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オオルイ コード

世界中の様々な地域の医療問題に取り組む国際医療支援団体Future Codeで代表を務める医師 大類のブログです。日本の文化から、また活動を通して途上国の現場から感じたことや、経験から思うところを綴ります。

今日は毎年のことなんですが、2011年10月23日に起こった東トルコ、クルディスタンでの震災の事を思い出しています。

あれから5年。今となっても私にとって忘れることのできない、2つの出会いと別れがありました。
それを2つの記事にして、今日はそのうちの一つをご紹介したいと思います。

私は当時、他団体に所属しており、この地震の直後に緊急医療チームの一人として現場に入りました。
この地震はトルコの東部、イランやイラクの国境付近、ワンという場所の中のエルジシュという街が被災したものです。




今日の話は、活動の話ではなく、私たちのチームのドライバーだった現地の方です。

当時私は医療チームのメンバーとして地震発生直後に現地に入り、特に最初の数日は次々と運び込まれてくる患者の治療に休む間もなく活動していました。




この時期の現地はとても寒く、夜には吹雪も吹く状況で、しかしながら余震のため建物内は危険なために、数日はテントで寝泊まりしていました。このような厳しい寒さの中、被災者の多くはテントもなく、毎日テントの配給に数千人が集まっているような状況です。

もちろんテントでの生活は電気もなく、水も救援物資のみです。日の出と共に起き、日の入りと共に眠ります。

しかし数日に一度は日本と連絡を取る唯一の手段である携帯を充電したり、体を少しでも洗うために被災地から少し離れた場所で休める場所を探しました。

現場から車で60Kmほど走った場所にはまだ営業しているホテルがあり、当初私はここに宿泊しようとしたのですが、残念ながらもう満室で部屋がもうしばらくは空かない、と言われ、そこをあきらめ、また少し離れた先にあった大学の学生寮の一室を使わせてもらっていました。

そこも十分に電気も水もない状況ではありましたが、被災地でのテントでの生活は寒さもあり、体への負担は大きく、このまま続けるとあまりの寒さに医療チーム自体に体調不良の者が出てしまう可能性があったため、この学生寮に拠点を移し、朝日の出と共に起きて、医療現場まで現地で雇ったドライバーに毎日送ってもらうことにしました。

このドライバーの彼は、ひげを蓄えた、がっしりした大柄な体つきの40歳くらいのクルド人で、どちらかというとかなり無口な人です。


正直私は彼の事は、現地の協力団体からの推薦があったために雇用したので、現地出身のある程度信用できる人、というだけであまりそれ以上の事はその時は知らなかったのですが、彼の息子さんの一人がこの地震で行方不明となっていました。


もちろん言語の問題もあり、しっかり仕事はしてくれる人だな、という印象はあるものの、通訳を介して仕事の話しかしていませんでしたが、活動開始から数日が経過したとき、異変が起こりました。


彼の様子がおかしく、今までは私たちの活動時間は毎日、日の出から日の入りまででしたので、彼から今まで何も言ってくることはなかったのですが、今日は早く帰りたい、と言うのです。



当初これは一体どうしたのかと思い、通訳に彼のことについてどうしたのか、と聞いたところ「先ほど彼の息子が発見された」という事でした。。。




その日は日の入りも近づいており、学生寮に帰ることにし、彼は寮に私たちを送ってからすぐに帰っていきました。

彼にかける言葉が見つからないままで、言葉に言い表すことは難しく、ただ想像するにこの状況で彼に仕事を頼むことはできないことだけは分かっていました。

そこで通訳と相談し、何とか明日に別のドライバーをなんとか手配して明日現場まで送ってもらえる可能性を探ることとして、被災現場につけばテントで再び寝泊まりをして活動を継続することにしました。

私は彼に明日からの数日は家族と共にいてほしい、と思い、そう彼に伝えてくれ、といい、何とかして残りの日数の自分たちの務めを果たすことを考えました。
もちろんこれはリスクであり、明日に現場に行ける保証もなく、行けたとしてもテント生活をもう一度するわけですが、派遣された私たちは、最後まで現場に全力を尽くす務めがあります。その時その場所ではこれができる最善の方法でした。


私はもし自分が最愛の家族を失ったなら、きっと何も手につかず、心行くまで泣きたいと思うでしょう。

しばらくは悲しみに支配されるしかないと思いますし、彼が今日まで、私たちと共に、行方が分からない息子さんがいる中で働いてくれていたことに感謝を覚えました。


翌朝、夜明けと共に被災現場に向かう方法を探さなければ、と思い、不安にも駆られながら起きると、通訳の彼が私のところに来て、彼が来たから問題ない、というのです。驚きもありましたが、彼はそこにいつも通りの時間に来ていました。
私は彼に、無理することはない、休むべきだ、と言いましたが、彼は頑として仕事をしたい、と言うのです。


言葉の壁はありましたが、彼の何か決意のようなものを感じるには十分で、残りの数日の活動を継続することができたのです。

最終日の活動を終え、最後に彼に送ってもらう時に、チームメンバーの一人が彼に、「あなたと家族の大変な時期に、よく大変な仕事をやり抜いてくれた。ありがとう」と通訳を介して伝えたとき、彼は静かに泣いていました。


直に言葉で聞いたわけではありません。


しかし彼がなぜ仕事をつづけたのか。
しかし、現場をともに闘ったあの時の私たちにもその理由に確信がありました。

彼は最愛の家族の死を受け、だからこそ医療チームである私たちを現地に毎日送迎することにプライドを持ち、勇敢にそれを貫き通したことです。
そこに言葉はありませんでしたが、今、思い返せば、私たちもその気持ちを胸に、日々現場に向き合っていたのだと思います。

死がすぐそこにあるような現場。そして過酷な現実。
しかし、そんな中でも彼の息子さんを愛していたその気持ちの強さがそこにあり、悲しみの中にも、人の純粋な想いがありました。