こんばんは。鈴山です。

 

 「思考は自然現象」 これは、新たな表現による仏教の根本原理です。

 

 このことを理解すると、仏教は全部分かります。鈴木大拙は、法身を「宇宙霊」と表現しました。そして、「霊は電子の旋回であり、原子の抱合と反発だ」と喝破されました。この見方を私なりに言い換えると「私たちの思考は自然現象だ」ということになります。この見方で、原始仏教も大乗仏教も全部わかると思うのです。

 

 まず、思考は普通、個人持ちと思われていますが、思考が自然現象なら個人持ちではないですね。そうすると、思考を生み出す「自分の意識」という主体の存在が怪しくなります。思考が自然現象なら、原始仏教でブッダがお説きになった「無我」ということも実感として理解できるのではないでしょうか。

 

 思考が宇宙の生み出す自然現象なら、自分の行為は、自然界の生み出す思考に肉身が動かされる現象に過ぎないことになります。これで、禅が説く「無功徳」の意味も見えてきます。また、思考が自分持ちでないのなら、自力というものはありません。べつにアミダ仏を信じなくても、私たちは宇宙の意志に従って動いていることになります。

 

 これは、自己責任が無くなることを意味しません。自然現象としての思考の中に、かえって、自我というものが、宇宙の中に現象として現れてもきます。ですから、自我は、無我の自我です。自己は宇宙と重なっていて、宇宙は私のために、私は宇宙のために思考し、行為することになります。

 

 このように、思考が宇宙の自然現象だと理解すると、ブッダの「無我」がわかり、達磨大師の説く「無功徳」がわかり、親鸞聖人の「他力」がわかります。 

 

 ついでに、江原さんや三輪さんや太一さんがオーラの泉で「すべては必然です」と言っていましたが、これは、自由との関係がやや分かりにくい言葉ですが、これも、「思考は自然現象だ」と想えば理解し易くなります。すべては自然現象で必然だというのは、ここが考えどころですが、自分の主体性や自由というものが失われることにはならないです。宇宙の自然現象の上に、自分の意識というものが自然に動き出すのだということになります。鈴木大拙が「ひじ外に曲がらず」というところに真の自由を見ることの意味も、これで分かるでしょう。

 

 思考は自然現象という見方で、無我と自我との矛盾は矛盾でなくなって、自己同一になります。否定的無我がそのままで、肯定的自我になります。妙好人の浅原才市の言葉では、「他力には、自力もなし他力もなし、ただ一面の他力なり」です。盤珪禅師が「不生を念に変えなる」というのは、「思考は自然現象なので、執着できるものではない」というのと同じことです。これがまた、中観派が「一切が空だ」と主張する般若思想の根本原理にもなります。思考が自然現象だから一切皆空で、「一切法は執持すべきではない」ということになります。

 

 ただし、この見方もまた譬えに過ぎません。これは、宇宙の全体である識在について、その「識」の面を「在」の面に寄せて説明するだけの物質的世界観を示したことになります。それでも、「思考は自然現象」という表現は、宇宙の真相をコンパクトに説明するもので、現代的・科学的な頭脳の持ち主に対しては仏教の根本原理をもっとも効率よく伝えることができる表現だと、そう言っておきたいと思います。

 

 Aki Z