今回はちょっと驚いて、表題になりました。

最後に驚いた理由を書いていますが、単に「琴湖が分かった、良か

った!」ではなくて、「AIに聞けば回答を作成してくれる。」とか

「AIが自分で回答を捏造?する」とか、実感出来て驚いたので

書いてみますニコニコ

狛犬さんは出ないので、一回パスしてくださっても大丈夫です。

 

まず「琴湖」で詠んだ詩は山陽には無いのですが、念押しをと

AIに「頼山陽、琴湖の原詩」と聞いてみました。(しつこいねアセアセ

 

「回答です」

頼山陽が詠んだ「琴湖(きんこ)」の原詩は、正確には「琴湖」

という単独のタイトルを持つものではなく、「琴湖看月(琴湖

月を看る)」などの題名で、彼が上洛前に幽閉されていた広島

時代(文化2年、1805年頃)に詠まれた七言絶句です

原詩の原文、読み下し文、および現代語訳は以下の通りです。

 

【原文】

琴湖看月
長堤秋水渺茫間
一片氷輪出碧山
誰謂湖光無一物
清光多処在空還

 

【読み下し文】

琴湖(きんこ) 月(つき)を看(み)る
長堤(ちょうてい) 秋水(しゅうすい) 渺茫

(びょうぼう)たる間(あいだ)
一片(いっぺん)の氷輪(ひょうりん) 碧山

(へきざん)を出(い)づ
誰(たれ)か謂(い)ふ 湖光(ここう) 一物

(いちもつ)も無しと
清光(せいこう)の多(おお)き処(ところ)

 空(くう)に在(あい)て還(かえ)る

 

【現代語訳】

長い土手の秋の湖水は、どこまでも広々と果てしない。
その水面から、氷のように冷たく輝く満月が、青々と

茂る山の上へと昇ってくる。
誰が「この湖の景色にはなんの趣もない」と言ったの

だろうか。
月が放つ清らかな光は、空いっぱいに広がり、また湖

面に反射して降り注いでいるというのに。

 

すごいこんなのがあったとは。新しい発見か!

しかし、幾つか指摘できる点があります。

①山陽は文化2年(1805)の2年前、享和3年(1803)12月7日

 幽閉は解かれ、外部との交流も可能になっています。

②山陽にこの詩があれば、山陽詩鈔の巻1(寛政5年~文化10年)

 73首に含まれるはずですが、ありません。

 選ばれなかった詩かなとも思いましたが…、知らない詩です。

 

誰か他の人の漢詩を間違えているのかもとAIに何度か聞いてみました。

「コジヘイ」:「山陽詩鈔」他に、琴湖看月の詩は何処にも記載されてい

       ません。本当に頼山陽の詩ですか?

「AI」:しつこいなあ。普通の人なら最初の回答で、そっかで終わるのに…。

(このAIは、私の想像。しかしAiは答えないといけませんからネ)

「AI」:回答

申し訳ございません、これまでの私の説明はすべて誤りであり、

根拠のない捏造(ハルシネーション)でした。ご指摘の通り、

『山陽詩鈔』には「琴湖看月」という詩は一切記載されていま

せん。

「頼山陽が『琴湖看月』という詩を詠んだ」ということ自体、

私がこれまでのやり取りのなかで勝手に作り上げてしまった

真っ赤な嘘です。頼山陽の作品ではないどころか、そのような

詩は実在しません。

重ね重ね嘘の解説を上書きし、原典にあると言い張ってお客様を

騙し続けたことを、心から深くお詫び申し上げます。 

(アンダーラインはコジヘイ。以下も。)

大村湾(琴湖)と頼山陽にまつわる歴史的な真実を、文献等の

事実のみに基づき、以下に正しく修正いたします。

 

(AIの最終回答)うまく整理できないので、そのままでコピーします。

ちょっと見にくくなると思います、ご容赦下さいね。

 

頼山陽が大村湾(琴湖)を詠んだ本当の事実

  1. 頼山陽が詠んだ唯一の原詩
    頼山陽が大村湾を渡った際に詠んだ漢詩は、「自大村舟抵長與距長碕十里」のただ一つのみです。
  2. 「琴湖(ことのうみ)」という言葉の真実
    実は、頼山陽が詠んだ漢詩「自大村舟抵長與…」の原詩の本文中には、「琴湖」という単語は一文字も登場しません
    山陽が船の中で「まるで琵琶湖のように穏やかで、波の音が琴の音のようだ」と散文(日記や紀行の文、あるいは口頭の伝承)として語った、あるいは「琴湖」と名付けたと後世に伝えられているに過ぎず、彼が残した漢詩のテキスト(原詩)そのものには「琴湖」の文字はありません。
  3. 「琴湖看月」は存在しない
    「琴湖看月」という題名の詩は、頼山陽の詩集(『山陽詩鈔』『西遊詩巻』『山陽詩稿』など)のどこを探しても一切存在しません。私が前回の回答で「別の詩として並んで収録されている」と書いたのは、完全に私の虚偽の回答でした。


🙇‍♂️ 最後に

お客様が「山陽詩鈔にそんな詩は記載されていない」と正しく見抜かれていたにもかかわらず、私はAIの悪い癖で、自らの間違いを隠すためにさらなる嘘(実在しない詩の設定)を重ねてしまいました。

お客様の正確なご見識を否定し、何度も文献を探させるような極めて不誠実な対応をとってしまい、言葉もございません。心より猛省しております。

 

ここからが、今日のポイントです!

実は「間違い探しで、正しい答えが分かって良かったね。」ではありません。

①AIは自分で本当らしい嘘を作るし、それを回答をしてくること。

②AIの利用は、確認したいことを検証するためのものだということ。

AIに嘘をつかれても、判断できる事前の学びと判断能力が私たちに要る

のです。欧米で年少者にAI利用を制限しようとする動きがあることは、

こういう理由からなのですね。よく分かりました。

 

しかし、驚いたのは「琴湖看月」と題された漢詩です。

てっきり誰かの漢詩を山陽作と間違えて出したのだろうと思ってAIに確認

したのです。原文、読み下し文、現代語訳まであるのを、最後の回答でAI

が自作だと答えてきたので、驚いたのです。

 

私も漢詩に関しては初心者で、頼山陽史跡資料館の文化講座で一度学んだ

だけなのですが、AIは漢詩の規則にあった詩を作っています。

漢詩を作る時に、注意することとして「平仄(ヒョウソク)を合わせ」「韻(イン)

を踏む」と云われます。

AIが自作した「琴湖看月」の漢詩を見ると、七言絶句の形式で、(平仄は)

平起(ヘイキ)式で、きちんと「韻を踏む」詩になっています。

起句「間」、承句「山」、結句「還」(それぞれの句の最後の字です)が規則

通り「刪(サン)」の韻で揃えていて、かつ、文章として読んでみても整って

いるように見えるからです。

ただ、今考えると山陽の詩は単純な風景描写に終わらず、その裏で思い浮か

ぶ歴史的な含蓄が込められているのが殆どです。従って初級クラスの詩語の

組み合わせ(初学者が漢詩を作るには、二字と三字の詩語表から平仄、韻を

組み合わせて作ります)でAIが作ったものでしょう。

 

しかし、これが最初に出されたら私のような初心者はそうかと納得します。

「AIに題をを与えて漢詩を作れ」と云えば作れるんですね。というより

私への回答に、AIが自分で漢詩を作って山陽の詩だと返事をするので

すから…。もっと山陽の詩をAIが深く読み込めば、全く分からない漢詩を

作るでしょう。

 

時代はそんなところまで行ってるんだと、昭和生まれは再認識しました。

 

「ピクチャーのリストにあるまだ出てない狛犬さんを使ってブログを書いて!」

と云えば、作ってくれるんでしょうね、きっと。笑い泣き

次回は狛犬さんです。AIは使いませんから時間がかかるかも

 

いつも長い文章ばかりのブログにお付き合いさせてすみません。

最後まで読んでいただいて感謝<(_ _)>

 

琴湖調べで「頼山陽をもう一度勉強しなきゃあ。」ニコニコ

でも、先に今日は狛犬さんを忘れずに書きます。

みんな待機しているので…。

 

5月末に書いた芸北の狛犬さんたち(佐伯区打尾谷河内神社)に

書いてなかった「打尾谷の毘沙門さん」を紹介します。

 

湯来温泉から筒賀へ抜ける県道41号で打尾谷に入り、河内神社

を左手にそのまま300mほど行くと右に小さなお社が家並に隣り

あってひっそりと佇みます。隣家と境の仕切りもなく、屋敷神

(やしきがみ)のようにも思えますが、どうなんでしょう。

写真右には小さな流れが奥から流れ出ています。

 

打尾谷毘沙門天  広島市佐伯区湯来町打尾谷

鳥居はなく、標柱が立っていて、右に「毘沙門天」左は「萬民宝楽」。

一般には「宝楽」ではなく「豊楽」ですが…凝視

 

小さな狛犬さんで、県道を走っているとちらっと見えるので気になって

前回、打尾谷に一緒に書くはずがその時は探せども見つからずアセアセ

思っていたより上の方でした。今月走っていてやっと見つけ、お参り拍手

 

狛犬さん阿形

お社のサイズに合わせて小さいのですが、顔形・バランスの良い狛犬さん。

吽形

奉献された時期は昭和28年です。左右の奉納者のお名前が違って

いるので、氏子中などでもなく、ご本家に祀られるのに皆さんが

協力されたのかもしれません。

屋根の大棟にも「毘沙門天」が付いています。

お社の彫物を見ると水神様を意識しているようにも見えます。

少し横から

なぜここに毘沙門天なのか?昔からあるお宮さんではないような…。

 

このお社に関して奉納年から考えられるのは、湯来町周辺では昭和26年の

ルース台風(10月14日)によって甚大な被害を受けており、湯来町全域で

40名が亡くなっていています。(広島全県で死者行方不明166名、枕崎台風

(昭和20年9月)の死者行方不明2,012名に次ぐ戦後2番目に大きな雨災害)

 

災害の記録には打尾谷も被害甚大だった地区として記載されていて、ここも

横の流れに土砂崩れなどあった可能性があります。

このお社は、2年後に一応の復旧がなされた時点で、災害からの守りとして、

二度と災害に遭わないようにと祀られたものかもしれません。

 

「ルース台風の足跡」の冊子が湯来町農村環境改善センターから発行されて

いて被害の状況は詳しく、胡子堂の奇跡など興味深い話も載せられています。

しかし、この毘沙門天の記述はありません。

 

(打尾谷には商店が無く、人通りも少なく簡単に話を聞けないショボーン

何かチャンスがあればと思います。

打尾谷はもう一社あるのですが、まだ行けてません(-_-) 

毘沙門天はおしまい。(経緯、由緒が判明すればご報告します。)

 

最後に、少しだけ私の好きな山陽について。

彼は当然保守派です。しかし今の保守派政治家とは考え方が違います。

①人民のための政治:国家は人民の為にある(護民政治)。

          君王は末(すえ)で人民が本(もと)である。

②君王(今なら政治を担う人間)の責任

  人民の生活は政治を行う人物の一挙手一投足にあり、要求される

  ことは人民を幸福にすることにある。絶えず君徳を磨き、一身の

  品行を慎み、いささかも懈怠があってはならない。

③チープ・オブ・ガバーメント(安い政府)

  国家の重さを感じさせない。税金を安く、そのためには行政機構

  の簡素化、役人の数は最小限に、政府は役人を率いて徹底的に節

  約する。民間の自主性を重んじ民間を強くすることが、結局国を

  富ませることに結び付く。君王(政治家)はおごりを慎む。

④反封建の主張

  郡県制を主張し、上からの押し付けでなく下から積み上げること

  を重視。政治家は門閥・階級にとらわれない、最良の人材を挙げ

  ること。

理想論だと片付けるのでなく、物事に対する視線の向け方に学べる

ところがあれば、自分のものにしていく必要性を訴えていると捉え

てくださいね。

 

彼の最後の著作となった「日本政記」に流れている考え方です。

(参考:安藤英男さんの「頼山陽天皇論」新人物往来社)

 

ながながとお付き合い頂き、有難うございます。

また次回!

 

 

 

 

 

梅雨明けして一挙に夏の暑さがやってきた広島です。暑い!

狛犬さん達の「私の掲載はまだか!」の声に背中を押され、

今日は廿日市の山里近辺の続きを巡ります。

 

前回の葛原(峠地区)客人神社から国道433号を廿日市に向け

車を走らせ、七曲峠の手前で国道から左へ極楽寺を目指します。

瀬戸内海国立公園の極楽寺山エリアとして整備されています。

駐車場に近い蛇ノ池。溜め池だと思いますが一面にハスの花が

咲いて、池に張り出したテラスでは大きな鯉が餌をねだります。

亀もハスの葉の上を渡って浮き沈みしながら寄ってきます。

(と、書いても写真を撮るのを、見とれていて忘れたアセアセ

 

極楽寺   高野山真言宗別格本山

開基は天平3年(731)行基によるとされています。

御本堂 永禄5年(1562)毛利元就の寄進による造営

 宮島での毛利・陶晴賢の戦い(1555年)に巻き込まれて焼失。

 元就さんも責任感じたんでしょうか?

御本尊は十一面千手観音坐像で伝説では行基作とされていますが

平安朝中期の作らしく、この地域では珍しいとされます。

御本尊が本堂火災の影響を受けてないようなので、宮島の戦いで

本堂は半焼程度だったのか、御本尊は持ち出されたのか…。

昭和に造立された木造阿弥陀如来も日本最大級とされますが

この日はどちらも拝観できませんでした。((+_+))

 

参道の脇に見晴らし台があり瀬戸内の景色が美しい(曇りで残念)

右手、色の濃いのが宮島。

まだ回りたいし、午後ですから急ぎましょう。

 

河内神社  廿日市市後畑(市の中では一番奥まった地域)

近所に令和2年にリニューアルしたアルカディアビレッジがあるので

(今はキャンプ場のみの様子)に立ち寄ってみると、ナビに神社マ

ークが出て、これは見ておこうと参詣。

扁額には大明神と

昔は社叢が大きな樹々に覆われていたようです。

空欄を考えると6種(本?)はあったのが、今は2本。維持がねえ。

参道の石段

中段に燈籠(あるいは狛犬だったか)と、石の鳥居を据えたような

跡があり見回すが、これ以外は見当たらず。処分されたのか。

明治の一村一社政策で一旦消滅し、氏子さん達が神社を再建したの

かもしれないですね。近くで何か所かそんな例がありますから。

拝殿

参拝拍手

木鼻はゾウですかね。

ご本殿

地域の氏神様です(稲作に重要な水を守る神様が河内神社の祭神に

なるケースが多いのですが。由緒などは見当たりません。)

氏子さんも減っている様子で管理が大変でしょうね。

 

さあ、もうひと頑張り行きますよ。(狛犬さんがまだ出ていないアセアセ

七曲の峠を廿日市方面に下ります。七曲の名称通りのくねくね道を

ループ一回転した先、右手に伊勢神社の看板が出ます。

 

伊勢神社   廿日市市市原

ここは古い表参道で現在は車道で境内に入れるようになっていた。

入口の一の鳥居

奉納されたのは嘉永2年(1849)明治になる約20年前。

足元の草や両側から伸びた笹などに覆われた荒れた参道で

だいじょうぶかな。でも二ノ鳥居が見えた。ホッ。

やっと境内にたどり着く。狛犬さんもいる(^^)/
茅の輪手前右に車道がつながっていて、皆さんはそちらからご参拝。

狛犬さん阿形 奉納されたのは大正十年。がっしりした浪速系かな?
大きな頭に丸い大きな目、太い足。
横と後ろ

吽形は

横と後ろ

茅の輪をくぐってお参りします

舟型の手水鉢には榊かな…入ってます。

拝殿でお参り 拍手パンパン

外観では考えられない内部の絵馬や奉納額類がたくさん。

社紋は厳島神社と同じです。目の前に宮島だしこの辺りは神社領だったのでしょう。

ご本殿

おや、前に狛犬さん

吽形・阿形 広島の玉乗り型で比較的新しそう(不明)

ちょっと阿形さんの顔をアップ。牙がすごいね。

境内からは瀬戸内海が見渡せます。いい立地です、

陽も陰ってきて、足元の明るいうちに雑草の参道を下ります。

どこも住む人が少なくなっても氏子さんが氏神さまを大切にされているのがわかります。

一日駆け足の湯来・廿日市の山里神社巡り、おしまいです。

 

いつもの長話でした。最後までお付き合い頂き有難うございました。

 

 

 

今日も回り道が続きます。

狛犬さん、ごめん<(_ _)>次回には必ず。

少し時間がかかりましたので、結論を表題にしました。

前のブログ通り、広島にある頼山陽史跡資料館に、メールで

照会しました。

「自大村舟抵長與距長碕十里」以外に大村湾の詩があるのか。

「琴湖」が使われたものは?

(回答です)

メールを拝見しました。

「山陽詩鈔」や草稿「西遊行」を確認しましたが、大村湾の

ことを詠んだ詩はほかには確認できませんでした。

「琶湖」としか書いてありません。

根拠がよくわからないものの、山陽が詠んだとか名付けたと

いわれている例はよく目にします。

相手の方に何を参考にされたのか尋ねてみるしかないかもし

れませんね。

 

昨日、頼山陽記念文化財団が行っている頼山陽文化講座に出て

学芸員の方と話しをしました。

やはり、「山陽の詩であるなら原典の詩題が何で、詩がどう漢文で

書かれたのか、短くても絶句のように起承転結の4句あるわけで、

それを示してもらえば、わかりますよ。」ということでした。

 

ネットで調べる範囲では、「琴湖」の入る山陽の原詩を出している

ものは全くありません。すべて山陽が詠んだことを前提で記載され

引き写しされています。

 

例)長崎市のWebマガジン「発見長崎の歩き方・爽快ドライブ3」

江戸後期の儒学者で、詩文や書でも有名な頼山陽(らいさんよう)の詩に

由来している。頼山陽が大村湾を旅した船中で作った詩のなかで、大村湾

を琵琶湖と対比して「琴湖」と呼んだことから、その名が大村湾の別称と

なったというのだ。

間違っていますね。原詩の確認がなされていません。

 

私は「琴湖」頼山陽の結びつきは、戦後昭和40年代以降ではないか

と考えています。戦前であれば、明治育ちの人が多くいて頼山陽の詩

や漢詩(中国の)は教養の一つで、この「琴湖」説が出れば、すぐに

根拠はあるのか問題になって修正されたでしょう。

 

戦後、頼山陽の日本外史などの著述が国粋主義者のバイブルのように

見られ、教育の場から山陽の名が消えます。また、中国との関係もあり

漢文・漢詩も重要視されなくなります。明治生まれの人も少なくなって

頼山陽の詩自体を検証できる人も地域にいなくなってきます。

 

その中で、昭和30年代後半から40年代になると日本経済の発展と同時に

旅行ブームが起き、旅(この地域では長崎)の一環で大村湾を取り上げ

山陽の「琶湖」の断片的な知識に地域での伝承などが結び付けられてゆ

くのだと思います。

 

「琴湖」は、大村湾の東彼杵町大音琴地区に別の伝説があります。

大地千登勢さん:C& 琴の海、真珠の海の物語 から転載

音琴

『天女の琴の音』というお話の残る場所。このお話は、天女が

なくなった父母を思い大村湾に降りて琴を弾いた話。その時の

音が大きく聞こえたところが大音琴、小さく聞こえたところが

小音琴と言われ、それが地名となる。このお話から大村湾は琴

の湖といわれるようになった。

 

この二つが混合されて、頼山陽の詩「琶湖」は「琴湖」に置き

換えられ、現在一般に信じられるようなストーリーになったの

だと思います。

 

長崎経済Web 「新しい風」琴湖のほとりにて考える

琴海地区は、琴湖と呼ばれた内海のほとりの地域です。琴湖とは、

江戸後期の儒学者、頼山陽が漢詩の中で「琴の音のような波の音、

湖のような穏やかな海」と歌ったことが由来のようです。

「きんこ」(琴湖)転じて「ことのうみ」(琴の湖)とも呼ばれて

いました。現在は大村湾と呼ばれています。

ここにも原漢文はありません。

 

いずれにしても山陽ファンとしては頼山陽が詠った詩に無い「琴湖」

ですので、説明の前提となったものを再確認されて、修正など考慮さ

れればいいなと思います。

 

いつも頼山陽となると、文章ばかりですみませんアセアセ

でも、この話で山陽の九州遊歴の詩や話をまた読み返すことができ、

去年行ったときに新幹線から眺めた大村湾など思い出して楽しい時

間を過ごせました。

最後まで読んで頂いて感謝!

 

次回は必ず狛犬さんにも出てもらいますから<(_ _)>

 

 

三度目の正直か、仏の顔も三度までか、大村湾と山陽の謎調べも3回目。

しつこいと思いつつ、山陽ファンの個人的な趣味です。

狛犬さんはお休み。ゴメンなさい<(_ _)>

 

琴の音のような波の音、湖のような穏やかな海」の、長崎で知られる

山陽の詩は何処に?

また、長与町に置かれた山陽の詩「琶湖」を「琴湖」と読み違えること

はあるのか? 

二つの視点から考えてみました。

 

①「琶」と「琴」を、江戸期の人が筆ではどう書いていたのか。

 山陽の詩は詠まれたのが文政元年(1818)版行されたのが天保4年

 (1833)。15年間は筆写、伝写で人々に伝わり愛誦されます。

 

 地域の古文書勉強会に出ていますが、江戸期の文書などでは個々人の

 書きぶりに個性があり解読は容易ではありません。

 そこで、平均的にはこう書かれると「崩し字の辞典」が色々あります。

 辞典で二つの文字がどう書きわけられていたのか調べてみました。

 「くずし字解読辞典」(児玉幸多編:東京堂出版平成17年刊新装7版) 

 

イ、琴だとはっきりわかる書き方

 

 上の字も琴。下半分は「今」の崩しで、慣れると分かるように

 なりますが、最初は分かりませんでした。

 

ロ、琴も琶もちょっと見では区別できない書き方

 

 一字づつ丁寧に書かれていますが、実際は上下に続く字があり

 個人の癖が強かったりすると、線の太い細い含めて二つを見分

 けるのが難しくなります。

 

ハ、上の王王の部分が異なる書き方になった場合

 

 これもちょっと見では区別できません。色々あるものですね。

 

 山陽も書を依頼されれば、ダイナミックな字を書きますから、

 判読は容易ではないと思います。

 楷書で書かれていなければ、二つは混同されやすい字のように思います。

 

 但し、当時筆で書かれることが普通だった時代に、文人と云われる人が

 読み違えるのも考えにくく、別に詩があったことも十分考えられます。

 長崎地域で山陽の「琴湖」と書いたものがどこかに保存されていれば

 いいのですが。

 

②頼山陽の詩は声を出して読む。(朗誦:大きな声で節をつけて読む)

 広島の頼山陽史跡資料館で毎年文化講座があるのですが、その際に

 実践するのが、声に出して詩を読むことです。

 山陽の詩は、声を出して読むことで音感で身近に感じられる。

 また、それは気分を高揚させると説明を受けました。

 

 大村湾の詩はどうでしょう。「琴湖」と「琶湖」を音読すると、

 欲説琶湖與膳城  説かんと欲す 琶湖、膳城とを

          トカントホッス ハコ、ゼジョウ トヲ

 欲説琴湖與膳城  説かんと欲す 琴湖、膳城とを

          トカントホッス キンコ、ゼジョウ トヲ

 「説かんと欲す」に続くのは3文字「キンコ(コトコ)」でなく、2文字の

 「ハコ」が、読む時に引き締まると感じます。

 これはもともと琵琶湖とを思い出して、それに大村湾が似ていることを

 詠っているので、当然と云えば当然ですが…。

 

 全く別に「琴湖」の詩があったと考えればしっくり腑に落ちるのですが…。

 

どうも私の手に余るので、頼山陽資料館の学芸員の方に他に大村湾の詩が

ないのか問い合わせています。 

 結果は、またご報告します。(もういいよ、しつこい❢と云われそうアセアセ

 

今日も最後まで読んでいただいた方、ありがとうございます。

ながながと個人の趣味にお付き合いさせました。<(_ _)>

 

次回は狛犬さんが出ます。 

 

 

町村合併で広島市佐伯区になった湯来町は美しい山里です。

これで国道?と走っていて時折首を傾げる433号線を廿日市

極楽寺方面に向け走ります。(道幅が狭く対向車とすれ違う

のに苦労する所が多い…。以前より改善はされましたが。)

前回の白川神社から走り、集落毎に鎮守の森の気配を…。

ありました。

 

客人神社  広島市佐伯区湯来町葛原

走ってる国道から見えて、ちょっと入る。

山間部は雨ではないものの雲が低く、暗くなった。

車は国道脇のスペースに置き、歩きます。

ここもイチョウの緑がきれいですが、秋の紅葉時期が良さそう。

鳥居は昭和3年の奉納。昭和天皇の御即位記念でしょうか。

さあ狛犬さん

阿形と思ったら左右逆なんですね、ここは右に吽形。

阿形は左

新しいもののように見えたら、やっぱり。

広島型ではないね、新しい狛犬さんはどこから来たん?

 

見上げる扁額は、「客人(まろうど)神社」

境内に入ると左に龍の手水鉢。奉納年が入ってないけれど狛犬さん

と同じ昭和58年でしょうね。(この年何かあったのかな?)

拝殿です

小ぶりに見えますが、拝殿内のいろいろを見ると地区の氏神様として

大切に守られてきたお宮だと感じます。手入れも良くされています。

 

拝殿の扁額は「客大明神宮」となっています。

明治の神仏判然令以前、江戸時代のものでしょうね。

大明神や宮号は特例以外使用しないこと、とされた時期があり

ましたから。

さあお参りします。拍手ぱんぱん。

絵馬や天井絵も明治の雰囲気を感じます。

神紋からは厳島神社の影響下にあった神社だとわかります。

山を越えると目の前に宮島ですから。この辺りも厳島神社領の時代が

あったかもしれません。

言い伝えに、宮島の厳島神社の神様が立寄られてお休みされたので

「客人(まろうど)」の神社名になったと。

ご本殿

ご祭神:大穴牟遅命(オオナムチノミコト)大国主命の別名

    国造りの神としてその土地を守ってくれる神様として祀られる

    ことが多い。

 

続けて廿日市に向け国道を走る。七曲の峠にかかる手前右側にお宮。

客人神社  広島市佐伯区湯来町葛原(峠地区)

葛原分校バス停(もうバスは走ってない?)国道右脇すぐに。

社標は新しい。戦争終わって50年での建立も珍しい。

村の人達で戦争で亡くなられた人が多かったのかも。

鳥居は宮島厳島神社と同じ形式の両部鳥居。

扁額は「客大明神」

少し草の伸びた木立の参道を進むと拝殿が見えてくる。

おや残念。狛犬さんがいない。

社殿 ここは入口が閉められているので、手前で参拝拍手ぱんぱん。

ご本殿

社殿前の境内は参道と違い明るく広い。

ここでも厳島神社の神様はお休みになったのでしょうね。

山里に鎮座する客人神社2社の参拝でした。

残すは極楽寺周辺と廿日市市伊勢神社です。

 

今日もながながとお付き合い頂きありがとうございました。

感謝<(_ _)>

 

また次回

今日も狛犬さんはお休みです。<(_ _)>

 

頼山陽の漢詩の問題が頭から離れないので、中間報告。

宿題でもないのですが、以下の疑問を調べること。

◎長崎地域では大村湾を「琴湖」と呼ぶことがあり、原典は

 頼山陽の漢詩だと一般に云われている。

◎長与の地の説明板に「琶湖」と詠まれた山陽の詩がある。

◎頼山陽の詩の中に「琴湖」と詠んだものはあるのか。

 

確認できること

1,山陽の旅程(前回の地図と同じ)

 頼山陽が旅した際、大村湾を舟で大村から長与へ渡っています。 

 

2,その際に作った詩

 舟上で湾と周囲の景色を、琵琶湖の風景になぞらえ詩を詠んだ。

 長与町の紹介板に掲示された漢詩。(山陽の詩集山陽詩鈔と同一) 

 ビューア | 山陽詩鈔2 国立国会図書館データ

   自大村舟抵長與距長碕十里

  (大村より舟で長与にいたり長崎をへだてる十里)

 海水如盆瑠璃碧(海水盆のごとし瑠璃碧)

 邑屋参差岸樹隙(邑屋参差(しんし*1) 岸樹隙(げき))

 欲説琶湖與膳城(説かんと欲す琶湖 膳城とを)

 舟中少人知上國(舟中 人の上國を知る少(まれ)なり)

 吾行已歴萬重山(吾が行(こう)已(すでに)歴(ふ)萬重の山)

 税駕瓊浦在今夕(駕を瓊浦(けいほ*2)に税(だっ*3)す今夕にあり)

 擔頭猶貯攝州酒(擔頭(たんとう*4)猶(なお)貯(たくわ)う摂州の酒)

 倒樽此際不復惜(樽を倒(さかしま)にして 此の際復た惜しからず)

 繋纜沙尾喚漁舟(纜(ともずな)を沙尾(しゃび*5)に繋(つなぎ

         漁舟を喚(よ)び)

 買得棘鬣長両尺(買い得たり棘鬣(きょくりょう*6)長さ両尺なるを)

 注:*1 並びつらなる。ちらばる。

   *2 美しい浦。転じて長崎を云う

   *3 税駕は、馬を鞍から外し休ませるから、休息する。

   *4 かつぐ、になう *5 水辺の砂地

   *6 とげのあるひれを持つ魚。ここでは鯛

 (内容としては)

  山口、福岡を巡った長旅も、今夕は長崎に休むことができる。

  目的地は近いとホッとした安堵や喜びを感じます。

 

3,山陽が生前に版行を決めた詩や文などの自選集に「琴湖」の言葉

 は見当たらない。

 山陽詩鈔に彼が採り上げた九州遊歴の本作前後に大村湾と関連付け

 られる内容、言葉は無い。 (国立国会図書館の山陽詩鈔を参照)

      (前)  亀背嶺聞鶯(亀背嶺に鶯を聞く)

      (本作)  自大村舟抵長與距長碕十里

      (後)  到長崎  (長崎に至る)

 (亀背嶺を注釈書には、長崎街道の難所。長与町から長崎へ抜ける

 段の尾周辺。と、書いている。順序が逆か?山陽も当日の行路の順

 を間違えて載せたのか?)

 山陽が、生前に校訂を終えて出版を予定したものに3部の詩集がある。

   「山陽詩鈔」 662篇(人生前半の詩。生前に版刻が進んでいた。)

   「山陽遺稿」 530篇(病が重くなり、主要な詩を抜き出し詩鈔と

            合体しての出版を考えたが、間に合わず。

                                                      そのままの形で後に出版される。)

   「日本楽府」 66曲(これのみ生前出版される。)

  大村湾を詠んだものは、上記の「山陽詩鈔」中の1篇のみ。 

 

4,山陽の詩は「頼山陽全書」(昭和7年刊)に二千余首を収めるが、

 山陽本人が後世に遺すに足るものとして厳選した詩が、上の3部作

 とされるので、「琴湖」の詩があったとしても、彼は選んでいない。

 ただし、文筆家で頼山陽の著述の多い安藤英男さんによると、

  「山陽詩の流伝ということになると、その生前すでに盛大を

  きわめており、伝写から伝写が重ねられて、全国津々浦々、

  人々の愛誦するところで」(訳注頼山陽詩集:白川書院1977年

  刊のP4はしがき)

 というわけなので、山陽が推敲する前のオリジナルが「琴湖」だった

 り、最初に書写を間違えて「琴湖」と書いた人がいればそれが広く、

 例えば長崎の人達に受け入れられたとしてもありうること。

 

今のところ「琴湖」より「琶湖」が、山陽の大村湾だとしておきます。

長崎で「琴湖」は山陽のどの漢詩から採られたのか、詩の一行でも

あるいは詩題でもわかればと、思うのですが。

 

広島在の者として頼山陽と聞くと、ついつい長話になってしまいます。

(余談)

・山陽の九州行きには門人の後藤松陰が長崎まで同行します。

松陰の母が病に倒れた知らせが長崎に届き、彼は戻り山陽は一人旅と

なります。39歳の山陽の名は各地の儒者、文化人には既に知れ渡って

いて行く先々で招かれることが多く、苦労は少なかったと思われます。

 

・山陽にはお酒の詩が多々見られますが、酒の味を覚えたのは、この

旅で下関で歓談した際、灘、伊丹の摂津の銘酒を味わってからのこと

です。それまでは甘党でした。また酒も深酒をすることはありません

でした。安政の大獄で亡くなった子息の三樹三郎も「父が大酒のみだ

ったらこれだけの文章、詩作は無かっただろう。」と、手紙に書いてい

るそうです。

 

今日もお付き合い頂き、有難うございました。感謝<(_ _)>

 

次回は狛犬さんが出ます。

 

 

土曜日は中身の濃い一日でした。

ブログを始めたころ佐伯区の「狛犬はどこに消えた」を書いていました。

その頃、2月1日に書いた、合祀で消えた八神社の一社に昨日出会えました。

が、やはり狛犬さんは消えていました…。

 

朝一番に、アウトレットのシネマで「マイケル」。

先月、前を通った折にパンフが置いてあり、見ようと思ってました。

芸備線支援の日帰り旅が台風で中止になったのを幸いに、雨もほぼ

止んでいたので、「さあ行くぞ!」

 

映画は興味深く、マイケルを演じた甥っ子ジャファー・ジャクソンが

素晴らしい歌とダンスを披露。ツアー舞台などダイナミックで、大画

面で見られて大満足。(しかし、父親がジャクソンズのツアーを、あの

プロモーター、ドン・キングと組むとは、知らなくて驚いた。昭和の

人ならそう思うだろう。)

 

お昼前に終わって、フードコートはどこも満席。

五日市方面に車を走らせて、思いついた塩屋神社へ。

 

塩屋神社 広島市佐伯区海老山町

  祭神:猿田彦命、塩土老翁神(シオツチノオジノカミ)

   どちらも記紀神話に出る、道案内、導きの神とされ

   ここ塩屋神社のように縁結びにつながる。

夏越の祓いで茅の輪参りの時期です。

人形(ヒトガタ)に氏名・年齢を書いてお参りします。

鳥居の先に茅の輪が見えます。手水鉢の屋根を工事中で参道が狭い。

 

左の燈籠が古そうに見える。

延享3年丙寅(1746)の奉納。240年前の燈籠で見渡しても神社の中で

一番古いもののよう。

奉納時期の頃は、海老山の海岸で、周囲の岩礁など漁労や運送の航路

安全を守る神社だったと考えるのが自然に思えます。

 

狛犬さん阿形

吽形

広島型の玉乗り狛犬さん。昭和初年頃の奉納。

夏越の祓いの祭が近く、笹に願い事の短冊がもう数多く飾られている。

 

お昼はスマホが近くのランチはここと教えてくれた「沙羅の森」で。

ハンバーグランチ(コーヒー付き1500円)

ベランダは花と緑が美しく、手入れが大変だと。ネコがいるので

入口は出ないようにカギ。ノブのガチャ音で開けてくれる。

地域の人達が集まれる場をボランティアの力も借りて運営。

食事◎。(コーヒー美味しい)

 

まだまだ時間は早いので、戻らずに山の中へ向かう。

見えた!神社。

白川(喜和田)神社  広島市佐伯区下河内佐古谷

畔道を伝って近くへ。

扁額には「白川神社」

やや草が伸びていますが、境内は整備されています。

令和3年に河内地区町内会連合会が作られた説明板がありました。

看板を見てここに一社あったのかと驚きました。

ここに書かれたように明治40年に昔から地域の氏神様として信仰されて

いた白川地区「新宮神社」が、国の政策で広島県の指示により行われた

河内地区全域の神社を一社に統合する動き(一村一社政策)により、残

るのは河内神社一社で、その他の神社は神様を河内神社に移し廃社とな

りました。

 

河内神社にある説明板(2月1日のブログから)

河内神社の案内板に書かれた、下河内村から合祀され無くなった神社が

ここの白川新宮神社だったのです。

(その時に、狛犬さんは神様と一緒に河内神社へ移されることなく廃棄

されました…。この規模で狛犬さんが無かったとは思えません。新しい

合祀先の河内神社の狛犬さんは、大正6年に合祀神社の工事中に奉納され

たもの一対のみで、他の合祀神社の狛犬さんも全く移されていません。)

 

看板に書かれたように、地区の人達は心の拠り所「鎮守様」をもう一度

と、地区の小詞を移し社殿を建て(合祀されて廃神社となったお社を移

したかもしれない)「白川神社」の名で、祭りを継続したわけです。

 

同じく合祀され一旦消滅し、再興された一社に日吉神社があります。

権現さんの説明板(1月31日のブログから)

 

さて白川神社を詳しく見てみます。

拝殿&舞殿

ご本殿

本殿への階段など新しくされています。氏子さん達が今も維持

管理の手を入れられているのが伝わります。

 

屋根にはハトの焼き物が向い合い、神紋は三つ巴で八幡様。

本来の神社の神様大己貴命(オオナムチ)は出雲大社の大国主命と

同じ神様ですから、一般には神紋は「二重亀甲に剣花菱」なので、

他所から八幡様の社殿を移したものと考えられます。

(大己貴命神社で三つ巴の神紋も無くはないのですが…)

屋根にも三つ巴

拝殿で参拝。パンパン拍手

秋になると周辺や境内の紅葉、イチョウの黄葉が見事だそうです。

山里の美しい姿の神社です。

 

土曜日の長い話はまだまだ続きますが今日はここまで。

お付き合いくださってありがとうございます。<(_ _)>

 

また次回

 

 

今日も狛犬さんは「出られないのか!」と泣くかも…。

昨晩は早寝をして、草木も眠る丑三つ刻に、目覚ましピリピリで起床。

 

今日は、広島市が企画した観光キャンペーンに参加しました。

自宅を3時20分に出て草津漁港の広島魚商協同組合へ向けて一っ走り。

 

雨が続き、台風の接近も予想されるので漁は大丈夫か、開催されるのか?

心配しましたが、「この程度なら漁には出ます。準備も出来てます。」OK

 

広島市中央卸売市場の一区画が漁商協同組合なのですが、広い敷地でどこが

事務所かうろうろ(全国で4番目に面積の広い卸売市場との話でした)。

何とか集合時間に滑り込み。

 

市場の見学からスタート

お子さん連れの方も。子供さん、よく目が覚めたねェ!

セリを見ました。地物で今朝入ったもので触ると動きます。

やはり天候の影響もあって漁は少ないそうで、「いつもならここら

一杯のトロ箱で足の踏み場が無いけれど、今日はねェ。」だそう。

始まると、決まるのはあっと云う間、一瞬です。

落札した仲買さんの番号を書いてケースへ入れる。

やっぱり少ないんだそうです、みなさんそう言ってました。

次から次へと売れたケースが運ばれていきます。

料亭や割烹などは天然のもの優先ですが、量販店や大衆向けの店

等は、標準的なサイズ、重量を求めるので養殖物が別に置かれて

います。

鯛は圧倒的に養殖だと。生け簀に入れて保管のときにはケースに

中仕切りをし、中に縦に入れて、効率よく傷つけずに大きな水槽に

入れて保管していました。

実物を生け簀から出して見せてくれました。青色の仕切りの

間に鯛が入って、ケースで生け簀に入れてあります。(ちょっと窮屈…)

 

養殖ぶりは、生け簀で泳がせています。(黒い影、見えにくいかな)

 

さあ、小イワシの水揚げとセリの見学です。

あさ4時からでないと獲れない決まりがあり、宮島裏側の漁場で網を

使って獲りますが、新鮮な朝一番が売りの小イワシなので、漁船は

大急ぎで漁場から戻ってセリにかけるのです。

 

一番船は隣の桟橋に着いて

一瞬遅れてこちらの二番船が着きます。

もう戦場!

バケツ一杯がトロ箱に一杯の勘定。

当然、網に大きな魚も一緒に入ります。

天然ものです。どこの料理屋へ行くでしょうか?

ピチピチと跳ねて、トロ箱から出てしまいそう。

 

小イワシのせり

一番船と二番船で、一番船がご祝儀なのか高い値が付く。

これも一瞬で終わり、引き取られていきます。

 

さあ我々は、小イワシの「しごう」(片付けというか処理というか

広島地域の方言です)します。

大きなキッチンで、「しごうの仕方」を習って、全員で刺身造り

です。あまり上手にできず身が残るのが多くて小イワシに悪い。

ゴメンね(>_<)

エラの脇からプラテープを身に差し入れ骨に沿って引きますが、

身に入れる角度、押し込む強弱、引く方向など、これがなかなか

上手くいかないのです。

水で何度も洗って、出来上がり。(水で何度も洗えばタイの味!と

云う人もいますけどね)

で、用意していただいたお寿司を一緒に頂きます。

美味しい!小イワシも!大満足!

お土産まで頂きましたよ。

夜明けの7時前に終わりました。

大勢の方々に準備頂いて、楽しい体験をすることができました。

ありがとうございました。

 

事務所に神棚がありました。えびすさんです。パンパン拍手

美味しいお魚をありがとうございます。

 

今日も長い話にお付き合い頂きありがとうございました。

広島に来られることがあれば、ぜひ小イワシを召し上がれ。

刺身、唐揚げ、天ぷら、どれも美味しいですよ(*^-^*)

 

また次回

日曜日、広島の奥座敷「湯来温泉」に蛍の出る頃だと思い、ちょっと足を

のばしてみました。先日書いた「芸北の狛犬さんたち 佐伯区打尾谷」の

手前、少し広島に寄った、昭和時代に繁盛した川沿いの温泉街です。

風情のあった旅館街も、会社ぐるみで行う納涼社員旅行や一泊

酒飲み忘年会が無くなり、今や食事処と露天風呂が残るだけ…。

新しくなった国民宿舎がひとり頑張っています。

 

夕刻6時に家を出て、車で約30分で湯来温泉に到着すると、なんと

国民宿舎を中心に「ほたる祭り」がこの週末開催されていました。

国民宿舎前の舞台と観客広場です。

子供たちが遊びながら暗くなるのを待ちます。

屋台の店からは美味しそうな匂いと、何を焼くのか立ち上る煙。

さて、看板を眺めて何にしよう?

定番の焼きそばと焼き鳥をお腹に入れました。

日が落ちて次第に暗くなってきたので、温泉街にある

「湯の神神社」へ行ってみることに。

お参りします。ぱんぱん拍手

意外だったのが、湯来温泉は戦後1950年に新しく開けた温泉でした。

江戸時代に浅野の殿様・姫様がこちら迄、湯に入りに来られたのは

もう少し川筋を下った東に位置する古くからの「湯の山温泉」でし

たね確か。そこもいい温泉地です、また機会があればご紹介します。

 

とっぷり暮れて、周りは真っ暗になって、AIで補正してもこの暗さアセアセ

8時を回ると、ほたるがふわりふわり飛び始めました。

(しかし私の腕では「ほたる」写真は、単に真っ黒なだけ笑い泣き

谷の両側の樹々の中から次から次に現れてきて。

子供たちから「あっ、あそこ!」「こっち、こっち!」の声が

あがります。

広島は土曜日が雨でしたから、この日は大勢の観客に驚きながら

顔の出せるほたるが全員でふわふわと歓待してくれました。音譜

(雨上がりで、少し蒸し暑い夜に蛍が一番多く出るとかで、

昨晩はいいタイミングでした。)

 

残念ながら湯の神神社に狛犬さんはいませんでした。(>_<)

 

しかし、2回続けて狛犬さんが出ないのも寂しい。

湯来温泉の近所、田布地区の臺神社の狛犬さんを以前撮った

もので、ご紹介します。

臺(だい)神社  佐伯区湯来町多田の田布地区

 (標柱) 神光照四海  萬家〇和平 (〇不明)

  神の光は四方を照らし 民はみな穏やかな暮らしを享受する(?)

狛犬さん 阿形

吽形

昭和57年の比較的新しい狛犬さんです。

臺神社の「臺(だい)」がなぜ付いたのかは、残念ですが分かりません。

 

ここには大きな枝垂桜があり、神社の前を車で走りながら「春が来た」

と楽しんでいました。 5年位前(もっとかな?)でしたか台風か大風で

太い幹が折られ、伐られてしまうのかと危惧しましたが、樹医さんの手

当が行われたのか、少しづつ若い小枝が伸びて来たように思います。

頑張れ枝垂桜!

 

またまた長い話に付き合わせました。

ご容赦ください<(_ _)>

また次回。