ブッダが悟った「縁起の理法」とは | 非二元|目覚めを生きる

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縁起の理法は、八つの「不」がつく言葉で語られ、「不一不異」「不生不滅」「不常不断」「不去不来」がありますが、今日は、「不一不異」の意味についてご紹介したいと思います。


ちなみに、「不一不異」は「不一不二」とも呼ばれます。


「不一」とは、私とあなたは、「同一(の人物)ではない」ということ。


そして、不異(不二)とは、私とあなたは、別々に(単独で)存在していないということ。


同一でもなく(不一)、別々に存在しているのでもない(不異)、この関係のことを「縁起の関係」といいます。


そして、この関係は、「私」と「あなた」との間柄にとどまらず、この世界のあらゆるもの同士が、縁起の関係で成立していることを悟ったのが、ブッダでした。



縁起の関係を、私なりにもう少し噛み砕いてご説明すると、こうなります。


たとえば、私は今、この文章を書いています。


そして、あなたは今、この文章を読んでいます。


文章を書いた「私」と、文章を読んでいる「あなた」は、空間的に離れていて、同一の人物ではありません(不一)。


そして、今、この文章を読んでいる「あなた」が現に存在することで、この文章を書いた「私」もまた存在し得る、という意味で、(読む)あなたなくして、(書いた)私もなく、(書いた)私なくして、(読む)あなたもあり得ない、という「自他不二」の関係になっているわけです。


私とあなたは、別々には存在し得ない。


私たちは、人と人との関係(間柄)あっての存在、という意味で、「人間(じんかん)」と書いて、「にんげん」と呼びあっているわけです?


私たちは、苦しい時、誰かに自分の話を聞いてもらいたくなります。


「話す」行為を通じて、自分の内側に留まっている苦しみや苛立ち、不安などを言葉にして外に現そうとします。


これは、「人間」である私たちにとって、とても自然な行為といえます。


そして、あなたの話を聞いてくれる誰かがいてくれることで、私たちは、それぞれ別々に「おひとり様」としてあるのではなく、不一不二(不異)の「お互い様」の関係としてあることを認識しながら、日々、暮らせるようになります。


そして、このような自覚が生じるには、何よりもまず、ここに書いたような「不一不二」や「縁起の関係」の意味を誰かから教えてもらわなければ、自分の経験を通じて「これが縁起の関係か」と深くうなずきながら確信できる日はやってきません。


なぜなら、私自身の経験から振り返っても、仏教の「縁起の理法」が、原因から結果に向かって一方向に流れる「因果の法則」のことではなく、「AなくしてBはなく、BなくしてAはない」両方向の関係であることを誰からも教えてもらえなければ、いまだに私は、「因果の法則」と「縁起の理法」とを混同したまま(無明のまま)、「四苦八苦」の人生を歩んでいただろうからです。。


私たちが生きている現実の世界は、「因果の法則」にではなく、「縁起の理法」によつて成り立っています。


もし、この世界が「因果の世界」であるなら、「原因」によって「結果」が生じるわけですから、たとえば、「今までより2倍働けば(原因)、成果(成績や利益)も2倍になるはずだ」という線形の関係が成り立つはずですが、実際にはそうなっていません。


ところが、仏教の「縁起の理法」を「因果の法則」だと勘違いしてしまっている人は意外と多く(これを「無明」と言いますが)、この勘違いが正されることなく、そのままいってしまうと「縁起の理法は役立たずだ」となってしまうわけです。


これは言い方を変えると、因果の法則に囚われている人には、私たちが実際に生活している「現実」(縁起の世界)のありのままの姿が見えない故に、無明から生じる「苦」の絶えない人生になってしまう、ということてす。


追記

今日は、縁起の理法から「不一不異」についてご紹介しましたが、「不生不滅」の意味を知ると、通常、考えられている「生まれたもの(原因)は、いずれ死ぬ(結果)」という因果にとらわれることなく、「現に今、生きているものは、生まれることなく(不生)、死ぬこともない(不滅)」という境地で、生き生きと生きられるようになります。

この文章を読んで、「縁起の理法」にご興味をもたれた方は、矢沢大輔のプライベートセッション、もしくは講話会にご参加ください。