ときどき僕は、人が生まれて何のために生きるのかと思う。赤ちゃんが泣きながら初めてこの世界にやってきて、目的も原因も何も知らない。

 

恐竜のことを見てみると、地球を寄ったパッセンジャーだ。出現から現在まで、自分たちが昔存在したということを証明する跡しか何もかも残していない。人間もそうだろう。数百億年後、人類の化石を発見するのはどんな生物なのか、おそらく僕たちには想像できない。

 

いわゆる生命とは、繁殖と殺戮、生存と死亡にすぎない。人間はミツバチの一生はどう過ごしてるかに無関心のように、この世界にとって言いに値しない。人類の出現は、この世界の発展する原因ではなく、結果である。生命の存在はこの世界に何の意味をするのか説明は難しいが、他の生命の存在しない惑星がそれなりにずっと太陽を中心としてまわって運動している。

 

古代人は不老不死を、現代人は死ぬより生きた方がお得といったふうに、生きることはすでに人類の執念になった。生きるということが大事に見えるが、確かに死んだら何にもならないけれど、大したことではない。死というのは必ずしもネガティブとは限らない。監禁され侮辱されている人には死んだ方が楽だ。病に苦しんでいる人には生きることは苦難だ。社会で苦労して結局お金も何も得てない人は幸せを覚えないだろう。生きていてよかったという人がいるなら、生きていて不幸という人もいるではないか。

 

そうしたら楽になった。普通の人にとって、生きるか死ぬか、状態の一つにはすぎない。大したことではないから、生きたいなら生きろ、生きたくないなら天国かどこかへ行っても悪くはない。本当に大したことではないよと、僕はそう言いたい。朝飯のように、今日はお粥を食べるか豆乳を飲むか、完全に自分の好きにしていいくらい。そうしたいならそうすればいいという、それ以上のことはない。

 

だったら、生活で屈託している人たちが、抜き出したいなら、合理的理由さえあれば構わない。生活で楽しんでいて、これからもちゃんと生きていこうという人とか、ちょっと難しさを感じたがやっぱりがんばったらよくなるだろうという人はきちんと生きているべきだ。だって命を持ってて結局落ちぶれて天国の人より惨めなわけがないだろう。

 

しかし大部の人が、この世に生まれて、命を持っている。惨めに何にせよ、社会の価値観が期待しているようすじゃなくても、その命を奪う権利を持つ人はいるまい。これがこの世の全部の罪悪の根源である。人間とは言えないほど好きに罪を犯しても、他の人は自分の生活や行動を交渉する権利がない。人間が生きる時この世にもたらした罪悪、何か積極的意味があるのかと、僕は常にそう思う。どれほど善や恩恵にしろ、悪意の相手にはならない。すると人間がいつだって繁殖しているが、善と悪の間で徘徊していて、ゼロサムになったものだ。

 

僕は新時代の大学生として、昔の愚昧な思想に嘆くことは少なくない。例を挙げると、「年々有余」、「豊衣足食」、「多々益善」といったふうに、中国人は「多く」ということを追い求めている。これがいいかどうかとりあえず置いておき、必要最低限を足らした上、この「多く」をキープすること自身は代償がかかる。簡単に言えば、銀行で口座を開いて貯金しなくても管理費がかかるように、余ったことは自分で何とかしなきゃならないわけだ。しかもそれが清潔の不便やお金とスペースの浪費になるのではないか。

 

僕は中国大陸に住み、家は小さい頃から広い部屋であり、ほとんど狭い生活を過ごした経験がない。しかし近年、香港の「トンフォン」と日本の独身寮が出てきて、現代社会でビッグハウスは必須アイテムではなく、中国人の「大きい家庭」という観念も歴史になることが明らかになった。

 

人は自分のために生きている。

 

現在までも、中国のある地方で、女の子が育ったら、親や兄弟のために努力を尽くして、稼いだお金を兄の仕事の応援や弟の結婚に奉献すべきだ、という観念を持つ人がいる。小さい時からずっと「道具」と扱われて、苦労して育ってきた女の子は、彼女の命も、人格も、自分のためじゃなく、他人のためであった。人間だと扱われたことがなく、ただの道具、もうける機械だ。もし人間が生まれる前に自分の将来を見通せれば、そういう人生を過ごしたいという人がいるか。哀しくてならない。

 

次に、生きるならそうらしく生きろ。

 

生きるというのは一日三食と九時五時に違いない。だが、人間は報復や仇作りのために生まれたわけではない。人間は他人じゃなく、自分のために生きているから、誰にも自分の生活を楽しむ権利がある。人の生活に楽しみを持ってきたら幸福だ。人を不幸や苦痛にしたらむしろ消えてしまった方がいい。

 

この世界で広げている寂しさや孤独は、人間の生活根源である。物理的に協力しなければならないが、心理的には孤独だ。人間は必ずしも絆を作るとは限らない。人生は結婚して子供を抱くとも限らない。一人暮らしも悩みをなしにしてくれるし。どうしても子供を育てたいなら、少なくとも人生の二十年間は子供のためであった。どうだろう。特に現代社会、子供の将来の養いというより、どうやって育てたらいいのか、せめてこの点で望みをかけられない人はどれほどいるだろうか。