ラバウルの貴公子とも呼ばれた笹井中尉
宮野善治郎大尉とともに、私を海軍航空隊沼落ちさせたもう一人のニクイ人。それは、笹井醇一(ささいじゅんいち)中尉です。
ラバウルで零戦に乗り、勇名を馳せた海軍士官パイロット。
別名、ラバウルのリヒトホーフェン。またはラバウルの貴公子。または軍鶏(シャモ)。
とにかくですね、すごいハンサムさんです。
Wikiの写真見て、私はクラクラしましたね。ミーハーですみません・・・。

(↑Wikiよりお借りしてます)
笹井中尉のことを書いた本には「紅顔の美青年」とよく書かれているので、周囲からもイケメンだと思われていたのでしょうね。
私の個人的定義によれば、日本海軍航空隊搭乗員イケメンTOP3は
笹井醇一中尉
志賀淑雄(しが よしお)少佐
檜貝嚢治(ひがい じょうじ)大佐
の3人だと思っております。
で、リヒトホーフェンって誰⁉
太平洋戦争当時なら有名だったのしょうが、令和の現在、リヒトホーフェンって言われても「誰!?」って思ってしまったのですが。
リヒトホーフェンはマンフレート・フォン・リヒトホーフェン。当時のドイツの陸軍軍人でパイロット。男爵。この方もイケメンです。
第一次世界大戦で最高撃墜機記録(80機撃墜+未公認3)を打ち立てたエース・パイロット。25歳で戦死してしまったのですが、当時のパイロットの憧れだったようです。そして、機体を真っ赤に塗っていたところから「レッド・バロン」(赤い男爵)と呼ばれていたそうです。
ウワサでは、ガンダムの赤いお方、シャア様のモデルになったそうな。
笹井中尉は家柄もよく海軍一家出身で気品があるエリート海軍士官パイロットだったので、「ラバウルのリヒトホーフェン」と呼ばれたのでしょうね。
笹井中尉の個人撃墜数は士官パイロットとしては突出していて、「ラバウルのリヒトホーフェン」と自他ともに認めるようになっていきます。
笹井中尉が父親に出した最後の手紙には「私の個人撃墜数も今や54機、今月中にリヒトホーフェンを追い抜きたいと思っています」と書いています。(豊田穣著『新・蒼空の器』)笹井中尉自身も、リヒトホーフェンを意識していたのですね。
ちなみに、〇〇のリヒトホーフェンと呼ばれたのは笹井中尉の他に、
東洋のリヒトホーフェン=篠原弘道(しのはら こうどう)少尉。日本陸軍のエースパイロット。ノモンハン航空戦で活躍。
若きリヒトホーフェン=大野竹好(おおの たけよし)中尉。笹井中尉の後、ラバウルで活躍した海軍士官パイロット。
がおられます。
キラキラの海軍エリート士官
笹井中尉は海軍兵学校六十七期。宮野大尉の二期下ですね。そして艦爆乗りから直木賞作家になった豊田穣氏(六十八期)の一期上で、豊田氏の海軍を書いた小説にはたびたび笹井中尉が登場します。
笹井中尉のおうちは海軍一家で、父親が海軍造船大佐、伯父さんが大西瀧治郎海軍中将(特攻を主導したといわれていて、終戦時に自決した。笹井中尉の母親の妹さんが大西中将と結婚している)。そして笹井中尉のお姉さんは田代壮一海軍少佐の奥さん。妹が田辺清治海軍大尉の奥さん。ということで、周りがみんな海軍兵学校卒の海軍士官ばかりなわけです。
このあたりは、だいぶ宮野大尉とは違いますね。
当時の海軍エリート中のエリートだったと思います。
でも。笹井中尉の海軍兵学校卒業時の成績は242名中152番と、決して成績優秀ではないのですよ。それでもラバウルで零戦に乗って大活躍するのですから、秀才でなくたって、学校の成績が悪くったって、立派にやっていけるのだと、励まされますなあ・・・。
ちなみに笹井中尉は六十八期の中で一番若くして分隊長(分隊の指揮官)になっています。
坂井三郎氏との強い絆
ここまでエリートだと、プライドが高くなって、下士官に対して威張り散らすのではないか・・・と思ったのですが、笹井中尉は有名な零戦パイロット、坂井三郎氏と出合い、その教えを素直に受け入れ、鍛えられていくことで、下士官達と強い絆を築いていくのでした。
『大空のサムライ』の著者として有名な坂井三郎氏は腕利きの零戦パイロットだったと思いますけれど、下士官パイロットである彼は士官を、そして当時の日本海軍の下士官と士官との差別を、かなり強烈にこきおろしています・・・。
その彼が、笹井中尉とは友情とも師弟愛とも呼べるような強い絆を作り、笹井中尉を支え続けたことからして、笹井中尉に、人を惹き付ける人間的魅力があったのではないかと思います。そして笹井中尉は人の忠告を聞き入れる素直さがあったのではないでしょうか。母性本能というか父性本能をくすぐる人だったのではないかなあと思っております。
現代の職場でも、この上司を助けてあげたい、持ち上げてあげたいと思わせる人がいる場合があると思うのですが、そんな感じだったのではないでしょうかね。
「坂井三郎飛曹長の上官であった笹井中尉が、戦闘機パイロットとしての必要な技量と闘志を十分持ち合わせていたことはたしかだが、敵機撃墜五十機以上もの、実戦派ファイターにまで成長したのは、坂井飛曹長の献身的な指導と掩護が影の力となっていたことはいうまでもない」と、『サムライ零戦記者』を著した吉田一氏(太平洋戦争中報道班員としてラバウルに駐在)は書いています。
ガダルカナル方面の攻撃が始まって間もない頃、坂井さんは空戦で重傷を負い、やっとの思いでラバウルまで帰還するのですが(ここらへんのことは坂井三郎著『大空のサムライ』に詳しい)、先にラバウルに帰還していて坂井機が帰ってこないことを心配していた笹井中尉が、ラバウルに帰ってきた坂井さんを出迎える様子は、今でもYoutubeの動画で見れます。
『サムライ零戦記者』を著した吉田一氏はその時の様子を「笹井中尉がまっさきに指揮所を飛び出し、滑走路に向かって一散に走った」「坂井の上官である笹井中尉にとっては、片腕をもぎとられたようなもので、その悲痛な、もの狂わしげな姿は、見るのも不憫でならなかった」と書いています。
笹井中尉が坂井さんを本当に信頼し、頼りにしていたことがよくわかります。
坂井さんは重傷のためラバウルを去り、日本に帰国することになります。そして、その時が笹井中尉と坂井さんとの永遠の別れとなりました。
笹井中尉を支えた凄腕零戦パイロット達
笹井中尉は台湾の台南空に着任し、そこで既にベテラン下士官搭乗員だった坂井三郎と出合い、坂井氏から空戦のてほどきを受けます。
そして昭和16年(1941年)12月、太平洋戦争勃発で、台湾からフィリピン、ジャワなどの蘭印方面攻撃に参加し、その後昭和17年(1942年)4月ラバウルへ。
初めは、ガダルカナルには誰も注目しておらず、オーストラリアに近いニューギニアのポートモレスビーの連合軍飛行場を攻撃するMO作戦が主な任務になります。
ポートモレスビー基地はアメリカ、オーストラリアの航空隊が守っていたのですが、敵機としてはP39エアコブラ、カーチスP40ウォーホーク、スピットファイアなどと戦っていたようです。
笹井中尉が優れた零戦搭乗員だったことはもちろんですが、笹井中尉の成績は、当時無敵とも思われる列機に支えられていたでしょう。坂井三郎氏を始め、西沢広義上飛曹(後に「ラバウルの魔王」とまで呼ばれるようになる凄腕零戦パイロット)、太田敏夫二飛曹(個人撃墜数達成スピードは一番だったと言われている)という、一騎当千のパイロット達が、笹井中尉の隊の二番機、三番機、四番機として、笹井中尉を掩護しているわけです。この頃の笹井中尉隊の強さは際立っていたことでしょう。
で、なぜ、ポートモレスビー??
現代を生きる私から見たら、ニューギニア島のポートモレスビーなんて攻めてどうするわけ?と思ってしまいますが。
太平洋戦争当時はポートモレスビーを叩く必要があったそうです。ポートモレスビーに連合軍の大きな飛行場があったので。
MO作戦と呼ばれていて、ポートモレスビー飛行場を叩いて占領し、ラバウル方面への攻撃をできなくして、オーストラリアとアメリカとの連携を断ちオーストラリアを孤立させる意図があったようです。
が、MO作戦ははっきりいって失敗してます。こんなに何回も攻撃しているのに、日本軍は一度としてポートモレスビーを占領できていませんから。
昭和17年(1942年)5月7日、MO作戦の一環として、ポートモレスビー沖で珊瑚海海戦が勃発します。笹井中尉隊も参加していますが、日本軍かアメリカ軍か、どっちが勝ったかよくわからないような結果になりました。しかし、ポートモレスビー攻略という作戦目的を果たせていないという意味では、日本の負けといえるでしょう。
それに、珊瑚海海戦から日本海軍は何も学ばなかった・・・という意味では、次のミッドウェー海戦(珊瑚海海戦の約1カ月後の昭和17年6月5日から起こった)の敗戦の兆しは既にあったと思いますねえ。珊瑚海海戦では、優秀な戦闘機や艦爆機、艦攻機の搭乗員達を失っています。それに軽空母の祥鳳が撃沈されていて、空母翔鶴が爆撃を受けて大破。空母瑞鶴は無事だったけれど、多くの戦闘機搭乗員や艦載機を失ってその補充が間に合わず、ミッドウェーに参加できなかったという・・・。本来6空母で臨むはずだったミッドウェー海戦が、4空母になってしまった・・・。それに珊瑚海海戦では索敵、偵察の重要性が際立ったのですが、その教訓がミッドウェー海戦に活かされず・・・。
まあ、ミッドウェー海戦の頃は、日本海軍の暗号はアメリカ側に解読されてバレバレだったというのが一番大きい敗因だったとは思いますので、空母が4から6になっても、結果はあまり変わらなかったかもしれないけど・・・。
失敗から学ばない・・・というのは、日本の今の企業組織にもしばしばみられますよねえ・・・。
おっと、横道に逸れそうだから、笹井中尉に戻りまして。
でも、ポートモレスビー方面攻撃をやっているうちは、笹井中尉隊にとってまだマシだったのです、ガダルカナル方面攻撃に比べれば全然。
昭和17年(1942年)8月7日未明、ソロモン海域におけるアメリカ軍の大反攻が始まり、ラバウルの搭乗員達は果てしない消耗戦に巻き込まれていくのです。
(後編に続く)
