先日、京都駅近くのお寺まで自転車を走らせ、紫陽花を見に行きました。
色とりどりの紫陽花を見ていたとき、突然、「キャーっ」と叫ぶ女性の声が聞こえました。
そちらの方向を見ると、紫陽花を見に来ていた二人連れの女性の一人が逃げまどっている姿が見えました。
すると、もう一人の女性が「虫、苦手なの?」と訊ねると、彼女は「ダメ、ダメ」と答え、「蝶々も?」と訊ね返すと、「蝶々もダメ〜」という二人のやりとりが聞こえてきました。
花を見に来たなら、そこには必ず、何らかの虫が存在しています。
紫陽花は、そのままここにあっていいけれど、虫は、そのままここにあってはいけない。
これが彼女の中で起こっている、矛盾であり葛藤です。
彼女は、もちろん、さまざまな生き物たちが生息している自然やジャングルの中では平和に暮らせません。
では、自然の中ではなく、たとえば都会であれば、不自由なく暮らせるかというと、ここまで述べてきた通り、どうやら適応できていないようです。
では、なぜ、このような矛盾と葛藤、つまり平和ではいられない反応が起こるのでしょうか?
それは、自分に起きている心理的、感情的反応に対する「気づき」がないまま、ここまで生きてきたからです。
ここで私は「気づき」という言葉を使いましたが、この「気づき」という言葉が何を意味しているか、ということにおいても、人それぞれ、ずいぶん異なるとらえ方がなされています。
たとえば、もし、私が彼女と直接会話を交わせたなら、彼女は私に対して、きっと「私は、虫を見た瞬間に起こる自分の反応、怖い、という反応が起こることに、ちゃんと自分で気づいています。そうでなければ、キャーっと叫んだり、逃げ惑ったりはしませんから」というでしょう。
でも、この発言は、気づきではなく、記憶からの応答によるものです。
「記憶からの応答」と「気づき」の違い。
この違いをはっきり自覚できるまで、即座の気づきがないまま、つまり、自分の反応に不注意なまま、「私」と、私ではない「虫」「花」との分裂、その二元性は維持されたままとなります。
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