「バジュランギおじさんと小さな迷子」インド映画観て来ました。

http://bajrangi.jp/

オハナはインド映画が好きなので、この映画も大変楽しみました
歌って、踊って、笑って、泣いてのインド映画ならではのノリは、オハナとお豆くんの性質にはピタリとハマります。

この映画は、とてつもなく正直でハヌマーン神を心から信じている、インド人のバジュランギおじさんが、インドで迷子になってしまった全く言葉を話すことが出来ない小さな女の子を、パキスタンにいる家族の元へ連れて帰るお話しなのです。

この映画を観ていたら、オハナとお豆くんの恩人のサイードおじいさんを思い出してしまったので、今日はサイードおじいさんとののお話しを少ししようかなぁと。。

オハナは11年前に南インド式のホロスコープに出会った事がキッカケで、南インドの小さな町に住むサイードおじいさんと一緒に南インドの様々な寺院を旅していました。寺院というからにはもちろんヒンドゥー教です。と言うと、サイードおじいさんは当然ヒンドゥー教だと思いますよね?!実は違うのです。サイードおじいさんはイスラム教の方でした。イスラム教徒でしたが、サイードおじいさんの人生の不思議な巡り合わせというか運命というか、サイードおじいさんはある事がきっかけで、南インドホロスコープの通訳の仕事をすることになります。今思うと、本当にすごい事だなぁと改めてズシリと感じます。

この事はオハナのその後の考え方にも大きな意味をもたらします。
サイードおじいさんは、自分自身が様々な垣根を超えて、必要とあらばヒンドゥー寺院、必要ならばイスラムのモスク、病院が必要ならば、シッダドクターから最先端の西洋の病院と色々な所へオハナを連れて行ってくれました。イスラムの結婚式もヒンドゥーの結婚式も両方参加させていただきました。どちらの考えも押し付ける事も判断することもなく、ただそれぞれの考え方や文化を伝え教えてくれました。とは言え、寺院の中で左手でお金を渡したり、物を受け取った時には、躾(マナー)としてそれはそれは叱られもしましたがイスラムの結婚式で大声で笑って、めちゃくちゃ叱られた事もあります

良い悪いはつけようとも思いませんし、これはあくまでもオハナ自身のスタイルに過ぎませんが、サイードおじさんと共に過ごした年月の経験から、全ての神は同じと言う観念を持ちどの宗教にもオハナは敬意を持っています。日本にいる時は日本の神様に会いにも行きます。
神社などの良い空間の場所に出来るだけ、たくさん行く事を勧めてくれたのは、私のホロスコープを出してくれたおじいさんグルです。聖者と呼ばれていた97歳にもなるこのおじさんグルが、これまた垣根なく大きな智慧と視野からサイードおじいさんと共にオハナを導いてくれました。

あの頃は今以上に無知過ぎて、まだちっともよく分かっていなかったけれども、広く大きな視野を持つ人達の深い愛情で自分が導いてもらったのかが分かります。神を信じる心、愛する心、慈悲の心、当たり前のように与えていただきましたが、当たり前の事は何1つとしてありませんでした。サイードおじいさんは、あまりにも人間らしくよく笑い、良く泣き、びっくりするほど怒り出しました。冗談も良く言ってました。たまに嘘ついては、自分にそれが戻って困ったり怒ってました。その姿はインド映画のようにある意味インド人らしいとも言えるのかもしれませんが、私はそのサイードおじいさんの姿が人間らしくてとても好きでした。あまりにも人間くさい姿だから信じられました。サイードおじいさんが笑うと、楽しい気持ちになり、サイードおじいさんが感動して泣くと、それを見たオハナも涙が出ました。サイードおじいさんが怒りだすとそのしつこさに、このクソジジイ!!と思いました。だからこそ、サイードおじいさんが一緒にオハナの事を喜んでくれている時には、本当に喜んでくれている事が本物だと伝わってきました。

悲しんでいる時には、その悲しさ故に言葉もかけられず、本当に悲しい気持ちになりました。

映画でバジュランギおじさんを見ていたら、時の経過と共に薄れてしまうオハナの記憶から鮮やかにサイードおじいさんと、おじいさんグルが帰ってきました。

正直さに愛が加わると、悪気は全く無くても時に人を傷付けてしまう事もあると思います。愛ゆえに嘘をつく時、嘘も方便と言うのだろうと思います。

愛の所在地は、自分の中の最初のシンプルなところにあるのかもしれませんね