以前のクリスマス祝福記事
に引き続き、愛を告白することをイベントとして認められるバレンタインを祝して。
>『ひとは誰でも恋をしているときには「はだかの王様」になっているのであり、どんな目のいい鑑定家でも肉眼で「恋」を見ることも出来ないのだから恋は王様の衣装のようなものである。』
>『事実と真実はいつも同じではないということを忘れると見えないものはすべて存在しないという実証と経験の番人になってしまうだろう。』
寺山修司「人間を考えた人間の歴史」
チョコ業界にとって1年で1番のかきいれどきでもあります。昨今の本命に対しては、手作りチョコから高価な輸入チョコを手渡すという方向への変化は甘いもの好きの私も恩恵に預かっているので喜ばしいことです。しかし、恋愛の告白の機会からチョコを渡す日になり、さらにホワイトデーとしてお返し日が設定される一連の流れはどうなのでしょう?
「心がこもっていれば何でもいい」といいつつ、10円チョコとマシュマロの交換は愛があるとされる間柄ではまず成立しない。愛していればこそ、高価な貴重な手間暇かけた贈り物をしなければいけないとなる。ここでは倒錯が起きている。愛の証がそのまま金額(時間=金)に換算されて相手には把握されることになっているのである。本命チョコは平均3000円ということはその人の愛の証=3000円ということ。アルバム1枚分、バイトでいうと3時間分の労働ということ。これは重いの?軽いの?
それは資本主義社会においてあらゆるものが金により交換価値が把握されると同時に金に換算されてしまうのは致し方ないことといえばそれまでのことです。
否、「手作りチョコpriceless お金で買えない価値がある。買えるものはMasterCardで」
とでも主張してみましょうか?
手作りといってもカカオは自家栽培ではないでしょうし、調理器具はどこかで購入してきている…そもそも手作りチョコを作ることができる時間はどこから確保しているかという問題も孕みますが、ただ手作りチョコにはもっと重大な瑕疵があります。
>『見知らぬ者たちへの信頼には根拠が無い。信頼してみたところがたまたま破られなかったが故にまた信頼するという循環があるだけ。信頼は根拠の上に立つものではなく、単なる事実性をベースとする定常性に過ぎない。』
宮台真司「不安の正体」
チョコということは食糧なわけで口に入れるわけです。ある人が自分のことを想って作ったといえば聞こえはいいですが、それは好意100%だと信じられますか?そこには一片の悪意も介在しようがないと断言できますか?製作過程を監視していない以上、信頼以外には担保するものがありません。もちろんあからさまに毒物を混入することは無いでしょう。ただそこまでいかなくても唾や少々痛んだ原材料(かの雪印が再利用したように)や不衛生な環境ではないと信じる根拠は何?
図らずも雪印を例に出したように、それは手作りに限らず、既製品購入においても同じことはいえます。ただどちらの方がより信頼を置けるかということです。作り手と受け手が互いに顔を見れるということが逆に不信、悪意の混入を招きかねないということは覚えておいたほうがいいと思います。