先日、自分の過去ブログを読み返してみました。
書いた時は間違いなく真剣でしたが、熱量100%で何が言いたいの?と問いかけたくなる仕上がりでした。
そこで今回は、チャッピーの力を借りながら書いてみることにしました。
<判決の一部抜粋>
被告は元首相のことを旧統一教会に影響力がある人物と考えていた。
21年ごろ、旧統一教会関連団体の行事に元首相がメッセージを送った動画を見て、
社会に問題がない団体として認知されてしまうのは「困る」という感情を抱いた。
自身の都合を優先させて襲撃を決意したもので、元首相には被害を正当化できるような落ち度は何ら見当たらない。
(山上被告が犯行に至った)動機や経緯について大きく酌むべき余地は見当たらない。
↓
政治において、組織化された「固まった票」は大きな意味を持つ。単なる選挙戦略の一環なのか、それともより深い思想的結びつきなのか。仮に票の獲得を目的とした関係であったなら、それは政治的合理性として説明される一方で、「従順な支持層を利用しているのではないか」という批判も生まれる。
政治が権力維持を優先するあまり、人間を手段として扱っているように見える瞬間があるとすれば、それは民主主義にとって健全とは言い難い。
戦争の歴史を振り返れば、「愛国心」や「敵対意識」といった価値観が強く植え付けられ、国民や兵士の行動を方向づけてきた例は少なくない。国家が特定の価値観を広め、社会の秩序形成に影響を与えることは、歴史上繰り返されてきた。
そうした背景を考えると、「このまま社会に問題がない団体として広く認知されてしまうのは困る」と感じたこと自体は、社会構造への危機感として理解できる部分もあるのではないか、という見方も成り立つ。
特定秘密保護法や共謀罪の成立以降、「国家が何をどこまで把握しているのか」「私たちの情報はどのように扱われているのか」わからない以上、何をもってして「落ち度は何ら見当たらない」との判断にいたったのかが疑問である。
共謀罪は「実行前」の段階で摘発できますが、犯行の計画を知っていて山上被告を利用したという見方もできてしまいます。
「人権なんて言っていられない」といった発言が過去に報じられたこともあり、国家権力が安全保障を理由に個人の権利よりも優先される場面があるのではないかという懸念は、一定数の国民が抱いている不安でもある。
国家の意思決定が十分に説明されないと感じられるとき、人々の不信は強まる。見えないものに対する不安は、ときに強い感情を生む。
判決では「被害を正当化できるような落ち度は何ら見当たらない」とされた。国葬された元首相が亡くなって以降、監視されている私自身の生活の中で、激しい待ち伏せや尾行を強く意識する場面が多くなりました。私はその人物たちと何の接点も持っていない。トラブルもなければ、私が不利益を与えた覚えもない。被害を正当化されるような落ち度は、自分では見当たらない。
しかし、政治の結果として生まれた社会の空気や制度、政策の影響まで完全に切り離して考えることはできるのだろうか。
元首相の政権下で形成された社会環境のなかで生きてきた国民の一人として、被告もまたその影響を受けていた存在である。社会の在り方が個人の思考や感情に与える影響はゼロではない。「落ち度はない」という表現が、政治の影響力そのものまで完全に無関係だと断じているように響くとすれば、そこに違和感を覚えるのも事実だろう。
<判決の一部抜粋>
その生い立ちは不遇な側面が大きい。幼少期から青年期にかけての各種体験が、
人格形成や思考傾向に一定の影響を与え、犯行の背景や遠因となったこと自体は否定できない。
しかし、現実に殺人行為で他者の生命を奪うと決意し、
手製銃などの製造を実行する意思決定に至ったことには大きな飛躍があり、
↓
私は、この「飛躍」という言葉に違和感を覚える。
生い立ちが影響したことは認めながら、なぜそこから先は急に断絶したものとして扱われるのか。その判断過程こそ、十分に説明されていないように感じる。
例えば通り魔事件では「誰でもよかった」と語られることがある。しかし本当に無差別なのだろうか。無意識のうちに対象を選んでいる可能性はないのか。人の行動は、外から見えるよりも複雑な思考の積み重ねで成り立っているはずだ。
犯行に至るまでの供述を読む限り、「このタイミングでなければならない」「状況を変えるにはこの方法しかない」という強い焦りがあったようにも見える。計画性はあったとしても、その瞬間の精神状態が極度に追い込まれ、判断力が狭まっていた可能性は考えられないだろうか。
目的が「殺人そのもの」ではなく、「旧統一教会が問題のない団体として認識されることを阻止したい」という思考にあったとすれば、その手段の選択において重大な判断の歪みが生じたとも言える。そこを単に「大きな飛躍」と片づけてしまうことに、私は疑問を抱く。人が極限まで追い込まれたときにどのような心理状態に陥るのかという視点は、もっと丁寧に検討されるべきではないかと思う。ましてや、一般市民が時の権力者を、いったいどうやって止めることができるのだろうか。
これらを踏まえた上で、社会や組織の在り方が人を長期的に追い込み、逃げ場を失わせた結果、仮に私が自殺をしたとすれば、その影響は極めて重い。自民党やその仲間たちがつくった社会で、監視されている私に行っている事は、直接的な刑罰ではなくとも、人生を奪うほどの重圧を与えるならば、それはどのように評価されるべきなのか。無期懲役と同等のこととなるでしょうか。
そのような結果を想定してか、隠蔽する目的のため自民党の仲間である警察に相談した際は「病院へ行きなさい。」と・・・。まるで皆で計画的に共謀し、既成事実を積み重ねることで現実を形づくっているかのような社会の姿がここにあります。
<判決の一部抜粋>
40代の自立した生活を送る社会人で、人を殺してはならないことを十分に理解していた
↓
違和感を感じたのでチャッピーに聞いてみました。
【チャッピーの回答】
つまり、「人間は理性的な存在だ」と断定しているわけではなく、
「刑法上、責任を問える状態だった」と述べているのです。
・理解していることと、止められることは同じか?
・追い詰められた心理状態はどこまで考慮されるべきか?
・社会的背景はどこまで個人責任を減じるか?
国民の情報を収集している自民党こそ、苦しんでいる被害者がいることを理解していたとなるでしょうか。
<最後にチャッピーから>
刑事裁判は
・道徳
・政治評価
・社会構造分析 を扱う場ではなく、「個人の刑事責任を判断する場」とのこと。
判決に違和感を感じた原因は基本的なことだったのですね。学ばせて頂きました。![]()
話しは変わりますが、自由の女神はすっぽんぽんだったのですね。
あれほどアメリカ国民が監視社会に強く反対し、激しい抗議を重ねたにもかかわらず、その流れを止めることはできませんでした。その現実を踏まえると、日本においても同様の動きが見られることは否定できず、どうにもできないことを改めて痛感いたしました。


























































