いつも行く奈良県物産店に行くと
珍しいこんな筍が
こちらの春日神社の氏子さんたちが
春日神社を守る為に裏山で取った
タケノコのようです。


今月の丹生の直会は
新じゃがだったので組み合わせて
一品作ることにしました。


どうせならと、塩、水、お酒、
全てご神饌で作ろうと思いました。

インドを旅した時にインドの友人が
寺院を巡った最後に神様から頂く食事を口にすることをとても大事にしていました。
インドの神様からのお食事は
甘さやスパイスなど口に合わないお味ももちろんあるのですが、友人はいつも

「必ず食べなさい。そこにはこの寺院の神様の力が入っているんだよ。
神様からのごはんだよ。」と、
友人はいつも真剣に言っていました。

気が付くと日本でも神社を巡った時にはお塩やお酒、水がある時には必ず買って家で使うようになっています。
そこの場所で口に出来る食べ物はなるべくその場で食べるようにしています

友人との会話の記憶で私が感じた事はそれは儀式的な行為というよりは、
私達自身が自ら神を受け入れる最初の行為に感じました。
神に参りその場所を出る際、まず最初に神様から与えられたそのものを受け取る行為だと。たとえ神様に願っても、心を開き受け入れる(受け取る)ことが出来なければ、
結局はこちらの準備がまだ出来ていないように感じたのです。

時々想像するのですが、
たとえば自分が神になったつもりで周りを見渡してみます。
自分は何かを与えたい、助けたいと、やる気いっぱいの神様になります。
だけど、お参りに来る人は沢山のお願いはしては行くけれど、神様の存在の自分を信じていないので与えたくてもそれを渡すことが出来ません。つまり相手の中に存在出来ていません。

半信半疑の人になら、時々は接触出来ますが、あっと言う間にまた存在が消えてしまいます。
そこに、本当に信じてくれる人が願いを頼みに来たとしたら、、、それはもう喜んで一生懸命に願いを叶えてあげなくなります。笑笑
何故って、信じてくれる人がいてこそまず存在が出来てやっと力も出せます。

と言うように、1人で神様になってこんなことを考えているうちに、インドでも日本でも神様からの食べ物を口にする時は、
神を心から自分に迎え入れる心開きの行為となりました。

これもまた、食を通して神と繋がるひとつの方法かもしれませんね
食べることから、自然や宇宙を感じ、
神へと繋がります。

目の前の食べ物を愛しく思うほどに、
神様も私達を愛しく思ってくれている気持ちになります

神様も心からありがとうと言われたら、こちらこそありがとうと言いたいに違いない

私、単純ですか?
これを読んでくれる方がクスリと笑ってくれたらどんな理由であれ嬉しいなぁ