この本、いつかおいらのBlogでも言及したことあったような気がしたけど、再度、思い出したのでリブログついでにコメントしておく。まずは本書のあらすじはこちらのブログを参照ください。
要するに、原君の通っていた7小で行われていたことは、日教組の教員による生徒の奴隷化に他ならない。教員が絶対的な正義であり、平等という名のもとに生徒が反論できないように追い込んでいった。開成を受験して失敗してKO普通部に入学した筆者の原君(何故か早稲田卒)はそうした教育に違和感を持ち、同じ仲間であるべきはずの教駒(筑波大学付属駒場)に入った小林君(ホントはO森君とE原君の合体がモデルってのは知る人ぞ知る)に共感を求めるけど、小林君は教員側についてしまって原君は絶望するという話。詳しくは本書を読んで欲しいのだが、かなり実態を反映し、当時の原少年が感じた息苦しさがよく表現されていると思う(おいらもちょっとだけ出演してます)。
で、おいらが言いたいのは(前にも言った気がするけど)、おいらが通っていた「隣の小学校」でも同じ試みが日教組のS教員によってなされたけど、「失敗した」ってこと。そこではS教員に反旗を翻す学級崩壊と校内暴力が起き、教員が生徒から暴行を受けることも頻繁に発生、校長・教頭を含む教科別担任制が2学期から敷かれ、結局、エリートである東京学芸大卒のS教員は2学期末でお役御免(その後は担任は無しで、1年後に結婚退職)、3学期からは別の教員が他校から赴任してきたって話で、市の教育委員会でも周知の問題となっていた件。小学校5年生なのにね💦。
そう言えばこのS教員、まだ1学期初頭の頃、生徒に「メッ!」という叱り方をしていたけど、このセリフは信頼関係がある親しい間柄でのみ成立するもので、他人である教員と生徒間では「気持ち悪い」と嫌悪されていたのがそもそもの始まりだった様な気がするね、思い起こせば💦。
実は7小の生徒の家庭環境と隣の小学校の家庭環境は若干異なる。7小は賃貸団地の住人が多いのだが、隣の小学校は分譲団地と戸建ての住人が多いから、生徒の育ってきた環境も異なる。だから、この本に書かれていることは滝山コミューンと言いながら、「滝山」全体の話ではないってことね。
おいらが通っていた隣の小学校で日教組の企みが失敗した理由は、生徒が教員に「教員であるが故の権威」を認めなかったこと。実はおいらのクラスでは不良グループによる校内暴力が日常的に授業中でも行われていた。実際、おいらも授業中に不良のボス(I村春樹)に後頭部を文鎮で殴られて頭蓋骨が陥没し、今でも治っていない。彼らは結構いいところの家の生まれで、中には東京大学経済学部教授の息子も居た。そうした無法地帯を放置しながら、生徒としてのあるべき姿を要求する教員には違和感しか感じなかった。「教員としてすべきことをしないのに、どの面下げて生徒に要求できるのか?」これは校内いじめを制御できない最近の教員にも言えることなのではないか❓。
「この地獄がいつまで続くのか?」というのがクラス皆の思い、心が弱かったら自らを・・・ってのも有り得ないことではなかった。おいらは不良グループが進学する近くの公立中学校(西中)へは行きたくなかった。だから中学受験をして、彼らから離れる道を選んだ。
教員であることを以て「正しくないこと」や「価値観の違うこと」への従順を頭ごなしに求める教員の言うことは、聞かない。不良グループを制することのできない無能な教員のことは「先生」と呼ばず、クラスの皆が「先公」って呼んでました。こういう生徒側の教員の指示を拒否する態度が日教組の失敗の原因で、この点が「教員に褒められる(=奴隷である)ことが嬉しい」を選択した7小とは決定的に異なる。
低い方に合わせる授業なら不要、そんな糞授業は聞く必要ないから「自習してるわ」、教員としても人間としても軽蔑すべき存在の先公に褒められる必要はない、ってのがおいらの態度。四谷大塚 の「野国二」なんだから、指されればちゃんと回答できちゃうんで、なんか問題でも?💦 まぁ通信簿に「協調性に欠ける」とされたらしいのはご愛敬。知らんけど。
<日教組による奴隷化教育>
・政府や行政の言うことを信じて聞く
・マスゴミの言うことを信じて聞く
・専門家の言うことを信じて聞く
政府・行政・マスゴミ・専門家、どいつもこいつも頭悪いのにね。政府やマスゴミが言うことを頭から信じない、こうしたおいらの態度は小学校時代から既に醸成されていたんだなぁという思い。
自分の魂に問いかけて、自分で考えましょう、これが言いたかったんです。