、乗組員達は落ち着いた、そして尽忠報国の固まりといえる遺書を残しています。これらの遺書については、防衛省のホームページで公開されています。

https://www.mod.go.jp/msdf/stc/museum_report_6.html

そして、伊号33潜水艦のミステリーはまだ終わりません。
 

昭和28年に9年ぶりに海底から引き揚げられてハッチが開けられた時、ご遺体が収容されたと書きましたが・・・前部にある密閉された発射管室には、亡くなった当時の状態のまま、まったく腐敗していない13名の乗員のご遺体が発見されたのです!

空気が密閉されていたからか、海の底で温度が低かったからなのか、9年経過しているというのに、生きているかのような姿のご遺体だったそうです。
それらの写真を撮影した報道班もいたようですが。ご遺体の尊厳という意味から、その写真は公開されていません。
 

しかし、その写真を見せてもらった吉村昭氏が、伊号33潜水艦の数奇な運命を『総員起シ』(文春文庫)という小説に書いていまして、ご遺体がどのような状態だったかを知ることができます。これ、けっこう衝撃作です。これ以上書くとネタバレになるので書きませんが。私は読みながらページをめくる手が震えました。


閉所恐怖症の私が、伊号33潜水艦のようなアクシデントに遭遇したら、一番先にパニックになるか狂いだして、深海でもいいから無理やり外に出ようとする気がする(というか、そもそも閉所恐怖症の私が潜水艦に乗ることはないのだけど・・・)。

でも、伊号33潜水艦の乗員達は違った・・・。(いえ、私なんかと比べること自体、とんでもなく失礼なのですが・・・)

海軍軍人として恥じない最後を迎えようとし、そして迎えました。

彼らに限りない敬意と哀悼の意を表します。

合掌。


 

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