今日は、先日受験した娘の中高一貫校の合格発表の日でした。
パソコンを開いた瞬間、え?え?うそ…番号がない…
 
厳しい倍率だということは承知の上の受験でしたが、今まで持ち続けていた夢が壊れるのって
シャボン玉がパンってはじけるように、想像以上に淡々としていて、音もなく、あまりにもあっけない一瞬なのだと感じました。
番号がない→落ちた→親子共々憧れの学校に行く事ができないとわかるまで
恐らく数秒かかりました。
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受験当日、娘が言った思ったより出来たという言葉から、私自身期待がどんどん膨れ上がってしまっていたのでした。


試験当日は、受験会場に入っていく子供の姿が見えなくなっても、その場から離れられないお母さんたちに紛れてその場に立ち尽くしたり、
試験の最中何もできずに、落ち着かない感覚を味わったりして、なんなんだ、親といういきものは…
と客観的に自分を見ている自分もいて、そんな何もできない無力感も初めて知りました。

 

私が高校や、大学編入学の受験で不合格になった時よりも、
ずっとずっと胸が痛むのは、記憶が薄れたからではありません。
 


初めて味わう娘の挫折に、自分が感じている痛みを超えて向き合わなければならないことを知り、
どんな状況であれ、娘のために毅然とした一本の軸をブレてはいけないと覚悟を決める私。


この思いを私の母は少なくとも2回もしてくれたんだ…
今まで受験に落ちた悲劇のヒロインは自分だと思っていたけれど、
その当時の「自己責任」という逃げ場は親の私にはありません。

どうにもならないものを受け止めなければならない感覚って
母親、そして家族だからこそ味わえるのかもしれませんね。

 
つい先日は、可愛がっていたチンチラのミルクが急死して、
どうにもならない悲しみに3日間向き合っていました。
溢れる悲しみにただ泣くことしかできなかったけれど、
時間が悲しみをやわらげてくれました。
ずっと同じ悲しみは続かないのですね。
 
最近自分ではどうにもならない、ただ受け止めるだけしかできないことが続いて
ちょっとオーバーな表現ですが、これが生きてるってことなんだな…と複雑な気持ちで感じています。
 
ただ、胸の痛みを味わう、ただそれしかできないから
それでいいんだと自分に言い聞かせながら、
すると昨日まで見せていた娘の無邪気な笑顔や
ミルクのさすったときの気持ちよさそうな表情がかけがえのないものだったんだと
思えてきました。
 
きっと今はどうにもならないことをしっかり受け止めるレッスンなのかと思います。
 
十分に悲しみや痛みを味わったあとは
自分で自分を癒す、自分の為のカウンセラーになり、そして娘を癒す母になろうと思えてきました。
 
そこに行きつくまで励ましてくれた友に心から感謝をしながら
たくさんのありがとうの中にいた自分を見ることが出来た気がします。
 
今、仕事の帰りです。
このブログを綴り終わった後、結果がわかってから初めて娘の所に行きます。
目の前の封筒の中の結果を、娘は何時間も確認できなかったと母から聞いて、
ちょっと心配ですが、行ってきますおねがい
 
今日も読んでくださりありがとうございます
WITH LOVE 優ラブラブ