「ザ・ヒロサワ・シティ」の零戦

ラバウルの零戦隊長、宮野善治郎大尉に沼落ちしてから、寝ても覚めてもラバウル航空隊のことを思う毎日の私ですが、まだラバウルに行けていないのです。そう簡単に行ける所ではないですからね・・・。
で、せめてラバウルの空を飛んでいた零戦を見たいということで、茨城県筑西市の「ザ・ヒロサワ・シティ」にある「ユメノバ」というテーマパークに行ってきました。ここに、ラバウルから引き揚げられて組み立てられた零戦が展示されているのです。
 

 

この零戦はラバウル北西のニューブリテン島ランパート岬沖で、水中に沈んだ状態で発見されて引き揚げられたものです。部品を組み合わせてラバウル現地で再製造された機体で、通常零戦は単座(一人乗り)ですが、二座性にしてあり、偵察に使っていたらしいです。ラバウルの残存部隊の奮戦ぶりが伝わります。
 

事実、ラバウルの残存部隊が、航空機の残骸から部品を組み立てて、零戦や陸攻を再製造し、偵察や、なんと敵戦闘機と空戦したり、敵基地を攻撃したりしているのです!
この零戦は、その時の一機かもしれません。
実際にラバウルの空を飛んでいた零戦・・・。感慨深いものがあります。

しかし。このユメノバ。行くのにとても不便な上に(バスもありますが、本当に少なく14時台で最終・・・)入場料が2500円もかかります・・・。そして、零戦以外に見るべきものが私的にはあまりなし・・・。なんか展示がとても昭和でした・・・。
すごーく広いので、子供連れのファミリーは遠足気分で行くと楽しいのかもしれませんが。
私のように歩きでいく場合、JR水戸線下館駅で降りて、そこからタクシーで行くしか、ほぼ手段がありません。下館駅から歩いてたどりつくのは、無理です・・・。

見捨てられたラバウル
太平洋戦争中、日本海軍の一大航空隊基地となっていたラバウル(陸軍の航空隊もいたけれど)。戦争中は、ラバウル航空隊として、その勇猛ぶりを讃えられ、歌までできました(「ラバウル航空隊」や「ラバウル小唄」がヒット)。
 

しかし、昭和19年になると、ガダルカナル戦線と、ニューギニア戦線の両方からアメリカ軍に攻められ、日本側も必死に戦いますが、もはや守勢一方になります。搭乗員や航空機の被害もすごく・・・。結局、ラバウルから航空隊を撤退させてトラックまで航空機ごと避難させ、航空拠点としてのラバウルは実質放棄となります。(でも、トラックに避難させた航空機は、その後アメリカ軍のトラック空襲で200~300機も燃やされ、なんだったんだ・・・ということになるのですが)
 

ラバウルに上陸して攻撃してくると思ったアメリカ軍は、ラバウルを素通りして、トラックを襲い、そしてサイパン、テニアンへ北上していきます。
航空基地として放棄されたといっても、ラバウルにはまだ10万人もの日本軍兵士が残っていました。もう航空機もないし、搭乗員もほとんどいなくなったけれど、若手の搭乗員や整備員など多少残っていたのです。
アメリカ軍がフィリピンを攻めて日本軍が大変なことになっているというのに、自分達にはもう戦うための航空機がない・・・。ラバウルを素通りしたといっても、アメリカ軍は定期的にラバウルを空襲しに来るのですが、立ち向かうための武器もない・・・。
物資の補給もないから、自分達で食糧を自給するしかない。ラバウルに残った航空隊の人達も、畑を耕し、魚を獲り・・・という、原始生活のような毎日を送ることになります。
しかし、彼らは諦めませんでした。

それからのラバウル。兵士達は諦めなかった。
ラバウルに残留していた航空廟の技術関連者達が、破損した航空機の残骸を集めてきて、修理して継ぎ合わせ、戦闘機10機と、艦上攻撃機2機を作り上げたのです。この時に作った戦闘機の一部が二座性だったということです。偵察と攻撃の両方が可能なように作り変えたということです。
肝心の搭乗員は若輩しか残っていなかったけれど、士気は盛ん。若手を訓練して、アメリカ軍の空襲の合間をぬって鍛錬しました。
そして遂に、彼らをもって、敵の戦闘機5機を撃墜する成果を挙げています。
もうラバウル航空隊は無力化したと思っていたアメリカ軍はびっくりして、その後、猛烈な空襲をかけてきましたが。
 

その後も数少ない戦闘機を駆って、アメリカ軍基地を爆撃したり、敵戦闘機と空戦したりしました。
しかし、いくらやる気に溢れていて、飛行訓練を積んだといっても、ベテランとはいえない搭乗員達です。未帰還となる機も出てきます。
それでも、サイパンの苦戦などの悲報を聞いたラバウルの兵士達は、なんとか一矢を報いたい、自分達も日本の興亡を賭けた戦いに参加したいと、その方法を模索します。

昭和19年6月5日に、アメリカ軍が占領して前進基地にしていたラバウルの北方にあるアドミラルティー群島に、戦闘機2機で偵察に向かいます。そして敵艦隊の状況を偵察し連合艦隊に報告します。「よくやってくれた」と、連合艦隊司令長官から賞詞をもらうことになります。


その後も数回にわたって、アドミラルティー群島のアメリカ艦隊の偵察を敢行します。悪天候や敵の攻撃を受けて未帰還になる機もありました。でも、少しでも日本の戦いに協力したいという思いで、幾度もアドミラルティ―群島への危険な偵察業務に出たのです。
10月には、アメリカ軍がレイテ方面に出現したということで、アメリカ艦隊の動向を探るために、再び戦闘機2機でアドミラルティーの偵察を行い、再び、連合艦隊司令長官から「全般作戦に寄与せるは大なり」と賞詞が送られました。
 

そして、10月下旬には、日本軍がフィリピン方面で苦戦していることを聞いて、敵兵力をラバウルに引きつけようと、3機の戦闘機(しかも、ツギハギなのでかなりボロイ)が爆弾を抱いて、アドミラルティーのアメリカ軍の飛行場攻撃に向かうのです。
指揮官は、大久保忠平飛行兵曹長でした。
いや、これ、無謀な作戦では・・・と思ったのですが、アメリカ軍は無力化したラバウルから攻撃機が来るとは全く思っておらず、完全に虚を突かれて、作戦成功。
アメリカの飛行場は炎上、戦闘機30機ほど破壊したそうです。
この勇猛果敢な戦いぶりに、大本営から祝電が届き、天皇陛下からお褒めの言葉も賜ったそうです。

アドミラルティー夜襲に成功
昭和20年1月にも再び戦闘機1機をアドミラルティー偵察に出しましたが、これは未帰還。
翌日もう一機偵察に出て、今度は偵察に成功しラバウルに帰還しました。
でも翌々日偵察に行った戦闘機は未帰還となりました。


艦上攻撃機も2機作ったけれど、これを操縦できる搭乗員が残っていなかったので、水上偵察機の搭乗員を訓練したそうです。
4月28日、艦上攻撃機は意気揚々とアドミラルティー攻撃の夜襲に向かったそうです。
久しぶりの積極攻撃でした。大久保忠平少尉が指揮官でした。
これも無謀な作戦では??と思ったのですが、なんと、彼らは見事にアメリカ空母を撃沈します。アメリカ軍はやっぱり油断していたようです。
しかしラバウルから飛び立った2機が戻ってきませんでした。
 

この4月のアドミラルティー攻撃には、アメリカ側も相当びっくりしたようで、戦後アメリカの戦史調査団がラバウルに来た時に、「1945年4月に日本軍の飛行機がアドミラルティーを夜襲したことがあるが、あれは誰の命令により、どこの飛行機が来たのか?」と、当時のラバウル司令長官だった草鹿任一さんは聞かれたそうです。

2015年のラバウル
私はまだラバウルを訪ねる機会がないのですが。
私の妹、このブログではfuyunoBが、実は2015年ラバウルを訪れています。2回も。
旅行会社の添乗員をしているfuyunoBは、お客様に連れ添ってラバウルに行ったそうです。そのお客様はお兄様が搭乗員でラバウルで戦死されたということで、お兄様を偲んで海に向かい名前を叫んでいたそうです。


映画『永遠のゼロ』のファンであるfuyunoBは、「ラバウルは、まさに『永遠のゼロ』そのまんまだった・・・砂埃だらけの滑走路で・・・すごく蒸し暑くて、何もなくて・・・こんな所で戦っていたのかと驚いた」と言っていました。
その時fuyunoBが撮った写真がこちら。艦上爆撃機か零戦と思われる飛行機の残骸が、切ない姿をとどめています。

 

「それからのラバウル」がよくわかる本

ラバウル航空隊の大半が去った後のラバウルを描いたノンフィクションとしては、『ラバウル戦線異状なし』草鹿任一著(中公文庫)がお勧めです。この稿も、草鹿氏のこの著書を参考にさせて頂きました。


また、ラバウルに残存した航空隊整備員の目からみたラバウルでの日々を描いた『ラバウル航空隊の最後』渡辺紀三夫著(光人社NF文庫)も、とても興味深いです。「それからのラバウル」のリアルな暮らしぶりがよくわかります。