人類は進歩しない。
先日、中国文芸史の時間に先生が「人類は進歩しているのか?」と俺に問いかけてきた。
その時の状況は、孔子だったか孟子だったか老子だったかについての講義中で、その講義で取り上げている書物の中で賢人が戦禍を憂いているのを読み、その事についてその場で唯一史学科の俺にとりあえず話を振ったという感じだった。
俺はその場では「まあ、行ったり来たりじゃないですか?」と曖昧に答えておいたのだが、本音を言えば「人類が進歩をする」などという事は絶対に無いと思っている。
聖人達が生きた約数千年の昔と今を比べても、人類は何一つ進んではいないのである。
「文字も知らず、自ら火を熾すのにも一苦労、毎日糊口を凌ぐのも精一杯の時代から、新しい生命をも人の手で作り出せてしまう現在の大科学文明時代へと、人類は実際に大きく進歩しているではないか」 という反論が聴こえてきそうだが、俺はそれを「人類の進歩」とは呼ばない。
それはあくまで、「科学技術」の進歩であり、「人類の進歩」とは言えないと思うからだ。 なぜなら、今我々を物質的に豊かで便利な世界に生かさせているものは、先人達が積み重ねてきた様々な技術の集大成たる現代社会であり、決して数百万年間連綿と受け継がれてきた、現代まで連なる、その血の結果ではないのだ。
科学技術は紙や電子頭脳のような記憶媒体に蓄積させ、次世代に伝える事が出来るが、現代へと連なる血の連続の内で培った様々な体験は、それを何かに蓄積させ、最初から新生児に内蔵させて産まれ出だす事は絶対に出来ないのだから。
要するに、人類がどれだけ永い時を刻もうと、ヒトそのものは毎回百年も満たぬ内にリセットされ、結局はまっさらな空白に戻り、また最初からやり直さざるを得ないのである。
「では、何のために歴史があるのか。そのような体験の蓄積を、後世に伝えるためではないのか」
その通りである。しかしココでかの鉄血宰相ビスマルクの言葉を思い出して頂きたい。
『賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ』
人間の内で、真に歴史に学びうる賢者は、極限られた一部のみである。
もちろん俺を含めた、大部分の愚か者は、結局自ら痛い目を見なければ真に何かを学ぶ事は出来ない。
人類の苦悩と努力、その末に産まれた英知と教訓の結晶たる歴史は、有効活用される事はほとんど無くただ紙の上に眠り続ける。
そして結局、人類は過去に既に何度となく経験してきた過ちを、これからも際限なく繰り返し続けるのである。
何故なら、社会の行く末を方向づける意思決定を行う者は、歴史に学べる聡明な賢者ではなく、結局は経験に学ぶしかない愚者達である場合ばかりだからだ。
もしも一つだけ、人類が確実に進歩する時が訪れるとしたら、それはその平均寿命が現在の倍となり、社会を運営する主力の構成員達の平均年齢も、現在の倍になった時であろう。
そうなれば彼らが例え愚か者であろうとも、現在の構成員達の倍の経験を積んでいる以上、同じく倍とは言えないまでも、少なくとも少しはマシな意思決定を下せるのではなかろうかと考えられるからである。
ただそれには当然の事ながら、彼らの思考の柔軟性や身体能力も年相応に衰えずに現役の標準を保ち続けるという条件も付いた上での事である。
古代の平均寿命からすれば現在はその倍を超える数字になっているのだから、その理論で言っても既に人類の進歩は起こっているではないか、という反論は、当然成り立たない。
改めて説明する必要は無いだろうが、古き世の平均寿命を大きく下げる要因はその圧倒的な新生児、乳児死亡率の高さであり、当時であれ社会の主力を構成する層の平均年齢は、やはり現代とさほど変わらないものであったのだから。
今の倍の経験値を持ち、それでいて柔軟な思考力に健康な精神と肉体を併せ持った者達が社会の中枢を占めるのは、もしあるとしてもまだまだ遠い未来の話であろう。
その未来が現実となる日が来るまで、人類の進歩は永遠の錯覚に過ぎない。
その時の状況は、孔子だったか孟子だったか老子だったかについての講義中で、その講義で取り上げている書物の中で賢人が戦禍を憂いているのを読み、その事についてその場で唯一史学科の俺にとりあえず話を振ったという感じだった。
俺はその場では「まあ、行ったり来たりじゃないですか?」と曖昧に答えておいたのだが、本音を言えば「人類が進歩をする」などという事は絶対に無いと思っている。
聖人達が生きた約数千年の昔と今を比べても、人類は何一つ進んではいないのである。
「文字も知らず、自ら火を熾すのにも一苦労、毎日糊口を凌ぐのも精一杯の時代から、新しい生命をも人の手で作り出せてしまう現在の大科学文明時代へと、人類は実際に大きく進歩しているではないか」 という反論が聴こえてきそうだが、俺はそれを「人類の進歩」とは呼ばない。
それはあくまで、「科学技術」の進歩であり、「人類の進歩」とは言えないと思うからだ。 なぜなら、今我々を物質的に豊かで便利な世界に生かさせているものは、先人達が積み重ねてきた様々な技術の集大成たる現代社会であり、決して数百万年間連綿と受け継がれてきた、現代まで連なる、その血の結果ではないのだ。
科学技術は紙や電子頭脳のような記憶媒体に蓄積させ、次世代に伝える事が出来るが、現代へと連なる血の連続の内で培った様々な体験は、それを何かに蓄積させ、最初から新生児に内蔵させて産まれ出だす事は絶対に出来ないのだから。
要するに、人類がどれだけ永い時を刻もうと、ヒトそのものは毎回百年も満たぬ内にリセットされ、結局はまっさらな空白に戻り、また最初からやり直さざるを得ないのである。
「では、何のために歴史があるのか。そのような体験の蓄積を、後世に伝えるためではないのか」
その通りである。しかしココでかの鉄血宰相ビスマルクの言葉を思い出して頂きたい。
『賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ』
人間の内で、真に歴史に学びうる賢者は、極限られた一部のみである。
もちろん俺を含めた、大部分の愚か者は、結局自ら痛い目を見なければ真に何かを学ぶ事は出来ない。
人類の苦悩と努力、その末に産まれた英知と教訓の結晶たる歴史は、有効活用される事はほとんど無くただ紙の上に眠り続ける。
そして結局、人類は過去に既に何度となく経験してきた過ちを、これからも際限なく繰り返し続けるのである。
何故なら、社会の行く末を方向づける意思決定を行う者は、歴史に学べる聡明な賢者ではなく、結局は経験に学ぶしかない愚者達である場合ばかりだからだ。
もしも一つだけ、人類が確実に進歩する時が訪れるとしたら、それはその平均寿命が現在の倍となり、社会を運営する主力の構成員達の平均年齢も、現在の倍になった時であろう。
そうなれば彼らが例え愚か者であろうとも、現在の構成員達の倍の経験を積んでいる以上、同じく倍とは言えないまでも、少なくとも少しはマシな意思決定を下せるのではなかろうかと考えられるからである。
ただそれには当然の事ながら、彼らの思考の柔軟性や身体能力も年相応に衰えずに現役の標準を保ち続けるという条件も付いた上での事である。
古代の平均寿命からすれば現在はその倍を超える数字になっているのだから、その理論で言っても既に人類の進歩は起こっているではないか、という反論は、当然成り立たない。
改めて説明する必要は無いだろうが、古き世の平均寿命を大きく下げる要因はその圧倒的な新生児、乳児死亡率の高さであり、当時であれ社会の主力を構成する層の平均年齢は、やはり現代とさほど変わらないものであったのだから。
今の倍の経験値を持ち、それでいて柔軟な思考力に健康な精神と肉体を併せ持った者達が社会の中枢を占めるのは、もしあるとしてもまだまだ遠い未来の話であろう。
その未来が現実となる日が来るまで、人類の進歩は永遠の錯覚に過ぎない。