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オオルイ コード

世界中の様々な地域の医療問題に取り組む国際医療支援団体Future Codeで代表を務める医師 大類のブログです。日本の文化から、また活動を通して途上国の現場から感じたことや、経験から思うところを綴ります。

さて。前回から2011年の東トルコのエルジシュという街が倒壊した地震の時についての事を書いています。
実は仕事もかなりばたばたしてまして、不定期掲載と宣言して始めたこのブログですが、最近さらに不定期度が増す毎日ではあります。
しかしながら、この記事だけはどうしてもこの時期に上げておきたかったのでなんとか掲載できるまでに至りました。

自分の中でも忘れられない、として忘れてはならないと思う事はいくつかあります。前回はドライバーのクルド人の話でしたが、この東トルコ地震の現場からは、もう一つの忘れられない出来事がありました。

それはこの当時の活動の中で出会った日本人の方です。


彼の名前は宮崎淳さん。

支援物資を被災者に届けるために他の支援団体から3人で派遣されて現場に来られましたが、被災地の情報は錯綜しているため、泊まる場所の確保も困難です。

私が日本人で最初に現地にいたために、とりあえず現地の情報をシェアし、とりあえず急には止まる場所の確保もできないため、私たちが使っていた学生寮に来ていただき、ここの部屋で2日間過ごすことになりました。

彼とは最初に学生寮のロビーでゆっくり話をしました。




彼にとってはこれが最初の現場だったそうです。
「日本で現場に出たいと思いながら長らく仕事をしてきましたが、やっと現場に来れました、これから被災地に貢献したい」と強く語っていました。

彼の印象としてはやさしさと謙虚さが伺え、大変好感が持てる方でした。

私たちはそこから情報共有し協力しながらお互い日中はそれぞれに活動を続けました。
活動が進んでいく中で、「おかげで支援物資を届けることができそうです、嬉しいです」と話をしてくれました。

それから間もなく、彼は「ホテルが見つかったので、ここにこれ以上迷惑をおかけできませんので、ホテルに移動します」というので、どのホテルかと聞いたところ、知っている名前のホテルでした。
なぜなら最初に私が泊まろうと思い、連絡したところ、満室だし、しばらく空きはない、と断られたホテルだったわけです。
タイミングでしょうか。彼がホテルにその時に聞いたところ、部屋がある、と言われたとのことでした。

「運が良かったですね、私はそのホテルに数日前にまったく空きは出ないと断られましたよ」といい、彼とメール交換をして、お互いに「同じ現場で一緒に頑張った日本人同士です、また東京でお会いしてぜひ一杯飲みましょう」と言って彼と別れました。

私たちもその数日後、予定していた活動をすべて終えて帰国の途につきました。



彼が亡くなったのは私が日本に帰ってすぐでした。


彼の泊まっていた、あのホテルが余震で倒壊したためです。


私たちは日本で再開する約束は果たすことができませんでした。

彼の事は、もちろん深くは私も知ってはいません。
しかし私は彼の現地に対する想いは知っています。

そして彼は今でも現地の人々から感謝され、その名前は現地の病院の名前や、公園にも「ミヤザキパーク」と名前が付けられ、東トルコ、クルディスタンのワンという場所で生きています。
これが2011年の11月の出来事でした。

宮崎さんのことは、当時は多くの報道がなされたので、もしかすると覚えておられる方もおられるかとも思います。
しかし年月が経てば、この現場を経験している私でさえも、やはりいろいろなものを忘れていきます。
また、おそらく人間の一生の中で、自分で体験できる現場の数も限られたものでしょうし、そこにいた人間だけがわかること、知ることができたこともあるのだろうと思います。
実は前回からのこの話は、私の中でもいろいろな葛藤もあり、震災後3年間程は話さなかったのです。

しかしながら、自分も含めて、良い意味でも悪い意味でも、人は忘れていくものだと思います。

だからこそ、その現場にいた私は、先に逝った人の想いを知る人間として、この話を自分の中だけで留めず、こういう人がいたんだよ、と話していくことも大切なことではないかと思うのです。


少し思い出せば、一つの現場には、他にもたくさんの大切なものがあります。

私の場合は何度も何度も途上国の現場には行くわけですが、そのひとつひとつは決して同じではありません。
そのひとつひとつの想いや経験が今の私を作っています。

私もまた「震災を忘れないこと」の意味を考え、私なりに大切にしていきたいと思います。