おいらの恋人みたいに仲良くさせていただいている瀬織津姫様、近場だと聖蹟桜ヶ丘の一之宮にある小野神社が最寄り。今日は府中の東京競馬場で愛馬が出走するのでその応援に駆け付け、帰りに小野神社に寄ってきました。

 

 小野神社ってのは武蔵国の「一之宮」で、その分国(この場合は武蔵の国)で1番格が高い神社ということ。地番も「東京都多摩市一の宮1-18-8 」ですからね。

一之宮とは、中世に全国的に確立した、国内における神格の格付けで、国内第一の鎮守という意味です。
南北朝時代に成立した『神道集』の記載にも『一宮は小野大明神』という記載が見られ、一宮=小野神社(当社)であることが確認できます。武蔵国内には一之宮小野神社(当社:多摩市)を筆頭に、二之宮小河神社(現・二宮神社:あきる野市)、三之宮氷川神社(さいたま市)、四之宮秩父神社(秩父市)、五之宮金鑚(かなさな)神社(児玉郡神川村)、六之宮杉山神社(横浜市緑区西八朔)が編成されていたことが分かります。(上図参照)
国司が任国に赴任した際には、国内の主要な神社を参拝したとされており、武蔵国の6つの神社もそうした神社であったのでしょう。特に一之宮は、国司が最初に巡拝したと考えられます。
武蔵総社・六所宮(現・大国魂神社)の境内には、この6つの神社が祀られています。総社は、国内の神霊を一箇所に集めた神社で武蔵国の場合は、国府内にありました。六所宮の例大祭(くらやみ祭)では、境内に祀られている一之宮から六之宮の神輿が出御し、かつて6つの神社が六所宮に集結したようすを残していると思われます。
一之宮から六之宮の位置は武蔵七党など武士団の分布に深くかかわっていると言われています。小野神社は横山党・西党、小河神社は西党、氷川神社は野与党・足立氏、秩父神社は丹党・猪俣党、金鑚神社は児玉党、杉山神社は横山党など、それぞれの武士団の影響下にあったと推測されます。

 

御祭神: 天ノ下春命 瀬織津比咩大神

当社は安寧天皇一八年二月初末の日御鎮座と伝えられ武蔵国開拓の祖神である天下春命(あめのしたはるのみこと)を主神として御奉祀申し上げて居る由緒ある神社である。御社名は上代此地の呼び名であった小野の郷に由来するものであるが其の霊験の灼かなる神社としてやがて朝廷の上聞にも達せられ数々の奉幣にも預かり元慶八年七月には正五位上の神階を授けられた。又、廷喜式が撰せられた折には武蔵国八座の一社として登載された。且つ国府の近在なることに由いて国司や住民の崇敬も殊の他篤く総社六所宮創建の砌には東殿第一次の席を与えられて一之宮と称された。然して当社の社伝には永承六年源頼義陸奥守に任せられて下向の途次其子義家と共に参籠され太刀一振りと詠歌一首奉納の事績が繙かれ吾妻鏡にも養和元年四月一宮は吉富井蓮光寺と併記され更に建久四年八月の刻印ある経筒の銘に一宮別当松連寺が記録されている。稍時代も下り安居院の神道集並に深大寺の僧長弁の私案抄を尋ねると当社は中世以来文珠菩薩を本地となした信仰も行われていた。斯くなる所此の近在は鎌倉末より戦国時代にかけて度々の戦乱や多摩川の氾濫があり当社にも多大の被災が及び衰微したが徳川二代将軍により造営再興された。
其の棟札に曰く

一宮正一位小野神社造営再興
慶長十四年十二月廿六日
当将軍源朝臣秀忠公

 

 

 瀬織津姫様はおいらを気に入っておられるので、勿論、天気は晴れ(スピイベント①)

 境内の全貌はこんな感じです。

 一之宮にしては小振りで、空間が広いですね💦。

 右側に手水舎があるので、忘れずに手水を使います(←コレ大事 諏訪大社下社春宮で神様に叱られましたから💦)

 まぁそんなに人が来るわけではないので、ちょろちょろと流れてます💦。

 それでも何人かいますね。

 待っている間、本殿の中をよく見ると、正式参拝されている方が居ました。

 この神社としては珍しいですね💦。歓迎のサインとして、ご相伴にあずかりました(スピイベント②)

 特筆すべきは、バリアフリーになっていて、車椅子でも左側の傾斜道をジグザクに登れば本殿前まで行ける様になってます。

 

 

 おいらは神社では特にお願い事はせず、ご挨拶と感謝の意を示すだけです。

 

最近、瀬織津姫様の御朱印も始めたとかで、次回、貰いに来ようかと思ってます。ありがとうございました。

 

 ちなみに愛馬リリエンフェルトは②着争いにハナ差で負けて3人気で③着💦。