人間死んだあとは、知り合い各個人のデータフォルダに写真か動画か音声かスローガンか、有価証券や固定資産などの字面で収まって、あとは良いとこ取り的な感覚で好き勝手に、時には錯誤されながら引き合いに出されるだけです。

泣かれても一瞬、思い出されて寂しがられても一瞬、遺した金品に感謝されても一瞬、次の瞬間には他の話題で嬉々とされる、いま実感とともにある自分も最後は焼却され、いずれは彼らも焼却される、そこから何を紡げるでしょう。

どこか空虚な感覚を色んな事象の解釈や信仰や自身の社会規範との整合性で紛らわすのも乙でしょうが、自分が自由に意味づけしている世界観や感情の切れ端の連鎖のなか何となく耽溺している心の情景も、何れ無くなる時がきます。

他人のズリネタにしかならない事を忌避して好き勝手に生きても今度は酒席のツマにしかならないとして、肉を引き千切って何処かに冷凍保存してでも生存を証したいまでに至ったとしたら、その時の瞳は何を捉えているでしょうか。




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