こんにちは、鈴山です。

 

 ニー仏の魚川氏は、「仏教思想のゼロポイント」という名著で、無我というのは常一主宰の実体我ががないことだと説明されています。これは、主導権のある独立我はないと言い直した方が解りやすいかもしれません。ただ、これらの見方は、なるほどとは思いますが、それは、あくまで分別識上での言葉の整理でしょう。

 

 そもそも、有るとか無いとかいうことは、物質に対してはいくらか的を得た判定のように思われるものの、心のような精神的な働きについては、有るとは何か、無いとは何かということ自体が、はじめから、明確には定義ができないことになります。厳密に言えば、物質だって、有るとは何か、無いとは何かは、よく解らないのではないでしょうか。

 

 いずれにせよ、ブッダが禅定の中で感じたであろう、自己という中心がない感覚は、そのような理屈抜きに体感として、「無我」と表現せざるを得なかったもののように思います。

 

Aki. Z

 

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