遊就館にある零戦
靖国神社内にある遊就館で開催中の特別展「終戦八十年 戦跡写真展」を見にいってきました。
靖国神社に行ってきたと友人に言うと「右翼なの~!?」とか言われちゃうのだけど(右翼でも、戦争礼賛者でもありませぬ・・・)、神社自体はとても清々しく、緑が美しい神社です。
太平洋戦争の頃の本を読んでいると、多くの若者達が「靖国でまた会おう」「先に靖国に行って待ってるからな」「お母さん、必ず靖国に会いにきてくださいね」と言いながら出撃しているので、彼らのために靖国神社はずっと残してあげて下さいと、個人的には思っています。
そして、靖国神社内にある遊就館には――零戦があります~。レプリカですが。
ここまでは無料で見れます。
零戦は皆が撮影するので、なかなか人が入り込まない写真を撮ることができない・・・。
外国人の方達もZero~!と言って盛んに写真撮ってましたねえ。
優しく咲いておくれ、神雷桜
遊就館に入る前に。
まずは神雷桜に手を合わせます。
靖国神社の中の桜は、〇〇会という同期会や各戦場の戦友達が植えたものが多いのですが。
神雷桜は、神雷部隊が植えた八重桜です。神雷部隊は、桜花の特攻部隊です。
特攻兵器はどれもひどいけれど、桜花と伏龍は特に、人間性ゼロ、開発した奴が使ってみろ、頭おかしくなっているとちゃうか!?と言いたい邪道の兵器だと思っているのですが。
そんなひどい兵器でも搭乗して命を散らした搭乗員達、そして、桜花をぶら下げて運んでいき甚大な被害を出している一式陸攻隊。彼ら神雷部隊の生き残りの方々が植樹した神雷桜。優しい花弁の八重桜です。だいぶ、老いてきている桜ですが、どうか、ずっと春に咲き続けてほしいです。少しでも、神雷部隊の方々の慰めになるように。
すごかった・・・「終戦八十年 戦跡写真展」
遊就館の通常展示は一部屋(彗星や桜花が展示されている部屋)を除いて撮影禁止ですが、こちらの特別展は撮影OKでした。
(常設展見るのに1000円必要ですが、それで追加料金なしに特別展見れます)
太平洋・アジアの太平洋戦争の激戦地の戦跡、慰霊碑などの写真が展示されています。
いやあ・・・ものすごかったです。なんか、見ていると、ずしっと肩が重くなるような感じ。
ソロモン、ガダルカナル、レイテ、インパール、アッツ、硫黄島・・・。
太平洋戦争の悲しいほどの激戦が戦われた、そして多くの人々の命が散った場所に、残された戦争の跡や、慰霊碑の写真が説明書と一緒に展示されています。
↑玉砕の島として知られるアリューシャン列島のアッツ島に残されたプロペラと機関銃の残骸。
↑ガダルカナル島でほとんど全滅してしまった日本陸軍の一木支隊の慰霊碑。
↑ガダルカナル島の飛行場の横にある、日本陸軍川口支隊の慰霊碑。
↑慰霊の心をこめてガダルカナル島の砂鉄で作られた刀。
↑硫黄島の洞窟の中に刻まれた兵士の名前。
↑ミンダナオ島のスリガオ海峡を望む場所に建てられた慰霊碑。レイテ海戦の一つ、スリガオ海峡海戦が戦われ、西村艦隊が全滅した所です。合掌。
↑ルソン島のマバラカット飛行場跡に建てられた慰霊碑。ここは、関行男大尉率いる神風特攻隊が飛び立った飛行場です。
どれも思わず涙ぐんでしまうような、悲惨な戦争の跡。そして、今でもそこで亡くなった人達のことを忘れず、遺骨を収集して下さって、慰霊の旅をしてくれている人達がいることに、感謝です。
メレヨン島の悲劇
そして、私が今回、一番動揺、というか心を揺さぶられたのは、このメレヨン島のスコップです。
↑メレヨン島で取集したスコップ。
私は毎朝、昔の天声人語を朝日新聞社が集めた文庫本の中から、適当に一節選んで読むことを習慣にしています。文章の練習のためと、私が生まれる前の日本社会ってどんな感じだったのかを知るために。
遊就館に行く日の朝、たまたま手に取った文庫本が『天声人語5 1963・5~1966・12』(朝日新聞社刊)で、何気なく開いたページが「昭和41年1月17日 メレヨン島の真相」でした。
(メレヨン島?聞いたことないな・・・)
地図を確認してみると、マリアナ諸島のメレヨン島。南に向かって、日本本土→サイパン→グアム→メレヨン→ニューギニアと南下する位置にあります。サイパンのちょっと南の位置ですね。
メレヨン島では太平洋戦史に残るような戦いはなく、実際一度もアメリカ軍と戦闘らしい戦闘は行われていなかったのです。
米軍は飛び石で島を攻めていったので、メレヨンは飛ばされ、アメリカ軍は上陸しませんでした。ただし、空襲は何度もされています。
食糧も武器も補給路が断たれ、メレヨンは飢餓の島になっていきます。(一度だけ、潜水艦による食糧補給が成功したそうですが、すぐになくなってしまいます)
海軍・陸軍あわせて約6500人の将兵がいました。が。約5000人もの死亡者が出ていて、そのうち約4500人が餓死か病死だったそうです。
昭和41年1月17日の天声人語によると。
1946年(昭和21年)から幣原改造内閣で文部大臣を務めた安倍能成氏が、メレヨン島で亡くなった兵士の遺族から「メレヨン島から生還した戦友が、メレヨンでは、兵は上官に殺されたと言っている。将校のみは、野生のヤシを独占し、海の魚を爆弾で漁獲して満腹していた。兵は過酷な訓練を課され、ばたばたと死んだ。兵が死ねば、それだけ食糧に余裕ができると将校は喜んだ。かくて、5500人の兵が死んだのに、将校はフグ中毒の2人を除いて、全員帰還した」という内容の手紙を受け取り、それを雑誌「世界」を通じて発表し、メレヨン島の悲劇を訴えました。
これに対し、メレヨン島の守備隊長であった北村勝三陸軍少将(この方はメレヨンから生還している)が反論。将校の死亡率は40%で、下士官兵の死亡率は70%であったと反論したのです(つまり将校もたくさん死んでいると訴えたかったらしい)
北村氏は、1947年8月15日、割腹自殺を遂げています。何を思っての自決だったのか・・・。
北村氏は、メレヨン島から帰還後、亡くなった部下の遺族を訪問して回ったということですし、統率力のある部下思いの指揮官だったという声もあります。が。それも、島が飢餓状態になる前のことだったのかもしれません。
メレヨン島で将校による残虐行為があり、それ故に兵ばかりが死んだのか否か。将校側、兵側からの水掛け論になって、真相がはっきりしないので、解明すべきだという論調の天声人語でした。
それから時は流れ・・・メレヨン島からの生還者達が手記を出版しはじめ、メディアでも真相を追求する記者達も出てきて、記事なども出ています。
少しづつ、メレヨン島で何があったのか、わかってきました。が。
戦争も飢餓も知らずぬくぬく温室育ちの私が、メレヨン島で起こったことを断罪したり、将校が悪かったと批判する権利はまったくないと思うのです。
もし、私がメレヨン島に取り残され、飢えに苦しめられたら・・・私だって、何するかわからん・・・自分だけ助かろうとするかもしれん・・・と思うのです。
せっかくアメリカ軍との正面衝突が避けられたのに、餓死や病気で多くの人が死んでしまったという事実だけが、戦争というものの悲惨さだけが、真実としてそこにある・・・という気がします。
朝、そんな天声人語を読んで、遊就館に行ったら、このメレヨン島のスコップと出合ったので、偶然の一致にびっくりしました。このスコップで懸命に食物を得るために畑を作っていたのでしょうか・・・。
もう二度と、メレヨン島の悲劇が繰り返されない世の中であってほしいです。
遊就館の通常展示も見て回りましたが。それについては、後日書きたいと思います。
遊就館に行く方は、ハンカチやティッシュを持っていった方がいいと思います。
女子は、マスカラつけていくと、たぶん、パンダ目になります・・・。私はなりました・・・。












