レンネル島沖海戦

昭和17年末にガダルカナル島からの撤退が大本営で決定され、昭和18年から「ケ」号作戦というガダルカナル島からの日本軍撤退作戦が進められていきます。

アメリカ軍は既にガダルカナル島を大部分占領していますから、ジャングルの奥に逃げ込んだ日本軍兵達をなんとかアメリカ軍に見つからないよう救出しなければならないという困難度マックスの作戦です。
日本海軍としては撤退作戦を成功させるために、ガダルカナル島にいるアメリカ軍に少しでも打撃を与えようと航空機や艦船を使って攻撃していました。
 

そんな中、哨戒機がレンネル島沖に戦艦を含むアメリカ艦隊を発見と報告してきます。
ガダルカナル島増援のためのアメリカ艦隊でした。(実際には戦艦はおらず、輸送船団を護衛中の重巡洋艦シカゴ、駆逐艦ラパレットなどだったのですが)

昭和18年(1943年)1月29日。ラバウル航空隊から、七○一空と七○五空の雷撃隊が、このアメリカ艦隊を攻撃するために飛び立ちます。薄暮(夕方日が暮れる時間帯)にレンネル島沖に到達するように。
いよいよ、レンネル島沖海戦勃発です。

「どうしても今日は自分に行かせてください」
 

七○一空の飛行隊長(つまり檜貝さんの部下)の巖谷二三男大尉が雷撃隊を率いて向かおうとしていたところに、檜貝さんがどうしても今日は自分に行かせてくださいと頼みます(敬語で)。
「陸攻による雷撃法をずっと研究してきたから、今日だけは僕にやらして下さい」(やっぱり敬語)。
巖谷さんの方が部下なのですけど、檜貝さんは部下にも丁寧な言葉を使っていたということですからね。
この日、檜貝さんは並々ならぬ闘志を内に燃やしていたのだろうと思われます。
巖谷さんに後を頼んだ後(この「後を頼む」には、いろいろな意味があったのだろうと推察されます・・・)、800キロの魚雷を抱いた九六式陸攻16機と、照明機6機を率いて、檜貝さんはラバウルを飛び立ちます。

七○一空がレンネル島沖に着く前に、七○五空の一式陸攻16機が、中村友男大尉に率いられて先に攻撃を開始しました。
敵は戦艦ではなく重巡だったのだけど。方角、位置はドンピシャリ。
しかし~奇襲同然の攻撃で魚雷放ったけれど、これが一発も当たらず・・・。

(日本側は6~7本命中したと思っていたのですが。実際には1本も当たっていませんでした)
ただ激しい空中砲火を受けながらも、未帰還一機で済んで、ラバウルへ帰還。

その後攻撃した檜貝さんの七○一空は、敵が警戒マックスの中飛び込んだわけです。
その頃にはもう薄暮どころか、真っ暗、夜です。
檜貝さんの指揮官機は主翼の赤と緑の翼端灯をつけたまま、先頭を飛んで僚機を誘導しました。

もちろん、これは敵にも自らの位置を知らせるリスキーな行為です。
照明隊が照明弾をあげて、周囲を照らし。猛烈な敵からの対中砲火がきます。
 

部下の回想によると、檜貝さんの指揮官機は見事に僚機を誘導し、敵艦船につっこんでいきますが、ものすごい対空砲火を受けます。
檜貝さんの機は魚雷を放った後、砲火を受けて炎上したまま敵艦船に突っ込んだと言われました。

しかし、檜貝さんの機の最期をはっきりと確認した日本側の記録はなく。
 

ただ、アメリカ側の記録によれば、七○一空の放った魚雷はルイスビルに命中(だが不発)、シカゴに魚雷命中して航行不能、ウイチタに魚雷命中(だが、これも不発)。七○一空の放った魚雷四発が命中したけれど、2発は不発だったと・・・。

檜貝さんの執念
 

アメリカ側の記録によると、シカゴを攻撃した一機が雷撃後シカゴの左舷艦首すれすれで海中に突入したが、海に落ちる前に航空ガソリンを甲板上に飛び散らせたので燃え上って、シカゴを夜の闇の中照らし出し、一機目に続いた雷撃機が狙いを定めて放った魚雷がシカゴに命中。(シカゴは30日の昼間攻撃で日本側に最終的に撃沈されている)
シカゴの甲板に航空ガソリンを撒き散らして炎上させた機が、檜貝さんの機とみられます。
檜貝さんの鬼の執念のような、海中墜落前のシカゴの甲板ガソリン撒き散らしにより、結局は七○一空の成果としてシカゴを大破し、後に撃沈に追い込むことができました。

しかし、一方で、檜貝さんの手腕を持ってしても、陸攻による夜間攻撃は難しいのだと、悟らされる結果になりました。
レンネル島沖海戦は、史上最初の航空機による夜間雷撃でありました。
そして、太平洋戦争における中攻隊最後の成功例となってしまいました。

一方、昭和18年2月に大本営は、レンネル島沖海戦で大勝利をあげ、戦艦二隻撃沈、巡洋艦三隻撃沈、戦艦一隻中破、巡洋艦一隻中破、戦闘機三機撃墜と戦果を高々と謳いあげていますが。これは、まったく、事実と異なります。
本当の戦果は、巡洋艦シカゴ大破(翌日の攻撃で沈没)、駆逐艦ラパレットが雷撃された、のみです。

こういうことするから、戦争指導も作戦立案も、めちゃくちゃになっていくわけですよ・・・。ため息。

ただ、レンネル島沖海戦の結果、ギッフェン少将率いたアメリカ艦隊をガダルカナル島に近づけさせなかったので、ガダルカナル島の日本軍兵士達の救出の突破口を切り開くことになりました。
檜貝さん達雷撃隊が命を投げうって切り開いてくれた突破口です。合掌。

アメリカ軍にとってのレンネル島沖海戦


一方、アメリカ側では、この艦隊を率いた指揮官ギッフェン少将が、その責任を厳しく追及されたそうです・・・。

対戦方法や、艦隊の組み方に問題あり、とされたようです。
 

レンネル島沖海戦は、日本よりも、アメリカのYouTubeでたくさん解説動画がアップされています。

アメリカ側にとっては、忘れらない「負け」を喫した海戦でもあり、夜間雷撃というレアな海戦であると認識されているようです。

動画を見ていたら、「Joji Higai」と檜貝さんの名前も出ていました~。

ミリタリー英語がよくわからなかったけれども。トピドー、トピドーって何だ??と思ったらTorpedo 魚雷でした・・・。


奥宮正武氏は『ラバウル海軍航空隊』の中で
「平時には極めておとなしいが、敵前では鬼神もこれを避けるという言葉にふさわしいほど勇猛な人」の見本のような飛行機隊指揮官であったと、檜貝さんを讃えています。

檜貝さんの戦死はしばらく秘されていましたが、昭和19年5月29日になって全軍に告知され、二階級特進して海軍大佐になりました。


檜貝さんのことを知るためのお勧め本

秦郁彦著「レンネル島沖海戦」『太平洋戦争航空史話 上』中央文庫
この本が一番檜貝さんのレンネル島沖海戦の戦いぶりを詳細に書いてくれていると思います。
ただ、檜貝さんの人となりを知るという意味では、奥宮正武氏の『ラバウル海軍航空隊』(朝日ソノラマ)や小福田晧文著『指揮官空戦記 ある零戦隊長のリポート』(光人社)もお勧めです。

 

檜貝さんのことを描いた映画は、私の知る限りないと思いますが。
檜貝さんのような雷撃隊の活躍を描いた映画という意味で、1944年の東宝映画『雷撃隊出動』があります。

艦攻機や陸攻機などの雷撃機の戦闘が見れます。この映画、当時の日本海軍が全面協力して、太平洋戦争開戦3周年記念の戦意高揚映画として制作されたということですが。見るとびっくりします。全然、戦意高揚されない~。

飛行機もないし、搭乗員も足りないし、物資も足りないし、俺達どうするんだよ~っていう、もう敗戦色濃厚な内容です。

これ、本当に、海軍協力で作ったの??と驚きです。

海軍協力なので、本物の、空母瑞鶴、零戦、天山(艦攻機)、一式陸攻機が出てきて、瑞鶴から天山がリアルに飛び立つシーンが見れます。瑞鶴はレイテ沖海戦で沈没していますから、本物の瑞鶴が見れるという意味で貴重な映画です。

【注意】ここからネタバレありです。
 

最後は雷撃隊の攻撃シーンで終わるのですが、雷撃隊の指揮官三上さんが敵艦船に魚雷をぶちこんだのですが、敵からの対空砲火で一式陸攻は火まみれになります。すると三上さんは少しも慌てず、冷静に「じば~く」と言います。そして、主操縦員席につき、操縦桿を握り、敵艦船にぶち当たるべくまっすぐに前を見つめます。他の搭乗員達も、三上さんの言葉にうなづき、日の丸の鉢巻きを締め直して、それぞれの席につき、静かに「その時」を待ちます。
陸攻がもう生還不可能だとわかって敵に体当たりすると決意した時、機内ではこのような光景があったのでしょうか・・・。

檜垣さんも、最後まで、敵攻撃のために操縦桿を握り、前を見つめていたのでしょうか。
哀しく、切ないラストです。
私はアマゾンプライムビデオの東宝チャンネルで見ました。