風香の不思議
第三集
第三集回想 ― 白ちゃんの背中
祖父は町中に大きな家を建てた人でした。
けれど
その家は戦争で焼けてしまいました。
祖父は三軒長屋も持っていて
焼け出されたあと
その家を明け渡してもらい
家族はそこで暮らすことになったそうです。
私は、その三軒長屋で生まれました。
八ヶ月で生まれた未熟児でした。
六月の蒸し暑い頃だったと聞いています。
まだ保育器などない時代。
私の周りを木で囲い
その外側を蚕の真綿で包み
四隅に湯たんぽを置いて
温めながら育てたそうです。
その話を聞くたびに
家族のぬくもりに守られて
私は生き延びたのだと思うのです。
長屋では
しばらく家族みんなで暮らしていました。
そこには
大きな白い秋田犬がいました。
『白ちゃん』といいました。
三歳のころ
私はよく白ちゃんの背中に
乗せてもらっていたそうです。
大きな背中は
きっとあたたかくて
やわらかくて
安心できる場所だったのでしょう。
私は覚えていなくても
家族が何度もその話をしてくれました。
やがて長屋の周りが区画整理のため
立ち退きになりました。
突然のことだったと聞いています。
私たちは歩いて三十分ほどの
紀の川に近い広い畑の一部を買い
そこへ引っ越しました。
町中の暮らしから
川風の吹く土地へ…
けれど
白ちゃんは一緒に
行くことができませんでした。
神戸の父の取引先へ
もらわれていきました。
父の話では
建具の集金でその家を訪ねたとき
白ちゃんはとても喜んだそうです。
遠くから父を見つけると
しっぽを振って駆け寄ってきたと。
その様子を想像するたびに
胸が少しきゅっとします。
昔は、仕事の代金は集金に行くものでした。
父は月に一度
神戸や大阪へ出かけていました。
朝早く家を出て夕方には戻ってきます。
帰りには阪急デパートに立ち寄りました。
チョコレートは板チョコで
銀紙をめくるとぱきんと割れる
あの甘い香りのするものでした。
紅茶は量り売りで
小さな紙袋に入れてもらってきました。
袋を開けると
ふわりと異国のような香りが立ちのぼりました。
あの頃の私たちにとって
板チョコも紅茶も
都会の匂いがする特別な贈りものでした。
父が帰ってくる日の夕暮れは
いつもより少し明るく感じられました。
紙袋の音
包みを開けるわくわくした気持ち。
その甘い記憶は
今も胸の奥にやさしく残っています。

