バングラデシュの変化の中で。特に理由なく今まで語られなかったエピソード | 認定NPO法人 Future Code

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国際医療支援団体である私たちは「世界中の医療に、未来への鍵を」をコンセプトに、医療問題をベースとして教育、公衆衛生など様々な世界の問題に対し、日本人として何ができるのかを考え、その土地の人・文化を知り、平和構築を行う支援活動を続けています。

このバングラデシュという国に出張で来て、こうして仕事をしている中で、古い知り合いと話をする機会があり、雑談などしていた中での事。

 

この国に関わってから2025年の今年で、すでに13年が経過しており、「あのは当時、この道はこうだった」、「あの建物が建つ前はこうだった」、「メールを一通送るのにセンターまで行かないとできなくて、苦労した」、などという、じじくさい会話をした。

 

12年というと一回りというくらいの年月なわけだが、

実際おそらくこの国でのこの13年はとんでもない13年だったように思う。

(13年前の首都ダカの街)


激動の時代。あらゆるテクノロジーの進化もあり、街も様変わりし、インターネットは普及し、高架に鉄道も走り出し、また政変なども数多く繰り返された。

昔に比べて、経済も指数関数的に発展している最中、豊かな人口も随分と増え、貧富の差は拡大はしたが、平均寿命も先進国並みに上がった。

この13年という短期間で、バングラデシュでは携帯電話もなかったところから、スマホが一般にすでに普及したことに象徴されるように、日本の何倍もの速度で社会が変化したわけだ。

 

私などは日本を拠点として、よくここには来るものの、その変化は感じるものの、所詮は外から見ている人間なので、ここで生まれ育った人々にとってはまた違った感覚であるに違いない。

 (現在では高架鉄道も走っている)

 

 

そういえばあの当時は、この国でもいろんな場所に行った。

今はこのバングラデシュの我々の会社、Future Code Japan Limited(FCJ)でマネージングディレクターを務めているベンガル人のシャキと共に、何人かのチームで13年前には、南にあるシュンドルボンという世界遺産となっている湿地帯や、そのそばにある村々が巨大なサイクロンで被災したため、支援の可能性を探るために現地の調査に向かうなどもしていた。

当時は私もまだ31~2歳くらいだったわけで。

 

そういえば、この話は、実は誰にもほとんどしたことがない。

何故しなかったのか。何故なんでしょうね。特に理由もなく。たぶん話す理由もなく。

(13年前からこういう街の人々の光景はそんなに変わらない)

 

今からすれば、あの当時は我ながら夢を見ていたのではないかと思うほどの行動力で、車で10時間ほどかけて南に移動し、それだけでもかなりの疲労だが、さらに村に行くためには車を置き、ここからは川を船で移動しながら、村々に向かう。

 (当時のシュンドルボン付近の川にて)

 

この船からは、武装した二人の護衛がついた。なぜ護衛が必要?と聞いたら、このあたりは希少なベンガルタイガーの生息地で、襲われることがあるから、と。大丈夫なのか?と当然なるわけだが、まあたぶん大丈夫、と。大体毎月、村人が二人くらい死ぬけど、と。

 

何がどう大丈夫なのかも理解の範疇は超えた。

 

(上記を話す護衛の兵士)

 

ちなみに、ベンガルタイガーを見つけることはなかなか珍しいらしく、目にした者には幸運が訪れる、なんて話もあり、運良く?たまたま一瞬だけ遠くの草むらの中にその姿を捉えた時は、ボートが転覆するんじゃないかというくらい、皆が興奮していた。

ホラー映画で最初に死ぬシーンはだいたいこんな感じかと。

 

ベンガルタイガーを探したいのか、ベンガルタイガーから逃げて身を守りたいのかももう分からない。

 

現場に到着したらしたで、泥で覆い尽くされた村の中を、時に足首まで泥に埋まりながらも、村人から話を聞きながら何時間も歩き続けた。

もちろんこのときはクロックスなんて感じのゴム的なものもなかったので、履いていた靴はもれなく成仏された。

 

 

(我々が訪れた、サイクロンで被災した村の一つ)

 

このあたりの地域にはホテルなど宿泊施設は当然のごとく存在しないので、毎日、どこかの家に泊めてもらい、雑魚寝状態。

今では、このダカのオフィスで過ごす中で、シャワーのお湯が出ないからなんとかしてくれ、なんて言ってるが、きれいな水がでるシャワーがあれば、ラッキーだと思っていたことを思い出した。


この旅の道中、夜まで歩いて移動をしながら、街灯が一つしかない村で滞在した時のこと。

日本人が珍しいせいか、行く先々では我々の姿を一目見ようと、村中の人間が集まる。「初めてこの村に日本人という珍しい生き物が来た」レベル。

この当時は、携帯ももちろん携帯カメラも普及していなかったが、それでも常に人だかりに囲まれつつ、古いカメラでひたすら歩いているだけで写真を撮られたりと、この首都ダカを少し離れれば、そんな事態に巻き込まれるのは日常でもあった。

 

まあそんな状況で、村では、ほぼ不可抗力でおもてなしの連続。結果、予定は押しに押しまくり、もはや予定はどうでもよくなり、次第に暗くなると、これも不可抗力で村人らとその一つだけの街灯の下で集まって、何故かお互いの国の有名な歌を歌い合うなど、今から考えると、ある意味何とも平和な夜もあった。

そういや、うーみーはーひろいーなーおおきーいーなーって、どんずべりしながら歌ってたやつがいたっけか。


残念ながらこの村は、サイクロンによって土壌に塩害が生じ、農耕は不可能になり、おそらく現在は存在しない。

 

ただこの時も今も変わらず凄いなと思うことは、どんな状況にあっても、本当に住民は力強く、楽しみを心から楽しんで生きていこうとしている姿。

農耕は塩害で出来なくても、それならばと、この土地でのエビの養殖も始まっている。

 

まあ、そんな当時の状況だったが、寝る直前まで、この地域の医療のために、川を移動できる病院船を作ろう、とか、定期的な医療チームの派遣はできないか、など、人材も予算も何のアテもないくせに、実現させるには余りにも遠い道のりでほぼ不可能ともいえるようなアイデアを出し合いながら、暑い気温の中で汗だくになりながらも、真剣にこれまた熱くなって夢を話をしていたものだ。


 

正直、今の自分なら、間違いなくそういう旅をしようとはしない。しようとはしないというか、体力的に無理。いや、違うな。気力的に無理、か。

あの当時は、どれだけしんどい旅になろうとも、気力や興味の方が勝っていて、体力のことなど考えたこともなかった。楽しい、という感覚が確かにあった。


今もこの会社の病院建設や地域医療、農場や牧場などの事業を成功に導き、同時に人道支援としての医療を提供できる環境を作るため、努力はしているつもりだが、あの当時に考えていたことと目的は同じでも、あの時には今のような未来は想像もしなかった。

 

もちろん、純粋に人道支援ができるよう、この社会に貢献できるよう、そういう組織であり続ける理念は忘れてはいない。

 

 

あれから時代は進み、少し首都の郊外に行ったくらいでは、日本人が来たと言って、そんなに人が集まってくることはなくなった。今ではこの上の写真の子供たちもきっと立派なおっさんになっていることだろう。

 

私自身の感覚もあの時とは、良くも悪くも大きく変わった。ただ、このバングラデシュの13年の劇的な変化は、良い刺激であった。

 

しかしながら、日本においても、またバングラデシュにおいても、日常をただただ生きていく中では、目的は大義を叶えるために。

実際は、政治的な問題を掻い潜りながら、人間の嫌な負の感情などを嫌というほど感じつつ、時には不当な嫌がらせにもあいながら、清濁を飲み干しつつ、前に進む。

疲れますよね。まあどんな業界でも大体同じか。でもまあ、気力、が問題。


きっと昔と同じように働き続けられる人などほとんどいないのだろうけれど、あの時の感覚がもう一度欲しいなーと願ってしまう。

もう少し余裕を持って、楽しめるように生きていかないと、私は歳を重ねると何事も続けられないのだろう。

子供の頃に見た山はもっと緑だったし、空も青かったように思う。

(2025年に開設した首都郊外のFCJ診療所)

 

今回はダラダラと駄文を書いたわけだが、昔の事を思い出して、こうして誰にもなかなか話していなかった当時の経験なんかを書き出してみる、という行動。

これが不思議なことに、わざわざそうすることで、少しだけ、あの時の感覚が戻る気もした。

それは激動の、バングラデシュならでは、なのかも知れない。

 

「パンゲアの鍵」を書き終えてから、半年以上、やる気にならなくて何も書いておらず、これを読んでいただいた方、私の個人的リハビリにお付き合いいただきありがとうございました。

そういや、なんでこの話は、本に書かなかったんだろう。ね。

 

さ。そういうわけで、前向きに仕事しましょう。

大類隼人