零戦パイロットとしては一般的には『大空のサムライ』を書いた坂本三郎さんがよく知られていると思うのですが。

零戦の後継戦闘機、紫電改のパイロットとしては、やっぱり菅野直(かんの なおし)大尉が最も名が知られているのではないでしょうか。

バカヤロー、コノヤローで、ついに異世界にまで飛び込んじゃいましたからねえ(笑)。

戦闘機ファンではないという方でも、平野耕太先生の漫画『ドリフターズ』や、そのアニメ化作品で、菅野直を知っているという人もけっこういるのではないでしょうか。漫画の登場人物としてハチャメチャな感じで暴れまわる菅野直大尉ですが。

いや、このヒト、リアルでもこんな感じなんですわ~(笑)。

もはや、すべてが伝説。

 

私は宮野善治郎大尉や笹井醇一中尉のようなスマートな海軍士官パイロットが大好きですが。

菅野大尉は全然違うカラーなのですけれど、やんちゃで、暴れん坊将軍みたいで、めちゃくちゃ、かわいいったらない♡

見るからに、やんちゃ坊主って顔してる(≧∇≦)

(↑写真はWikiからお借りしてます)

 

菅野大尉の魅力はどこかといえば、まず、その勇猛さ。

その勇敢な(というか破天荒な)戦いぶりときたら、少年ジャンプの漫画の主人公そのものどすわ。

菅野さん、一応、海軍兵学校卒の海軍エリートですよ。でも、エリートっぽさが皆無。そして空戦大好き。指揮官パイロットなんですけど、「ワレ、菅野一番!」で一目散に敵機につっこんでいく。部下達はついていくのが大変だったみたいです・・・・

 

それに、アメリカの大型爆撃機をやっつけるために前上方背面垂直攻撃という、とんでもない戦術を生み出しました。この、飛行機ひっくり返してまっさかさまに敵機にぶつかる勢いで急降下する攻撃って、るろうに剣心の奥義、天翔龍閃(天翔ける龍のひらめき)に匹敵すると思いますわ。剣心は漫画ですけど。菅野さんはリアルに実戦でやってますからね。リアルな菅野さんで、十分ジャンプキャラになれるわ(笑)。

 

菅野さんの魅力その2は、その操縦技術、戦闘能力の素晴らしさですね。ただ破天荒な暴れん坊ではない(笑)。

菅野さんが実戦に出たのは、昭和19年(1944年)4月。もう日本の劣勢が明らかになってからなんです。零戦、紫電改合わせて、個人撃墜数65機、共同撃墜200機以上。たった1年3カ月の間に、そして戦力が明らかに不利になってから成し遂げた戦果です。真に撃墜王の名が相応しい菅野さんです。

 

菅野さんの魅力その3は、その困った性格(笑)。部下達大好き、お兄ちゃんのような先輩大好き、でも上司はほぼ嫌い(源田実大佐は除く)。

菅野さんを評して上司だった志賀淑雄少佐は「清水の次郎長」と言ってます。次郎長って・・・(苦笑)。

部下達に優しく、一緒につるんで大暴れ。海軍兵学校卒の士官って、あまり下士官達とつるむことはなかったようですが、菅野さんは階級なんて関係なしで、部下達と飲むわ、温泉いくわ、暴れるわ・・・(笑)。

菅野さん関連の本を読んでいると、上司の士官からの覚えは必ずしもめでたくはないのですが、部下だった下士官達からは「菅野隊長大好き」コメントがたくさん見つかります。

 

菅野さんの魅力その4は、そのアンビバレントさ。相反する気持ちが共存する、そのアヤウイ感じ。

やんちゃ坊主と思えば、お兄ちゃん大好き、お母さん大好きの甘えん坊であったり。空戦で暴れまわるのが大好きと思いきや、一方で石川啄木ファンの文学少年だったり。相反する人格が菅野直という一人の人間に共存する、そのアンビバレントさが、女子にはたまらない。菅野さん、少年ジャンプの漫画の主人公だけでなく、少女漫画の主人公でも人気出ると思いますね。

 

菅野さんの魅力その5は数々の伝説

菅野さんは様々なニックネームがあって。

デストロイヤー:訓練中、飛行機をばかすか壊したから。

イエローファイター:零戦や紫電改の胴体後部に二本の黄色い帯を描いて機を目立たせていたので敵機からイエローファイターと恐れられた。「なに、あいつ、クレイジーやねん」って、アメリカ人パイロットから思われていたに違いない・・・。

ブルドッグ:背が低くてずんぐりむっくりしていたらしい。

巷のウワサではプリンス菅野なんてのもある・・・。

もう存在自体がレジェンドな菅野さんです。

 

イエローファイターとアメリカ軍から恐れられていたという話を裏付けるエピソードがあって。

豊田穣氏がその著書『新・蒼空の器』の「春の嵐 菅野直の生涯」の中で書いているのですが、戦後、アメリカ戦略爆撃調査団の一人がカンノという日本の大尉を探しているということを人づてに豊田氏が聞いたそうです。その人は昭和19年7月、サイパンからパラオを空襲に行ったB24爆撃機の指揮官の一人だったそうで、いっぺんに2機のB24を墜としたヤップ島零戦の指揮官を知りたいと思い戦後調べてカンノという名前だと知り探していたそうです。残念ながら菅野さんは終戦を待たずに戦死しているので、そのアメリカ人は菅野さんには会えませんでしたが。

 

とにかく魅力たっぷりの菅野さん。そんな菅野さんの足取りとしては・・・

昭和16年(1941年)11月に海軍兵学校七十期卒。

飛行学生教程を経て昭和19年(1944年)4月から前線に。まずフィリピンで、菅野さんの実戦はスタートします。三四三空の分隊長に就任。(後の紫電改の三四三とは別)グアム、テニアン、ヤップの基地で戦闘。初戦のヤップ島でいきなりB24を2機撃墜。

この頃、菅野さんは零戦に乗っていましたが、前上方背面垂直攻撃というアンビリーバブルな攻撃をしかけてきて、アメリカ軍パイロットからイエローファイターとして、そのめちゃくちゃぶりを恐れられたわけです。

 

ちなみに、その時の菅野さんの上司、戦闘機隊の隊長が、尾崎伸也大尉です。

尾崎大尉は豊田譲氏の海兵同期。この尾崎大尉は兵学校を恩賜で卒業したスーパーエリート。頭脳明晰、戦闘もうまい尾崎大尉を菅野さんは尊敬していたそうです。

しかし、グアムで尾崎大尉はグラマンF6Fヘルキャットと激闘の末、戦死。

この尾崎大尉の乗っていた銃弾の穴だらけの零戦が戦後グアムで発見されて日本に運ばれるという涙物ストーリーがあるのだけど、その話は、尾崎大尉を語る時に書きたいと思います。

 

昭和19(1944年)年6月、マリアナ海戦に三四三空も参戦。菅野さん、がんばってF6Fヘルキャットを墜とします。その後、三四三空解隊。菅野さんの所属は二〇一空に。

昭和19年9月、セブ島空襲。マバラカットにいる時、菅野さんは横須賀に帰って零戦を受領してこいと上司に言われ、いやいや日本に一時帰国。フィリピンにアメリカ軍が攻めてくるとわかっているのに、なぜこのタイミングで日本に帰らないといかんのだと菅野さんは不満だったようですが、この菅野さんの一時帰国にはワケがあったかもしれません・・・。

昭和19年10月、菅野さんが日本にいる頃、菅野さんと海兵同期の関行男大尉が神風特別攻撃隊「敷島隊」の指揮官として特攻します。この事が、菅野さんに大きな影響を与えたようです。

 

(後編に続く)