かなだい の四大陸 FDプログラムは、
世界中と国内の鑑賞者たちを魅了した。

FODとISU 再生回数は
短時間短期間で一気に飛躍的な数字となり増加を続けている。


かなだい のおふたりはこのコロナ禍オミクロン禍で 12月からコーチ不在の状況が続き、1月に再合流されたと考えられる。
このコーチ不在期間が進化中のかなだいおふたりにもたらしたものの影響は少なくない。と思われる。


おふたり独自の、コーチの方針に寄らない、
なにか生まれているものが
四大陸演技では見られたのかもしれない…  







今回は
美しいバレエ世界を体現し我々を幸せへと誘う
ズエワ氏の『ラ・バヤデール』
髙橋大輔氏のレジェンド拡散絶賛と共に
認知度が高まったこのプログラムの感動を再度味わうために、


観客観賞者の皆様の気になる御感想から

かなだい の片側の原点髙橋大輔氏の、

『 krOne 』と

かなだい今季フリーダンス

『 La Bayadère 』について

考えてみたいと思う。



       krOne




両方に共通するのは、プログラムの印象が

一場面に限られていないこと。


ギルティクラウンふぁんの

「どの場面のどの状況じゃないんです! 全部、ギルティクラウン全編見終わったときの感想と、この演技の感想が一緒なんです!」


そして

当ブログ記事にも、バレエ愛好+かなだいふぁんでいらっしゃる方が

「・・・・スケートを見ているのに(バヤデルカの)ドラマが脳裏に浮かぶ・・・・」とのコメントを寄せてくださって感謝している。


ソロルとニキヤ(ラ・バヤデールの主要登場人物)がプログラムの中で生きているようだ、と。




この、

全編・全幕を通しての感想と、

髙橋大輔氏の表現について、

不思議に思っていることがある。




私事で大変恐縮ではあるが、

過去の記憶から、感想というか印象と感覚のことを、 少し思い出してみる…  





子供時代(10歳前後)、高層ビル火災が筋書きの映画を見た。

その夜から三夜続きで夜中寝ている間に叫んだり大声を出したりしたらしく (子供にはたまにあることだが)、 夢は見ていてしかも何だったかの覚えがないがかなりはっきりしたもの。

そのあとはエレベーターが地下まで落下するシーンのある作品は避けてミュージカル映画にした(家族は二手に別れて見た)覚えがある。

ただ大画面で見たもの聞いたものがダイレクトに感覚にキて、知覚が休んでいる間に中で暴れた、そういうことなのだろうか。




そして成人後に、

「これは恐いですよホントに怖いですよ!」

とご推薦のあった推理小説(『検屍官』シリーズパトリシア・コーンウェル著)を読み始めたとき。

夜読み進めて最後に近くなったときに戸締まりが気になり始めた。けれど動けない。ちゃんと閉まっているはずだが確認したい。それを見るのが恐ろしい。何かいるかも。何かあるかも。身動ぎもせずに読み終わり、布団を被って寝てしまった。

何をしても安心できない、何もすることのできないままで明日のために寝たのである。

夢は覚えていなくて眠りの感じも寝起きも全く問題はなかった。

窓とドアを何度も何度も確かめに行くことが暫く続いたが、夢で困るようなことは無かった。(そしてシリーズの続きを購入した)

これは頭で分かって感じた怖さなのだろう…  

とそのときに思ったのだ。

(もちろんお出掛け前の日に嬉しさで興奮して眠れないということはあるが…  心配事で眠れないというのもある。)

(知覚だけでは身体を完全にコントロールできないのはわかる。身体を使うには身体感覚と筋肉等の訓練が必要か… )




この視覚聴覚など感覚で捉える印象と、

頭で感じる印象は自分めにとって別物であるらしい。


そして、

感覚と知覚は結びつくには何か条件があるようだ。



つい先頃、「フランスで新発見!幕末ニッポンの秘宝-将軍の贈り物-」の番組で、

源氏蒔絵箪笥、

その扉表面に描かれた蒔絵を、

「須磨」  「桐壺」 と順にアップで写し出されたとき、吸い寄せられる気持ちを味わった。



この蒔絵が目に入ったときに頭の中、心の中にあるのは、

学校時代に読める好きな巻から、何度も何度も何年もかけて少しずつ読んでいったその拡げた本の頁、

頭の中に鳴って言葉が浮かび 流れ続いていく物語。

記憶が甦る。




これは不思議な感覚だった。

画で源氏物語を想起するときは、

源氏物語絵巻、横に長く長く人物が並んで、『あさきゆめみし(comic大和和紀著)』ばりに動きだし、あまつさえ宝塚の舞台のように舞ったり歌ったりもする(自分めは)。ストーリーはわかっていてその場面をうまく表現されていると感じる部分に釘付けになる…



物語として思い起こすのは本で読むとき、登場人物についての描写を評論とか論説とかで思い出すときである。

文字物語原典に持っている印象は、


漫画絵舞台姿と照らし合わせることができているが元々別物だったのだ…




『留守模様』として人物が描かれていないその蒔絵。人物が居ない、それも焦点なのか。

1枚ごとに蒔絵は該当帖ごとの源氏物語そのものを想起させる。ああこういう世界こういう話こういう科白こういう思いの巻だった、と感じて見ている…

その巻全体の印象がそっくりその蒔絵なのだと思われる。



これは、もたらされる印象が 元となる原作の全体像をそっくり回帰させ共有させるということなのだろうか。




これが、髙橋大輔氏の表現にみられるというのは、とんでもなく凄いことなのでは。



どうしてどうすればそういうことができるのか、

申し訳ないが不明である。


ただ、全体像を表現するには

役を通して生きることが必要なのではないか、という気はする。

その場面それぞれを表現していくというよりは

主人公として最初から最後までを生きる。

違う設定の場面でもこの主人公ならこうするだろう、というような?

表情が動きが変わっていく。

演じるという形で主題が息づいている。



というのが感想になる・・・・


krOneの頃から既にその表現は生まれていたということなのだろうか。





四大陸選手権のフリーダンスは、無心の境地と感じられる。すべてのやることを終えて羽ばたいているような。

そしておふたりの現在の全てが出ているのか。



あっという間に駆け抜けるように、

何かこうなっているとかこういう風に見えるということを超えて、

言葉もなく 美しい。