それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。 あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。 また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。 しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。 (マタイによる福音書 6:25-33 JA1955)
これは、山上の垂訓の一説で有る。
イエスキリストの3年間の公生涯の中で最も華やかな時に語った言葉だ。
30か31ぐらいだろうか?
知っての通り、彼の父親は分からない。
ユダヤ社会の中で、不倫の子は、存在意義を認められないほどいじめを受ける。
彼とて例外では無い。
いじめに耐えきれなかったのか、両親の喧嘩の種になるのを悲しんだのかわからないが、若い頃は、インドや周辺諸国を旅していた様な記述が、外伝には出て来る。
何にせよ、彼の言葉は半端ない苦労の連続の中で、発見した真実の言葉であったと思っている。
ユダヤの王ダビデと比較されることが良く有るが、詩篇を読んでもわかるとおり、ダビデも常に内憂外患の激しい苦労の連続を歩んできた人物だった。
そいう情景を思いつつ、その言葉を読み返して見ると、色々な事が思われる。
今日洗濯物を干している時に浮かんだ言葉がマタイの6章33節だ。
昨日から妻が、何とかの表彰で沖縄に出張。
今日は弁当をレンジで温めつつ、お湯を沸かし、洗いが終わった洗濯物を干しつつ、ぼんやり考えていたが、その時浮かんだ聖句。
「まず神の国と神の義を求めよ。」
続きはまたいつか書くかもしれないけど、ひとまず備忘録代りに記入。
iPhoneからの投稿