NGO Future Code 代表理事/医師 大類 隼人
あの日から4年が過ぎた。
この時間の長さは、短く感じた人もいれば、長く感じた人もいるだろう。
私の中でも意見は分かれ、ほんの少ししか経っていないと感じてはいるものの、振り返れば数えきれないほどの出来事もあったと思う。
今回はあの震災に対しての事だけでなく、この4年という時間の中で、自分の経験した現場から私が思うところを少し、紹介させていただきたい。
実はこの3年間、毎年この時期は当時の医療チームメンバーと共に、私たちが活動していた南三陸町を決まって訪問させていただいていたのだが、今年は残念ながらどうしても予定が調整できず、帰国が叶わず参加できなかった。
その代わりではないのだが、当時に被災地をフランスから取材に来ていたフランス人の記者と最近になって久々に連絡を取り、彼が持っていた当時の私の映像を見る機会があった。
時間が進むとともに、自分自身でさえ、あの時の自分の様子は何か新鮮にすら映り、あの時に自分が現場に向かった時の気持ちを思い出す。
<2011年 南三陸町にて>
最初に言っておくと、今はこういった途上国での活動を行い、日本で普通に「医者」と言われる職業とは少しだけ違う生き方をしているのかもしれないが、当時の私がそういう考え方を持っていたわけではなかった。
むしろ何も知らないか、もしくは興味あること以外は知ろうとしない人間であったように思う。
あの時、テレビに映る映像を見ながら、ただ私は、深い悲しみ、怒り、様々な湧き上がる感情を感じ、同じ日本人のために自分ができることをしたい、という想いにかられ、現場に向かい、ひたすら行動することに拘った。
こういえば聞こえは悪くないのかもしれないが、もちろん医師としては、同じ職場の仲間に私がすべき仕事を被ってもらわなければできないことであり、つまり誰かの負担の上で成り立ったものであるし、何が正解であったかは今でもわからない。
ただこのような選択の連続が今の自分を形作る。
そして、あの場所での経験は今でも鮮明であり、そこで見たもの、出会った人、その一つ一つの大切な記憶が確実に今の自分の礎にあるということだけは確かであり、その後の自分の経験や価値観を創っていった。
そこから日本だけでなく、求められる場所に医療を届けるということを考えるようになり、途上国で活動し、今この英国の大学院で私が途上国について深く学ぶ機会を得ているのも、すべてはあの場所から始まった。
<2011年4月 被災地にてイスラエル医療団と>
被災地という場所で私が得た経験は、私が当初想像していたものとは大きく違った。その後の途上国での経験も想像とは違った。
なぜ違ったのか。
おそらく人間の“生きる”という部分を支える医療人として、私が何かできることを“ボランティア”として「与えに行く」と考えたこと、そしてその現場で働く自分の姿の想像、一種の憧れのような部分が生み出した想像が違ったのだ。
これはもちろん私の中だけでの話であり、価値観の問題であるのだが、「与えに行く」と考えた自分が実は活動を通じて「与えられた」と感じたとき、自分がはっきりとわかったことは、この世界という大きな舞台の中での自分の小ささだったのだと思う。
<2011年4月 南三陸町の風景>
元来、“ボランティア”という言葉は、意志、という意味がその語源に含まれる。そもそもは意志を実行する人間、そういう人の活動をボランティアと言ったのだろう。
それは決して、何かを人から頼まれたり非常事態などの状況のせいで、自分の意志ではなくても仕方なく”与えてやる”という行動ではないはずだ。
先人たちが作ってきたこの世界の中で、現代に生きていた当時の私の“意志”はあまりに小さかった。
今思えば、「生きる」ために必至で毎日、何かを考え行動したことのなかった私が、そんなことが当たり前の命の現場では、自分の異質さを感じることは必然であり、当然のことであった。
<2014年 ハイチのマーケット>
私は被災者ではないし、いくら悔しい想いをしたとしても、多くを失った人々の悲しみを完全に理解することは決してできない。
久々に見た当時の映像の中の自分にも、今見ると現実に圧巻されているような、そんな戸惑いのようなものを感じた。
しかしあの時、あの場所にいた多くの人々は、意志を持って前に進み続けている。生きる限り、少しも前に進んでいない人はいない。そして生きることと意志を持つことは似ている。
<ハイチ 孤児院にて>
私にとって、意志に従って活動する、つまりボランティア活動ができることは、実は他の人に喜んでもらえたという結果も大事だが、それより以前に行動できること自体が遥かに自分自身にとって幸せを与えてくれている。
私もまた、あの日あの場所を想いながら、自分の意志と生き方を考え続け、前に進みたいと思う。